第42話 鯨の来訪
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朝の食堂の賑わいは、いつもよりいくらか静かなように感じた。一人で隊舎を出たナナシは、一人で朝食を終え、食堂を出る。いつもならイツヒの長い食事に付き合い、食堂を出るのはもっとあとになるのだが、それもない為、時間が余った。
イツヒの様子を見に行こうかとも思ったが、それより先にしておきたいことがあった。食堂を一通り見て回っても見つからなかった姿はどこにいるだろうかと考えて、以前連れて行かれた、敷地内の隅にある倉庫を思い出した。
イチかバチかで行ってみると、三階建ての倉庫の屋根に、赤い髪を括った小さな後ろ姿が見えた。すぐさま地面を蹴り、隣に降り立つと、座っていたミツカがびくりとして振り返る。そして傍に来たのがナナシと気付くや、慌てるように腰を浮かせた。
「ご、ごめんなさい……」
そう言って去ろうとするミツカの、その細い腕をナナシは掴んだ。
「待てよ」
走った怖気か、掴んだ力が強かったのか、ミツカが体を固くして動きを止めた。ナナシはすぐさま腕を離す。だがミツカは逃げなかった。
「謝りに来た」
そう短く伝えると、ミツカがゆっくりと振り返った。恐る恐るといった様子で、ナナシを見上げる。
「……なんで?」
その怯える瞳に、自分がしでかしたことを改めて思い知らされ、胸が苦くなる。
「おめぇに、怒鳴っちまっただろ」
するとミツカが、気まずげに目を逸らした。
「あ、あれは……あたしがナナシを怒らせちゃったから…………」
「おめぇは悪くねぇ。俺がちょっと……大人げなかっただけだ」
いくら余裕がなかったとはいえ、ミツカに向かって怒鳴るなんて、どうかしていた。子どもに感情をぶつけるなんて、大人のやることではなかった。
「そういやおめぇ、あの時なに言おうとしてたんだ?」
その時のことを思い出して尋ねたが、目を逸らしたままのミツカは、未だ体を固くしたままで、答える気配はない。もしかしたら、ミツカに比べて自分のガタイが大きすぎるせいで、こうして正面に立っているだけで、いらぬ威圧をかけているのかもしれなかった。怒鳴ってしまったあとなら、なおのことだろう。
「ちと座るか。立ってんのも目立つしな」
わざとらしく言いながら屋根に座ると、ミツカもおずおずと隣に座った。
「んで、なに言おうとしてたんだ? まぁ、もう言いたくねぇってんならそれでもいいけどよ」
そうやって誘導すると、膝を抱え、俯いたミツカはぽつぽつと言い始めた。
「あの、ね……」
ナナシの様子を窺うように、ゆっくりと続ける。
「あたし、ヨミがしたことや、それをムツキが許可したことは、やっぱり許せない。でも、イツヒの気持ちも……わかるの」
横目でミツカを見やる。俯いた表情はわかりにくかったが、ミツカはどこか痛みをこらえるような顔をしていた。
「イツヒ、言ってた。自分の刃でなにができるのかなって。まだ答えは見つけられないけど、ずっと探してるって。それで見つけたのが、この方法だったんだと思う」
ミツカが、膝を抱える腕にぎゅっと力を込めた。
「バカだって思うわ、こんなの。でも、全部を否定できない。どうにかして隣に立ちたい気持ち、あたし、痛いぐらいわかるもの」
ミツカはかつて、『刃持ち』でありながら、戦わずに逃げることを求められた。それは親の愛情だったのだろうが。
「だから、本当はいやだけど。悲しいけど。これがイツヒのやりたいことだったんなら、それで、たくさんの人が護れたんなら、よかったねって……言ってあげないと…………」
ミツカの瞳に、たちまち涙が溢れた。そのまま膝頭に顔をうずめ、静かに泣き出す。ナナシは手を伸ばしかけ、思いとどまり、それでも放っておくことはできず、惑いながらも言った。
「あー……、あのだな。もし嫌だったら、突き飛ばせ」
意味が取れず、顔を上げたミツカの肩を抱き、胸元に抱き寄せる。強い怖気が体に走った。
ミツカがすぐにでも突き飛ばせるように、最低限の力だけで抱き寄せたのだが、意外にも、ミツカはナナシを突き飛ばさなかった。それどころか逆に、額を押し付け、縋るように胸にしがみつき、声を上げて泣き始める。その泣き声に、ナナシは胸を締め付けられるような思いになり、両腕でミツカを強く抱き締めた。
ミツカも確かに感じているであろう、強い怖気。命の危機に似たもの。この相手は、自分の命を奪うような存在ではないのに。
それでもその奥の、確かにあるぬくもりが伝わるように、ナナシはミツカを抱き締めた。こんな小さな体で、あんな理不尽なものを押し付けられて、それでもミツカは、受け止めようとしているのだ。それなのに自分が、受け止めないままでいられるわけがない。
始業が近かった。それでもナナシは、泣き続けるミツカを抱き締め続けた。
* *
イチはココノエと共に、書類の処理に追われていた。雨のあとで色々な手続きが増えているのに加え、イツヒがいないので単純に仕事量も多い。だがなにかに没頭していると、なにも考えずに済むのは救いだった。
そうやってココノエと共に無言で手を動かし続けていると、ふいにドアがノックされた。入ってきたのは、救護室の腕章をつけた担当員だった。
