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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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三十九、杜の姫達の産物

 朝餉を終えた頃に、水鏡(みずかがみ)が揺れた。きっと、汰木(ゆるき)が宮を訪れたのだろう。

 今日は夜も白々明けの内に、大王(おおきみ)真耶佳(まやか)は出掛けている。大王の遠駆けとなれば、大勢の従者(ずさ)がその後に列を作る。其れが何を引き起こすのか、亜耶は見えて居たけれど口にしなかった。

「亜耶さま」

 先ず聞こえたのは、(みお)の声。亜耶は八和尊(やかずほ)大蛇(おろと)に預け、水鏡を覗く。澪は真耶佳が出掛ける前に孕みを聞いて居たらしく、汰木には告げてある様だった。

「澪、汰木が来たのね。昨夜の(あま)(かみ)様の気配に驚いたのでしょう?」

「はい。私は気付かずに眠って居たのですが、時記(ときふさ)さまもお気付きの様でした」

「澪は赤子二人分の乳を出すのだもの、仕方無いわ」

「其れで、汰木が…」

「ええ、代わって頂戴」

 澪が汰木を呼ぶが、汰木はどうも主不在の宮内に入って良いのか戸惑って居るらしい。(きざはし)の辺りで汰木の声がし、澪は必死で水鏡の前に呼んでいた。

「汰木、いらっしゃい。そんな所からでは貴女の顔が見えないわ」

 亜耶の呼び掛けに、水鏡の向こうで月葉(つくは)が動く。出掛ける前に汰木が水鏡を使う事を、真耶佳に知らせてあると言訳(ことわけ)していた。

「そ、それでは…亜耶さま、二人目のお子、お目出度う御座います」

 汰木のおずおずとした声が小さく聞こえ、漸く水鏡に懐かしい顔が映った。ふわ、と亜耶が笑い掛けると、汰木は顔を赤らめて小さくお辞儀をする。

「有り難う、汰木。でもそんな遠慮は要らないの。真耶佳も澪も、求めないでしょう?」

「は、はい…」

 汰木は少し上気した頬の侭、亜耶の言葉に頷いた。汰木が着る婆の衣は美しく、そして汰木によく似合う。紅の刷き方も巧くなり、何より体が子を孕めるほど健やかになって居る。

 其れを告げると、汰木は益々真っ赤になった。未だ子は考えて居無い、と云う汰木に、亜耶は万木(よりき)とよく相談する様に助言する。

 亜耶の闇見(くらみ)に拠れば、汰木は悪阻が重い。所謂食べ悪阻だ。吐いて、食べてを繰り返し、母体への影響は大きい。

 其れは告げずに、亜耶は昨夜の話を始めた。

「私ね、真耶佳がそちらに行く前に皇子(みこ)同胞(はらから)では無いと言ったの。杜に帰る時には捨てて来い、と」

「え…?」

「事実、皇子は立太子(りったいし)の礼を経て、十五で大王になる。其の時に真耶佳も大王も、魚の杜に下がってくるわ。連れて来る事は出来ない子よ」

「………」

「でもね、私も子を持って、こんな愛しい存在を手放して何も残らないと云うのは酷だと思った」

「はい…」

 亜耶は其処で少し目を伏せて、悔恨の念を噛み締めた。八和尊が生まれてから、苛まれていた(わだかま)り。其れを正せはしないが、少しだけ償いになる方法があると教えて呉れたのは、綾だった。

「綾…綾と言うのは此の杜の守神なのだけれど…綾が、綿津見神様(わたつみのかみさま)と天つ神様から話があると、神夢(かむゆめ)で見せて呉れたの」

 真耶佳に、卵を与える。そうすれば真耶佳はその卵を育み吾子として愛し、(はふ)られて生むのだ。勿論、杜の子だから真耶佳が乳遣(ちや)りをする。乳母(めのと)は付けない。

 真耶佳の望みも大王の心残りも、そして亜耶の悔恨の念さえも天つ神が引き受ける。神夢では、そう約して呉れた。

「皇子は…如何為るのです?」

「大王になるわ。今、澪の腹に居る子を側近として」

「其れでは、皇子も独りでは無いのですね」

 亜耶の話を真面目に聞いていた汰木が、漸く微笑んだ。誰も皇子の味方をして居無い、そう捉えられても、不思議では無い話。澪が子を置いて行くと聞いて、汰木の心は少し緩んだ様に見えた。

「勿論、皇子の代の大后(おおきさき)にも汰木に仕えて欲しいわ。井波(いなみ)遊佐(ゆさ)、万木と共に」

「皇子は…どんな方を大后とするのでしょう?」

「今は未だ、誰も知らない姫よ。纏向(まきむく)(うから)の幾人かで来るには、剰りにも頼りない姫」

 其れを聞くと、汰木は思案する顔になった。もしかして、とその唇が動くのを、亜耶は肯定する。

 真耶佳は仕える人々ごと、宮を残して行こうとして居るのだ。信じられる側女頭(そばめがしら)忠実(まめ)な側女達、端女(はしため)さえも(なご)やかに。(くりや)も医師も、決して裏切らない杜の姫達の産物。

 どうか大后を支えてあげて欲しいと云うのと共に、どうか皇子をも支えて欲しいと云う母心が透けて見える。

「真耶佳さまの思い、亜耶さまの思い、汰木は確かに受け取りました」

 深く頭を下げる汰木に、亜耶は希う。いつか大王に立った皇子が遷宮して来た時に、今まで通りの優しい眼差しを、と。

 見れば、汰木の目元は少しだけ濡れていた。

「澪、汰木、此処からは二人で聞いて」

 汰木の目元を拭いに来た澪に、亜耶は声を掛ける。少し、声を潜めて。

「月葉にはもう見えて居るけれど、真耶佳には煎じ薬に気を付ける様に言って。勿論、汰木の薬でも時記兄様の薬でも無い」

「――其れは、此の宮に持ち込まれるのですか?」

「ええ、大王の妃に気を付けて」

南出津賀姫(ないづがひめ)…」

 澪がぽつりと言って、亜耶を頷かせる。大王と真耶佳に謁見を求めている、大王の古い妃だ。

 汰木は後始末をさせられるかも知れない、と亜耶が言うと、真耶佳さまの為ならその位、と力強く返って来た。真耶佳お気に入りの医師として、報いていこうと云う思い。

 真耶佳が信じた少女の思いを、温かく思った亜耶だった。

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