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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇 二の章

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四十、天香具山

 大王(おおきみ)真耶佳(まやか)は、白矢(びゃくや)の背で細波を見て居た。遠駆けと云うには馬は駆けているのかいないのかの道筋。白矢の後には大王の従者(ずさ)舎人(とねり)が随分な列を作っている。

「此方の海はどうだ、真耶佳」

「矢張り、違うものですね…色も、浜に立ち込める花の香も」

「そうか。杜の碧い海とは違うのは、我にも分かる」

 一旦停めた馬を再び歩かせ、大王は海辺を離れようと言う。真耶佳も頷いて、其の侭目を(みは)った。前から、大王の馬列そっくりの一団が来るのだ。

 真耶佳と同じものを見たのだろう。大王は直ぐに白矢を道の端に寄せた。背後からは、大王を責める様な声。其れはそうだろう。此の大和を統べるのは、大王なのだから。

 けれど前から来る一団は、先頭は白矢に好く似た馬に大王と顔や衣装まで同じ美豆良(みずら)高貴(あて)な者が跨がり、続く馬列も此方の馬列と同じ装飾をしてある。違うのは、唯一真耶佳が居無い事だけ。

「御名を、お聞かせ願いたい」

 擦れ違い様大王が、先頭の男に声を掛けた。勿論、最高の礼を取っている。

「吾が名は、一言主命(ひとことぬしのみこと)大后(おおきさき)の孕みを(よみ)する」

 此方を一目たりとも見ず、一言主命は馬列ごと空へ昇って行った。霊眼(まなこ)を持って居無くても見えるものだったらしく、大王の従者達は驚きの声を上げている。

「静まれ!一言主命が背を崇めよ!」

 大王のその号令で、従者達は漸く静まった。柏手を打って見送る者も出る中、大王と真耶佳は昇って行く馬列を見送るのだった。




 一言主命を見送った後、馬列は従者達の興奮を抑えるための時間を要した。其れ故大王は、行く先を変更すると言う。大和の地には、真耶佳に見せたき物は幾つも有る。そう言って手綱を引いた大王は、海辺から然う遠くなく見えた山を目指して居る様だった。

「真耶佳、天香具山は知って居ろう?」

「はい」

「此れが、其の天香具山よ」

 大王が馬を停めた所で、近くは無く見える山を指さされる。此の位置からならば青々とした山と、麓に薄紅色の花が群生して美しい。此れ以上近付くと、山の麓の族に見付かって仕舞うのだろう。大王は崇められるのを好かない帰来がある。騒ぎを避ける為、少し遠くから天香具山を見せたのか。

「此の眺めはな、我が母が好んでいた物なのだ」

 真耶佳の予想を打ち砕く形で、大王は問わず語りに語り出した。丁度此の時期、山麓に薄紅の花が重なって見える。鼻炎が酷くて近くで花を見る事の叶わなかった前大后(さきのおおきさき)も、此の眺めが好きだったと。

(とて)も美しい眺めですわ」

 真耶佳が優しい笑みを浮かべて答えると、大王はうむ、と言って真耶佳の腰を抱いた。

「其方の腹から、再びの吾子が生まれる。其の前に、見せて置きたかった」

「まあ…」

 大切な母の思い出を、真耶佳と共有する。若しかしたら大王は、時記(ときふさ)(みお)が羨ましくなったのかも知れない。けれど、其れは真耶佳も同じ事。

「嬉しいですわ、愛しい(あかとき)(きみ)

 二人は暫く馬を停めて、近くも遠くも無い天香具山を眺めて居た。山麓は風が出て来たのか、薄紅の花が揺れる。眺めて眺めて目に焼き付けて、漸く日が傾いた頃。大王が、白矢の背を撫でた。

「真耶佳、宮へ帰るか」

「…お名残惜しいですが、日が傾いて参りましたものね。皆に心配を掛けて仕舞います」

「うむ。白矢、頼むぞ」

 大王が軽く手綱を引くと、白矢も心得たとばかりに歩み出す。此の長い時間をただ待って呉れた大王の従者達も出来た者。直ぐに馬列となって、北の宮までの帰路を共にした。




 帰りの白矢の上で、真耶佳は考えて居た。一言主命の事を、亜耶が見えて居無かった筈が無い。月葉(つくは)もだ。

 何故、誰も大王に言おうとしなかったのか。月葉は亜耶に先導されて口を開く事が多いから未だしも、亜耶は何故。

「暁の王…」

「どうした、真耶佳」

「何故、亜耶は…」

 真耶佳が言い掛けると、大王はふ、と息を吐いた。

「亜耶姫に頼り切りではならんと、我は受け止めたがな」

「え…?」

「我が道を譲らねば、其方は奪われていただろう。其れは亜耶姫にも見えて居たと思う」

 自分が奪われていた。真耶佳は思いも拠らなかった答えに、ただ戸惑う。

「けれど亜耶姫が我に伝えなかったのは、大事な姉姫(えひめ)を任せるに値すると信じて呉れた…我はそう思って居るのだ」

「暁の王に、任せた…?」

 大王は鷹揚に頷いて、誇らしげに笑った。(いお)(もり)に、日々受け容れられていると。その笑顔を見て居ると、真耶佳も嬉しくなって来る。大王が退位すれば、大王と真耶佳は只の妹背だ。其れは、魚の杜が言い出して大王も受け容れた事。