「イサナさんから伝言です。イツヒさんの目が覚めたので、お二人とも、至急隊長室に来るようにと」
イチは反射で立ち上がりかけ、最後に付け足された言葉に思いとどまる。聞き返したのはココノエだった。
「隊長室?」
担当員が頷く。
「はい。至急と仰っていました」
「わかりました」
ココノエが席を立つ。イチも改めて立ち、隊長室へ向かった。
早足で隊長室に向かう。だがドアの前に辿り着き、ココノエがノックをしようとした時、中からナナシの怒声が聞こえてきた。
「ふざけんな!」
ココノエがすぐさまドアを開け、イチも続いて入る。中にはムツキとヨミ、離れたところにイサナがおり、そして部屋の真ん中に立つイツヒの近くには、その顔を怒りに染めたナナシと、怯えたような顔をしたミツカがいた。
「……イツヒ?」
イツヒがイチを振り返った。意識が戻ったのか、と喜びかけた感情は、だが一瞬で消える。こちらを見つめるイツヒの様子が、どこかおかしい。その見た目も、ぼんやりとした表情もイツヒにしか見えないのに、誰か、違う人間を見ているような違和感があった。
「……来たか」
ぽつりと言ったイツヒに、ココノエが前に進み出ると、珍しくやや険しい声で言った。
「イツヒくんじゃないですね。誰ですか、あなたは」
「……ココノエ?」
なにを言ってるんだ、と思うイチに、口を開いたのはイサナだった。
「だから揃ってから喋れと言ったんだ。説明をする手間が増えるだろう。私達は君と君の分け身のように、常に意識を共有できているわけではないのだから」
なんのことだと思っていると、ムツキが言った。
「つい先ほど、イサナから私に連絡があった。イツヒが目を覚ました。だが面倒なことになった、とな。他の者がいる場所では障りがあるとのことで、こちらに連れてきてもらった」
ムツキがその目を、イツヒに向ける。
「体は間違いなくイツヒだ。だがイツヒ自身の意識は今はなく、その体は今、『砂生みの鯨』に奪われている」
イチは改めて、自分を見つめるイツヒを見つめ返した。『砂生みの鯨』に、体を奪われている? いったいなぜそんなことに。そしてあれは、やはり生き物だったのか? しかしそうだとして、なぜイツヒがその対象になったのか。
「……なにしに来やがったんだ、てめぇは」
落ち着きを取り戻したナナシが、押し殺した声で言った。イツヒの体を奪った『砂生みの鯨』は、イチを見つめたまま答える。
「海を、貰いに来た。海は、どこにある」
その姿と声は間違いなくイツヒであるのに、明らかにイツヒではない異物感のようなものが、居心地を悪くさせる。
「知らない。俺はそんなもの、持ってない」
イチはそう答えるが、『砂生みの鯨』は、イチにひたと目線を据えたまま言った。
「お前は、海に触れた。お前に、海の気配が残っている。その海を、私にくれ」
「理由を聞かせてもらえるかね?」
口を挟んだのはイサナだった。
「要求ばかりというのは都合が良すぎるというものだ。君達に等価交換という概念があるのかは知らないが、こうして弓遣いの体を使ってまでこちらとの対話を試みたのだから、こちらからも要求する余地もあるのだろう?」
すると『砂生みの鯨』がイサナを振り返った。
「お前は私の一部を食ったのだから、私の意識は伝わっているだろう」
「残念だが、私は君の過去を覗き見ただけのただの人間だ。それを証拠に、君は今私と意識を共有できていないだろう?」
イサナを見つめていた『砂生みの鯨』は、その表情を変えぬまま言った。
「私は帰りたい。それだけだ」
「どこへ帰るというのかね」
すると『砂生みの鯨』は、ついと視線を天井の方にやった。見えぬ遠くを、見つめるように。
「海だ。愛しき青へ、私は帰りたい」
「海? 海とは君が私達に要求しているものではないのかね?」
「海とは、私の根源であり、私を作るもの。私は海より生まれ、海に帰る」
そして再びイチを見る。
「お前が一番海に近い。それを私にくれ。そうすればきっと、私は今度こそ海に帰れる」
今度こそ。その言葉に、イチはイサナから聞かされたあの災厄のことを思い出した。力尽きた『砂生みの鯨』が、この星の海の水を、瞬時にエネルギーに変換し、その残り滓を砂として吐き出した。だが今日に至るまで、『砂生みの鯨』はここにいる。つまり、海の水だけでは帰ることができなかったということだ。
そして、砂から生まれたものを食べた人間が、因子を内包させていることがわかった。それを取り入れ、再び帰るエネルギー源にしようとしていたのか。
「そう言われても、俺は海なんて……」
そう返すイチに、『砂生みの鯨』は、ふいに自分の体を見下ろすような仕草をした。
「少し、急ぎすぎたな。そろそろ限界のようだ。また、この体を借りる。それまでこれを保管しておいてくれ。他の体では、依り代とならないようなのでな」
その目が閉じられ、力が抜けたように崩れ落ちる体を、ナナシが慌てて抱き留める。
「イツヒ!」
ぐったりと身を預けるイツヒは、だが静かに呼吸をしている。意識を失っているだけのようだった。ナナシが険しい顔をしたまま、そんなイツヒを見つめた。




