第8話 ぎゅってして
街の夜は暗い。電力とは貴重なものであり、限られた場所でしか使うことを許されない。加えて、イチが住んでいる辺りは少し外れに当たるので、日が沈めば真っ暗だった。だがその分暗闇に慣れているので、外れを住処とする者は夜目がよく利いた。特に今日は月が出ていたので、光源を持たなくても、問題なく夜道を歩くことができた。
トトハの家までの道を、並んで歩く。ひやりとする夜風に、イチはトトハの剥き出しの腕が気になった。
「寒くないか?」
「ん?」
「腕、寒くないのか?」
「ああ、ちょっと冷やっこいけど、大丈夫やで」
確かに寒そうなそぶりは見せないが、トトハは少し我慢しすぎることがある。なによりやはり、その腕は傍目には寒そうにしか見えない。イチは歩きながら上着を脱ぐと、トトハに差し出した。
「着てろ」
「ええって。イチこそちゃんと着とりな? 具合悪ぅて寝てたんやし」
「ただの飲み過ぎだ。ていうか、見てて寒そうなんだよ」
「そっか。じゃあ借りよかな」
受け取ったトトハが上着を羽織る。体格差のせいで、半ば服に着られているような見た目だった。合わせを引き寄せるようにしたトトハが、へへっと嬉しそうに笑う。
「あったかぁ」
しばらく歩くと、やがてトトハの住んでいるアパートが見えてきた。その三階まで上り、トトハの部屋の前で立ち止まる。だがトトハはなぜか、すぐに開けようとはしなかった。
「どうした?」
窺うように言うと、どこか俯きがちになったトトハはぽつりと言った。
「なぁイチ」
「ん?」
トトハはどこか言い淀むようにしながら、ぽつぽつと続ける。
「うち……うちな、イチがやることは止めやん。イチにはイチの人生がある。イチがなんであの生き物をやっつけたいのかも知っとるし、うちに口出しする権利がないのもよう知っとる。やけど……」
言いさし、その顔を更に俯かせる。
「今日ずっと……怖かった」
トトハはなにかをこらえるように、上着の合わせをぎゅっと握った。
「警鐘が鳴って高いとこに避難して、解除されてからすぐにイチの家行ったけど、イチおらんくって、まだ帰ってへんだけかなって思って一回家に帰って、ちょっとしてからまた行ったけど、イチおらんくて」
その声が、次第に震えを帯びていく。
「帰ってへんだけかなって、なんか用事しとるんかなって思った。でもやっぱ心配になってしもて、でも、何回行ってもイチおらへんくって……。せやからうち、イチが……」
揺れる瞳が一気に溢れた。
「あの生き物に、食べられてしもたんかなって……もう、おらへんのかなって……うちまた、一人になってしもたんかなって……」
イチは思わずトトハの体を抱き寄せた。抱き締めた体は酷く華奢で、酷く頼りなく、胸が苦しくなる。
「悪い……心配かけて……」
すると腕の中で、トトハがふるふると首を振った。
「ううん、イチは悪ぅない。悪ぅないんよ。うちが勝手に心配しとっただけ。ごめんな、ほんとは泣くつもりもあらへんかった。さっきは我慢できたのに……」
腕の中でトトハは、必死で声を押し殺そうとしていた。それでも僅かに零れる泣き声に、イチはたまらなくなり、抱き締める腕に力を込める。
自分がトトハをどれだけ心配させたのか、どれだけ不安にさせたのか、ようやくわかった気がした。あの時のことを、思い出させたのかもしれない。もうトトハには泣いて欲しくないと、思っていたはずなのに。自分は本当に酷いことをしたのだと、胸が締め付けられる。
なぜ一度でも家に帰らなかったのか。せめてトトハに顔を見せることはできたはずだ。それなのに自分は、ヨミのことに気を取られ、トトハのことを考えてもいなかった。心配をかけると、わかっていたはずなのに。
トトハは腕の中でしばらく泣いていたが、やがて少しずつ落ち着いていった。だがこのまま一人で置いていっていいものかと、イチは思ってしまう。落ち着いたようではあるものの、まだ不安も残る。どうすべきかと思っていると、トトハが小さく言った。
「なぁイチ、今晩一緒におってくれへん?」
一瞬耳を疑う。戸惑うイチに、だがトトハは沈んだ声で言った。
「あかんかな」
トトハはそう言ったきり、なにも言葉を継がない。トトハは一人暮らしで、歳はイチの二つ下なだけだ。それを思うとあまりよくないような気もするのだが、今のトトハはそこまで思いが及んでいないのかもしれない。そしてイチは、こんなにも不安げなトトハを突き放すなど、できるはずもなかった。
