第7話 女の人と飲んどったん?
頭痛はなかなか消えなかった。家に戻って水を飲み、横になってからしばらく経つが、胸の気持ち悪さが多少よくなった気がする程度だ。もう二度と酒は飲むまい、とイチは思った。
日は沈み、明かりのない暗い部屋に、窓から四角く区切られた月明かりが差していた。
そうやってどれだけ過ごした頃だったか、ふいに通路の方で足音がし、ドアがノックされた。
昼間にしか聞かないそれに少し驚き、ベッドから体を起こすと、ドアの向こうから遠慮がちな声が聞こえてくる。
「イチ……おる?」
トトハだった。イチは急いでドアに向かうと鍵を開け、内開きのそれを引いた。するとドアの向こうにいたトトハが、イチを見上げ、泣きそうな笑みを浮かべた。
「よかったぁ。無事やったんやね」
「どうした、こんな時間に」
言いながら、体を引いてトトハを部屋に入れる。
トトハは暗がりの中で、ベッドの白いシーツを凝視し、背嚢の周りをきょろきょろと見た。それから再びイチの傍まで来ると、全身をくまなく見つめる。
「な、なんだよ……」
あまりにまじまじと見つめるので僅かに体を引くと、トトハはなにかに納得したように、うん、と頷いた。
「怪我も、しとらへんみたいやね」
状況が飲み込めないイチに、トトハが少し沈んだ声で言う。
「今朝、あの生き物が出たやろ? そのあと、イチの姿が見えへんかったから、大丈夫やったんかなって、心配になって……」
それで思い出した。トトハがイチの家に来るのは数日に一度ぐらいだが、『遣い』が出た日には必ず来るのだ。イチの安否を確かめに。
「わ、悪い。今日はずっと外にいたんだ。怪我もしてない。大丈夫だ」
慌てて言うと、ふいにトトハがなにかに気付いたように鼻をすんすんと鳴らした。
「あれ? イチ……」
そのまま背伸びをするようにして、イチの口元に顔を近づけてくる。
「なっ……」
急速に近づいてくる顔に焦るイチだったが、トトハはすぐ傍でもう一度鼻をすんすんと鳴らすと、背伸びを戻し、イチを見上げながら怪訝そうに言った。
「イチ、お酒飲んだ?」
そう言われ、ああそのことかと、イチはやっと冷静になった。
「ああ、ちょっと成り行きで……」
「今まで飲んどったん?」
「いや、たぶん飲んでたのは昼前かそれぐらいまでで、そのあとは……寝てた」
「うち、お昼過ぎてからも何回かここ来たけど、イチおらへんかったよ? それとも、うちに気付かんと寝てた?」
「いや、寝てたのはここじゃなくて……」
とまで言いかけ、これは説明しづらい事態ではないのか、と遅れて気付いた。
「誰かの家で飲んどって、そこで寝とったってこと? イチそんな仲のええ人おったっけ」
失礼な物言いだが否定できない。この街でこうして話すのは、ほとんどトトハぐらいなのだ。
「いや、今朝の討伐のあと、チトセの研究者に話が聞きたいって言われて、待ち合わせた場所が酒場だったんだ」
「え? チトセの人とおったん? 大丈夫やった?」
トトハが驚くのも無理はない。イチはチトセによく思われていない。ムツキに言われたことは、そのままチトセ全体が思っていることと言っても過言ではないのだ。
「ああ、別に俺を捕まえるとかどっかに監禁するとかそういうんじゃなくて、純粋に、話が聞きたいってことだったから」
「そう……」
静かに返したトトハは、だがその表情を再び怪訝なものにする。
「でもそれで、なんで潰れるまで飲んどったん?」
「脅されたんだよ。飲まなきゃチトセに通報するって。まぁ面白半分に言ってたんだろうけど、この先それで支障が出るのも腹が立つし、つい……」
思えば、記憶にある最後まで、ヨミは酔った様子がなかった。かなりのペースで飲んでいた気がするのだが。
「ったくあの女、どんだけ酒強いんだよ……」
「……女?」
トトハがぽつりと言った。イチは己の失言に気付いたがもう遅い。
「女の人と飲んどったん?」
「あ、いや……」
濁そうとするが、まっすぐにイチを見つめるトトハの視線には、妙な圧がある。イチは観念して答えた。
「……飲んでた」
すると、トトハの口がきゅーっと尖った。視線がなにか物言いたげなものになり、じっとイチを見つめ、だがなにも言わず顔を俯かせた。
「別に……ええけど。イチが……誰と飲んでも……」
全然よくなさそうな雰囲気で呟いたトトハは、ハッと気付いたように顔を上げた。
「もしかして寝とったんて、その女の人の家? イチ……その……その……」
暗がりでもわかるほど、その顔の血の気が引いていく。トトハがなにを考えているのか、イチには手に取るようにわかった。
「違う! 違う! なにもしてない! ほんとに潰れてたんだ! 気がついたらベッドに寝かされてて、夕方になってたんだ!」
「ほんとに? してへん? 覚えてないだけと違て?」
それを言われると自信がないのだが、それでもたぶんないし、ここで言い淀むとまずいと思ったイチは、即答した。
「してない!」
だがトトハの顔は曇る。
「そんだけ力強く言われると、逆に怪しいんやけど……」
――どうしろって言うんだよ!
内心で叫びつつも、それをそのままぶつけるわけにもいかないので、どう言うべきか迷っていると、曇った表情をしていたトトハが、ふいに吹き出した。次第に、声を上げて笑い始める。どうすることもできず立ち尽くすイチに、未だ笑いを滲ませながらトトハが言った。
「ごめんイチ、うち意地悪やったね。大丈夫やで。イチのこと信じとるから」
とりあえず誤解されているわけではないらしい。そっと息をつくイチに、笑いを治めたトトハが、どこか困ったような笑みを浮かべる。
「でもあれやね、うちイチの彼女とかそういうんやないから、あんまりこういうこと言うのもあかんよね」
うんうん、とトトハは一人で頷く。
「うちは、イチが無事でおってくれたらそれでええから」
トトハはそう言うと、改めてイチに向き直った。
「イチ、手ぇ触っていい?」
「ああ」
トトハの手がイチの右手を取った。そのまま両手で包み込むようにして、目を閉じる。その体温を、確かめるように。そこにあることを、確かめるように。
「イチの手ぇ、あったかいなぁ」
トトハが呟くように言う。生きてるんだから当たり前だろと、かつて言ったことがあった。だが今は言えない。トトハの大切な人達に、トトハはもう二度と、触れることができないのだから。
しばらくそうしていたトトハは、やがてそっと離すと、いつもの笑顔を浮かべた。
「ほな、うちもう行くな。イチが無事なんも確認できたことやし」
そう言って、ドアへと向かう。改めてその姿見ると、トトハは護身用のナイフをひとつ下げているだけだった。それだけ心配していたのだ。己の身ひとつで来るほど。恐らく、今朝から何度も。
「トトハ」
鍵を開けようとしていたトトハが振り返る。
「送ってく。暗いから、危ないだろ」
自分がどんな顔をしていたのかはわからない。ただトトハは驚いたような顔をして、少しだけ頬を赤らめた。やがて、へへっと照れ笑いのようなものを浮かべる。
「ありがとぉ」




