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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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三十八、卵

 寝苦しい七月(ふみづき)の夜、真耶佳(まやか)は亜耶の声を聞いた。夢現での事だ、真耶佳は声に背を向けて、もう一眠りしようとした。しかし、亜耶の声は大きく響く。曰く、桜の下に行け、と。

――真耶佳、(あま)(かみ)様がお出でよ。早く行って。

 一際大きな声で響いた其れに、真耶佳は飛び起きた。横には、普段通りの大王(おおきみ)。けれど確かに、清浄なる気が此の宮で強まって居るのを感じる。

 真耶佳は急いで寝座(じんざ)を降り、(きざはし)をそっと下りて(くつ)を履いた。見遣った高台の上には、黄金の光。亜耶の声は、正しかった。あれは、天つ神の光なのだから。

 慌てて一人、高台を目指した真耶佳に天つ神は微笑んだ気配。よう来た、と真耶佳に向かって手を伸べた。

「母后、吾子(あこ)の他に子が欲しくは無いか?」

 未だ息切れする真耶佳に、天つ神は鈴の鳴る様な声で尋ねる。大王の子は、どんな女にも一人きり。そんな根幹を揺るがす問い掛けだった。

(あかとき)(きみ)の子は、一人の女に一人切りと…」

 戸惑いがちに答えた真耶佳に、天つ神はふふ、と笑う。

「杜に連れて帰れる子だとしても、要らないか?」

 生まれてくる子は、同胞(はらから)では無い。亜耶の冷たい声が、こんな時に思い出される。亜耶は、認めるだろうか。真耶佳が杜に、子を連れ帰る事を。

「母后、綿津見(わたつみ)の許しは得てある。其れに、此処まで其方を追い立てたのは誰ぞ?」

「亜耶…」

「認めて居るのだよ、心砕く事は無い」

 其処で、誰かが高台に昇り来る気配がした。大王だ。真耶佳を探し、天つ神の光に気付いたのだろう。覚束ない足取りで頂点まで昇れば、上機嫌な天つ神と悩み顔の真耶佳だ。

「暁、お前はどう思う?」

「はっ?」

「杜の赤子を母后に与える。もう一人、其方等に子が増えるのじゃ」

「暁の王…」

 真耶佳が、悩みに暮れた瞳で大王を見る。(くが)の港で、亜耶には子は同胞では無いと言われた。あれは皇子(みこ)の事、とずっと思って居たが、こんな話になるとは、である。

「母后、此処に其方を呼んだのは誰ぞ?」

妹姫(おとひめ)で御座います…」

「そう、其の妹姫君が悩むから、綿津見が動いた。そして(わらわ)に、卵を遣って呉れと来た」

 其処までで、天つ神は高笑いをした。皇子を手放した後の母后が心配だったのだ、と天つ神は締め括った。大王は長命だ。しかし、真耶佳には其の後もある。子が居た方が良いと亜耶は神殿(かむどの)訥々(とつとつ)と綾に語ったのだ。