「わかった。いてやる」
この街に来て一年近くが経つが、トトハの住むこの部屋に入ったのは久し振りだった。来た当初はトトハの世話もあって何度か出入りしたが、トトハが少しずつ自力で生活ができるようになると、アパートに世話人がつけられていたこともあって、あまり訪れることはなくなっていた。トトハは寂しがっていたが、やはりなにより、チトセがトトハに対してあらぬ印象を受けるのを避けるためだった。
古びた布をカーテン代わりに引かれた室内は暗く、だが闇に慣れた目にはさほどの労苦もない。ベッドと必要最低限の物しかないような部屋に、トトハに続いて入ると、壁越しに置かれたベッドの前でトトハが立ち止まった。
「イチ、壁側」
椅子にでも座っていようかと思ったのだが、トトハの有無を言わさぬ勢いに、言われるままにベッドに上がり、壁際の方に行く。トトハは傍の机に外した眼鏡を置くと、同じくベッドに上がり、横たわった。
「イチも横になって」
イチは一瞬迷ったが、暗がりでもわかるほど目を腫らしたトトハに、仕方なく狭いベッドの上、トトハの方を向くようにして横になった。するとトトハがもぞもぞと動き、イチの胸元に頭を押し当てるようにして縮こまる。そしてほんの小さな声で言った。
「……ぎゅってして」
イチは戸惑いながらも、やり場のなかった片腕で、トトハをそっと抱き締めた。
そのまま沈黙が流れたが、しばらくすると、やがて胸元の方から静かな寝息が聞こえてきた。どうやら眠ったようだった。
イチはトトハを起こさないように、小さく息をついた。
トトハはイチのことを常に心配し、女性絡みの話をすると、少し拗ねたような態度を取る。自分を異性として見ているのだろうか、と思ったこともあったが、トトハはイチのことを家族と言って憚らないので、そうではないのだろう。
ふいに、あの時のことを思い出した。
□ □
トトハに会ったのは一年半ほど前、この八番街からほど近い、当時トトハが住んでいた二十一番街でだった。
イチがいた街より大きく、だがこの街よりは小さかったそこで、トトハは両親と祖父母と一緒に住んでおり、そこに、イチは半ば行き倒れのような状態で辿り着いた。
我流で『刃持ち』としての力を鍛え、訪れた街で『遣い』が現れれば倒し、依頼や日雇い労働で日々を繋いでいたのだが、都合のよいものが見つからない日が続き、それが尽きて久しい時だった。街の外れで倒れていたイチを、トトハが見つけ、家まで半ば引きずって運んだらしい。
気がつけばイチは、トトハの家で介抱されていた。トトハ自身はもちろん、その両親や祖父母もとても優しい人で、どこの何者であるかもわからないイチが動けるようになるまで、家に置いてくれた。
元々交通の要衝として栄えていた街で、イチのように流れ着く者が多かったらしく、彼らはイチのことを一切聞こうとしなかった。だがこの先旅が続けられるようにと、日雇いの仕事を紹介したりもしてくれた。そして体調もすっかりよくなり、そろそろ街を出ようとしたその矢先、あの音が鳴り、『遣い』が現れた。
低く遠く、響く音。砂に埋もれた世界の中で、その街も他のほとんどの街と同じように、海岸沿いに位置していた。そして砂の海から、奴らは現れた。
その街にはチトセに似た自警団があったが、『遣い』の襲来は一度も経験がなく、四人の『刃持ち』は交戦経験もなかった。そこに四体の『遣い』が現れた。
その街の壁は、イチがかつていた街と変わらない程度の規模しかなく、『遣い』はそれをあっさりと食い破った。あらゆるものを破壊し食い尽くす『遣い』に翻弄されるように、一人、また一人と食われていく。偶然その場に居合わせたイチは、自身が『刃持ち』であることを明かし、街の『刃持ち』達と共に戦ったが、人々を護りながら戦うという不慣れな状況に思うように動けず、どうにか二体を倒した時には、街は半分以上食われていた。
トトハは、あの家族は無事なのか。一人残った『刃持ち』と共闘しながら、そればかりが頭を占めていた。だが人を食った個体は変質し、その体表が硬くなる。街の人達を食ったその『遣い』も、例にもれず変質し始め、次第に刃が通りづらくなっていた。それでもやっとの思いで一体を倒し、最後の一体を探す。建物を食らい崩す轟音の先に、そいつはいた。




