夕暮れ色の思い出
放課後の旧音楽室からは今日も美しいピアノの音色と共に透明感のある伸びやかな歌声が聞こえる。
2人は練習に集中して気付いていなかったが、もう室内は外の景色と同じ夕暮れ色に染まり下校の時間が近づきつつある。
最後の音を弾きおえると彼女は「うん、完璧!きっともう大丈夫だよ」と鍵盤にそっと置いていた指をあげた。
「そうかしら…?私はまだ不安なんだけど……」
あれから鞠は彼女と放課後休まずに練習した。
彼女のおかげで鞠はもう一度歌えるようになったし、むしろ彼女のアドバイスのおかげで前よりも表現力豊かに伸びやかに歌えるようになった。
確かにいつ戻っても大丈夫なぐらいには仕上がっていだが、それでも鞠は不安だった。
「最初上手く伸びなかったところがもうすっかり綺麗に伸びるようになったでしょ?なにより、めちゃくちゃ聞いてて気持ちいいけどなぁ…。
たぶん、鞠が気になってる所は皆と合わせて調整する部分だと思うよ?合唱曲なわけだし」
「そうだけど、でも…」
「当ててあげようか。自分が今さら戻ったら更に迷惑かけてしまうんじゃないか?ってことを心配してるんでしょ」
「ええ、だって先輩の思いやコンクール1位への皆さんの思いをふみにじって自分勝手に部活を抜けていったのに急に戻ってきたら迷惑よ...」
鞠自身、とても自分勝手だと思っている。
勝手に逃げるように止めていったくせに、戻りたくなったら戻ってくるなんて非常識だ。
やっぱり戻らずにいたほうが…と鞠は怖じけづいてしまう。
ここまで彼女に協力してもらったのにと申し訳ない気持ちになり俯いた。
やっぱり諦めたほうがいいのかも…と思いはじめていた鞠と違い彼女は「そうだね」と、とても冷静だった。
「まぁ、少なからず文句は出るだろうね。でも、そんなときこそ歌うんだ」
「歌うの…?」
「そうだよ。鞠らしく歌えばいい、きっとそのほうがストレートに伝わると思う」
そういって彼女は鞠の前に立って微笑んだ
「鞠は生きてるんだから何回でもやり直せるよ。だから、こんなところで躓いてたらダメだよ」
柔らかく微笑んだ彼女の透明な身体は夕暮れ色に色づいているみたいに見えた。
「それにやっぱりボクは鞠と違うしね。ボクはキミの背を押してあげることもできないしさ」
なんとなく彼女がどうしたいのか鞠にはわかってしまった。
誰かと一緒にいたいなんて今まで考えたことがなかったのに彼女に一方的にこうして突き放されるのはとても辛い。
涙で視界がじわじわ滲んで余計に目の前の彼女が消えそうなぐらいきらきらと輝いて見える。
「っ、別に私はそんなことしてもらえなくても…私は…っ」
「でもさ、触れられないのは…悲しいよ」
涙をぬぐってくれようと彼女が私の頬に手を伸ばすけど、その指を通り抜けて涙が頬をつたい落ちた。
一瞬、なんともいえない悲しげな表情を見せたあと、それから意思の強い瞳でしっかりと鞠を見つめながらはっきりと告げる。
「ボクに出来るのはここまで。心細いかもしれないけど鞠は一人じゃないよ、音楽はいつも君の側にいる。
だから、鞠は自分のいるべき場所に戻って。
名前も知らない幽霊の隣より鞠にはもっと鞠らしくいられる場所にいてほしいな」
「…私は…っ」
「ボクは憧れや夢を追う、そんな鞠が一番好きだな」
いつになく真面目な彼女の表情をみて鞠はなにも言えなくなり、鞠は鞄をひっつかみ教室を飛び出した。
旧校舎の階段を駆け下りていると下校時間を告げる鐘が鳴る。
いつもなら旧校舎を出てすぐに振り返り窓から見える彼女に小さく手を振って帰るが、鞠は振り返らなかった。
涙を手で拭ってから旧校舎を背に駆け出す。
「狡いわ…っ」
彼女の優しさなのかもしれないけれど、「ボクは憧れや夢を追う、そんな鞠が一番好きだな」なんていうなんて狡いと思った。
―――その後、鞠は合唱部へと戻ることになった。
想像通り、栗崎先輩以外の周りからは困惑や非難の目が向けられたけれど彼女のアドバイス通りに鞠はいまできるすべてを出しきるよう歌ったのがよかったのか、合唱部に戻ることができた。
戻ってすぐはギクシャクとしてしまう雰囲気があったが、栗崎先輩や他の先輩方が纏めてくださったり揉め事は起こらなかった。
鞠も以前と変わった、以前よりも鞠はこのメンバーでコンクール1位を目指す気持ちが強くなった。
自分が大切なパートを任せて貰えたことは、心が震えそうになるけれど誇らしい気持ちにもなった。
任せられた以上、手を抜けないからこそやりがいもあるしどうしたらいいか部員達と試行錯誤するのも楽しかった。
「栗崎先輩、ソロパートの入りをもっと綺麗に入りたいんですけど、どうしたらいいですか?」
「そうねぇ…。うーん……、ならこうしてみるのはどう?」
鞠は今も変わらず栗崎先輩を憧れているが、以前よりも近く感じるようになった。
今までただ先輩の後ろで憧れるだけだったけれど鞠自身が夢を追うようになりはじめて先輩の隣に立って同じ夢を見えるようになったのも嬉しかった。
鞠はコンクールに向けて合唱部で忙しい日々を過ごしながら、時々 窓から見える旧校舎の建物を見て彼女のことを思い出した。
あれから何ヵ月も彼女に会っていない。
あの賑やかな声が、彼女の風変わりなアリアが恋しい…。
ただ、今の鞠にはコンクールで1位をとるという大きな夢があった。
その夢は以前よりも現実的で、大きなものになっていた。
こんなときに戻ってきたら彼女に怒られるかもしれない、それに彼女が好きだと言ってくれた私でいたい。
それに鞠には彼女が教えてくれた音楽がある。
彼女は鞠にたくさんの技術を教えてくれた、だけどそれ以上に音楽を楽しむことを教えてくれた。
歌を歌えば、すぐ側に彼女がいてくれている気がする…。
彼女の愛する音楽さえあれば鞠は頑張れる気がした。
鞠は彼女が恋しい気持ちに蓋をし、このコンクールが終わるまでは部活に集中することを決めた。
コンクールが近づけば近づくほど休日も練習漬けで忙しかったが入部したときよりも遥かに鞠は毎日が充実していると感じた。
(ここが彼女の言う私のいるべき場所なの?ううん、今はそんなことよりコンクールのことが最優先よ。後悔しないように全部出しきるのよ)
鞠は部室のカレンダーに赤ペンでバツ印をつける。
花丸で囲まれたコンクールはもうすぐだ、迷っている場合じゃない。
とにかく鞠は自分に今できることを全力でやろう、そう思った。