 元より魚の杜に強い郷愁の様な物を抱いていた大王だ。真耶佳に最期を見せないと云う約と共に魚の杜に下がれる事を、迚も喜んで居た。

 其処に、亜耶からの信頼を表すような出来事。巫王と違って酒も飲み交わして居無い、直接相見えた事も無い亜耶からの此度の計らいは、大王にとって嬉しいのだろう。

 大王と居れば、真耶佳の不安も消えて行く。大王が帰ったら亜耶と話したいと言うから、真耶佳は言った。

「此の様な事を秘して居たのですもの、亜耶も水鏡の前で待って居りますわ」

 真耶佳は、白矢の上で大王に身を預けつられて笑う。月が中天に上る頃、行きには無かった松明の灯りを伴って大王と真耶佳は北の宮に帰り着いた。




 従者に白矢を預け、宮に入った頃にはもう側女(そばめ)達は仕事を終えている筈。二人はそう思って居たのだが、何やら宮内には良い匂いがする。背後で門に(かんぬき)を掛けられる音を聞き乍ら、大王と真耶佳は顔を見合わせた。

「大王に真耶佳さま、お帰りですね!」

 響いたのは、井波(いなみ)の元気な声。よく見れば(くりや)には未だ火が灯っており、良い匂いの正体を知らせる。

「皆お二人が帰るまでは食べないと、待って居りますよ」

「何と!其れでは急いで着替えねばな、真耶佳」

「はい。皆がお腹を空かせて待って呉れて居るなんて…」

 井波に礼を言い、慌てて宮の階を昇った二人を待っていたのは、側女達の祝福だった。朝が早すぎて、皆真耶佳の孕みに何も言えなかったのだ。

「真耶佳さま、お子を孕んだなら一言仰有って下されば良かったのに…」

 各務(かがみ)が孕んで直ぐの遠駆けを心配し過ぎて汰木の庵に行った事を明かすと、真耶佳はふふっと笑う。

「天つ神様のお口添えが有ったから、大丈夫よ」

「汰木にも、普通ならば孕みに気付かず動いている頃だから大丈夫、と言われたのですよね、各務」

 香古加(かごか)喬音(たかね)がからかう様に言うと、各務は真っ赤に為って仕舞った。各務のこんな表情は滅多に見られないので、真耶佳は思わず目が離せなくなる。

「ま、真耶佳さま…見ないで下さい…」

 遂に各務が顔を隠し始めた所で、丁度夕餉が運ばれて来た。各務はほっとした表情を

浮かべて、井波と遊佐(ゆさ)から器を受け取っていく。今日の香りは、牛の煮込みだ。大王が大いに喜んだところで、皆で夕餉を囲む。

「幸せだわ」

 真耶佳がぽつりと漏らした言葉に、大王も杜の面々も側女達も笑った。

「所で、我に余り良くない知らせが有る様だの、澪」

 食欲は其の侭に、少し眉間に皺を寄せて食べていた澪が、びくっと体を揺らす。大王は人をよく見て居る上に、勘が良い。澪は今朝の魚の杜との遣り取りを、残さず大王と真耶佳に聞かせる羽目になった。

南出津賀姫(ないづがひめ)…はて、誰だったやら」

「三日後に謁見を申し込んできている大王の妃ですわ」

 月葉が助け船を出すが、大王はそんな名だったかと悩む。更に月葉に孫の居る妃です、と言われて漸く頭の中で繋がったらしい。そんな妃が何の用だ、とありありと顔に書いて有る。

「煎じ薬に、気を付ける…?一体何を持って来るのかしら」

「南出津賀姫は、皇子の誕生の折にも禍々しい贈り物をして来た妃。何を持って来ても驚きません」

 時記が珍しく強い口調で言う。時記が言うには華やかな色の花籠と偽って、赤子には毒となる花を多く贈って来たそうだ。直ぐに内密に処分したが、黒い針も多く刺さっていたと云う。

「真耶佳、三日後は紫の衣を着て呉れ。妃と大后の格の違いを見せ付ける様に」

「そんな事をしては…」

「大丈夫だ、朝霞は澪に預ける」

「はい…」

 少し不安げな真耶佳と、厳とした意志を感じさせる大王。其処に月葉が、汚れ仕事は自分が引き受ける、と優しい笑みを浮かべた。

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