「共寝を終えたばかりよの」

 真耶佳の返事を待たず、天つ神は手に光る玉を持って居る。

「我は、子が居ても良いと思うぞ、真耶佳」

「暁の王…」

 真耶佳がほっと意気を吐いた所で、天つ神は玉を真耶佳の下腹に埋めていく。不思議と痛みは無く、鋭い光を放って玉は真耶佳の腹に吸い込まれて行った。

「安心せえ、女子じゃ」

「そう、なのですか」

「杜の子、詰まりは真耶佳が乳を与えても良い子だな」

 大王が言って、真耶佳の表情を綻ばせる。皇子は大事。けれど(みお)の乳で育った子だ。大和の子、其れが一番当て嵌まる。

 澪は良く遣って呉れて居るし、其の働きに文句は無い。寧ろ吾子を守って呉れて、愛しささえも覚えて居る。

「澪にも、事情を話すべきだな」

「ええ」

「其方等、明日は遠出をするのだろう?こんな早くに起こして、悪かったのう」

 そう、大王は夜が明けたら、白矢(びゃくや)に真耶佳を乗せて遠駆けする積もりだった。其れは構わぬのかと天つ神を見ると、天つ神はそっと真耶佳の腹を撫でた所だった。

「未だ母后の体に異変が出る程でも無い。ゆうるりと行って来ると良い」

 天つ神がころころと笑う。何故笑うのかと真耶佳が見て居ると、ほんのりと天つ神が触れている腹が温かくなってきた。

「馬上は冷える。其れに(いお)(もり)とは女子の馬の乗り方が違うてな」

「え、違うのですか?」

「ああ。其方が片膝を折って乗って仕舞えば、暁と共乗りは出来まいて」

 真耶佳は言われて見れば、と白矢の背を思う。二人乗りの鞍を着けても、美しいだろう。けれど真耶佳は如何乗れば良いのか分からない。

「真耶佳、()の下に袴を履いて呉れ。其方も跨がるのだ」

「えっ、跨がるのですか?」

 驚く真耶佳を余所に、天つ神は婆からの荷の中に袴がある、と云う。婆は子が生まれた後の大王と真耶佳の遠駆けについて聞いて、先に荷に入れて呉れている、と。

「ほんにあの(おうな)は、善き者よ」

「天つ神さまも、杜に魅せられてお出でか?」

「ふふ、そうかも知れぬな」

 遠く濃い血で結ばれた天つ神と大王が、分かり合った様な事を言う。真耶佳は其れが微笑ましくて、腹に置かれた天つ神の手に、両の手を重ねた。

「母后よ、妾まで愛して呉れて有り難う。其方等三姉妹は、本当に器が大きい」

「そうだな。澪も亜耶姫も真耶佳も、大切なことは生まれ乍らに知って居る姫。しかしその次兄も善き者ですぞ天つ神さま」

「うむ。あの者が居る限り、其方等妹背は安泰じゃ」

 ふっと、天つ神が微笑む気配がした。して、何と名付ける。そう真耶佳に問うと、天つ神はそっと真耶佳の頬に触れた。

杜子(とうこ)と…」

「そうよの、杜の姫故。あの杜の美しさは、格別じゃ。妹姫君が妾の覗き見を許して呉れるから、つい見入って仕舞う」

「え、亜耶が許しているのですか?綿津見神様で無く?」

「ああ。あの姫は、本当に懐が深い。いつか来る日を、思っての事だろうな」

 真耶佳が不思議そうに首を傾げると、天つ神は聞いて居無いのか、と言う。真耶佳には何の事だか分からず、困って仕舞った。

「妹姫君は、子の愛しさすら知らぬ侭に吾子を同胞では無いとした。しかし、妹姫君が子を生んで、如何(いか)に酷だったかと悔いて居るのだ」

「亜耶が…あんなに厳しい表情で言ったのに…」

「思いは変わる。妹姫君は其れ故、女子を生む事を躊躇し始めて仕舞った」

「亜耶が、姫を、生まない?」

「生みはする。ただその後の苦しみが、未だ受け止め切れて居無いのよ」

 すると、其れまで黙って居た大王が口を開いた。

「天つ神様、其れは今知らせなくても良い事。魚の杜に帰れば、自ずと知れる事です」

「ああ、そうよの。妾の口から話してはならぬな」

 天つ神は一つ息を吐いて、真耶佳の腹と頬から手を離す。真耶佳は貰ったばかりの温もりが消える様で名残惜しかったが、今宵の語らいは此れで終わりなのだろう。

「天つ神様、有り難う御座いました」

 真耶佳が膝を跪こうとすると、天つ神は其れを優しく制した。母后は大王と対等、其れは此の宮で共に暮らす事からも、皆に知れている。そして、其れは天つ神の愛子(まなご)だと云う証だと。

 そっと真耶佳を抱き締めてから、天つ神は以前来た時と同じ様に桜の木を介して天つ国に帰ると言った。

「どうか、また…」

「ああ、妾も其れを望んで居るぞ」

 大王が話し掛ける間も無く、天つ神の光は天に還って行った。二人に、不思議な子を残して。

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