第40話 遺されていたもの
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日暮れが近くなり、雲は徐々に晴れてきていたものの、今日も日差しがないまま一日が終わりそうだった。薄暗さが増していく中、ナナシは一人、隊舎に向かっていた。
途中で会ったチトセの一人に、体調が悪いので早く上がるとムツキに伝えるよう、勝手に言伝を頼む。雨が降った日に、そんなものが通るのかはわからない。だが他に思いつかなかった。実際は体調などなにひとつ悪くはなく、誰にも会いたくないだけだった。
歩きながら、脳裏に何度も浮かぶのは、涙を浮かべたミツカの姿だった。
わかっている。イツヒはかつてのことを悔いていた。身勝手な信仰を押し付けられた果ての、なんの責任も負わなくていいことを。自分も誰かを護りたいと思い続けて、それでもそれが叶わぬ歪な刃だったことも。そしてそれらが、こんな行動に走らせたのだろうということも。
――だからって……。
もっと他に方法はなかったのか。なぜ言ってくれなかった。言ってくれたら……。
思いかけ、ナナシは内心で首を振った。試薬に過ぎないあんな不確かなもの、もしイツヒが使うとでも言おうものなら、自分は絶対に止めただろう。そしてそれ以前に、自分はイツヒの心のうちを、聞かずにおこうとしていた。自分から距離を置いたのだ。かといってこれが、来るべくして来たものだとは思いたくなかった。
ドアを開け、自室に入る。窓が東を向いたこの部屋は、外よりも暗く感じた。部屋の中は当然だが、朝出てきた状態そのままで、ただイツヒだけがいなかった。放っておけばどこかで寝ているイツヒを、仕事を終え、食堂での食事も済ませてからここに連れ帰ってくるのはナナシの日課のひとつで、だから一人でこの部屋に戻ってくるということは、ほとんど経験がなかった。
別の場所に行けばよかったか、と思った。こんなところにいれば、余計にイツヒのことを考えてしまう。だが今日はどこも騒がしく、どこに行っても誰かがいそうな気がした。
諦めて足を進め、自分のベッドに腰かける。顔を上げると、反対側に置かれているイツヒのベッドが目に入った。
今朝はいつもより起床時間が早かったせいか、イツヒはいつにも増して起きず、だがナナシは、首を触って起こすことはできなかった。ひたすら肩を揺らし、時に怒鳴り付け、ようやく起きたイツヒを連れて、この部屋を出た。
イツヒはいつものようにぼんやりとした表情だったが、あの時は既に、決意のあとだったのだろう。自分はなにも気付かなかった。
ベッドの上はぐちゃぐちゃで、枕は斜めを向き、起きた時のままの上掛けの上に、寝間着代わりの服が、畳まれもせず置いてある。イツヒの傍にいたのがココノエのような男なら、この辺りもちゃんと教えられたのだろうかと、埒もないことを思った。
そんな風にぼんやりとベッドを見つめていると、ふいに目に入るものがあった。斜めになった枕の下に、紙のようなものがある。今朝は気付かなかったものだ。
立ち上がり、歩み寄って、それを枕の下から引っ張り出した。二つ折りにされた紙を開くと、それは、ムツキから渡された、あの遺書の書類だった。
イツヒはこの街に来るまで、文字を書くこともできなかった。ここに来てからそれを学んだのだが、今でもまだ子どものそれに並ぶ程度にしかなっておらず、それでも懸命に書いたのであろう拙い文字が、紙面に綴られていた。
・葬儀の方法
わからないからなんでもいい
・遺体が残らなかった場合に代わりとするもの
ナナシが、これがおれだっておもったやつ
・伝えておきたい言葉
やりたくないことはやらせたくないから、こうしてっていうのはない。でもできたら、じぶんをきずつけるようなことは、しないでほしい。
いっぱいいろんなことをおしえてくれて、ありがとう。あのひ、おれをひろってくれてありがとう。おれはナナシがだいすきだ。ナナシもおれのことがすきだったらうれしいけど、おれはナナシをいっぱいおこらせたから、ナナシはおれのことをすきじゃないかもしれない。どっちかな。きいておけばよかった。
あとは、ミツカとなかよくしてね。ミツカもナナシのことがだいすきだとおもうから。できたら、なかせないであげてね。
これぐらいかな。たぶん、これでぜんぶだとおもう。おしまい。ばいばい。
ぽたりと落ちた雫に、文字が滲んだ。紙を持つ手に力が入り、くしゃりと皺が寄る。
これを書いたイツヒは、試薬を使って前線に立つことをもう決めていたのだろう。いつ決めたのか、これをいつ書いたのか、ナナシはなにも知らなかった。それなのに、この遺書には、ナナシに向けた言葉しか書かれていない。
自分が恐れずに歩み寄っていれば、なにかを変えられたのか。こんなことにはならなかったのか。だがそう思うも、すべては遅すぎる。
「ふざけんなよ……」
そう口にした自分の声が、酷く弱々しく聞こえ、ナナシは強く唇を噛んだ。
* *
日は完全に沈み、救護室代わりに解放されている会議室は、いくつか置かれたオイルランプが点々と灯されるだけの、静かな空間になっていた。この部屋のベッドに横たわる者の容体は概ね落ち着き、ほとんどの者が眠っている。時折、救護室の担当員が様子を見に来たりしてはいたが、イツヒの傍に用意された椅子にずっと座っているイチには、声をかけることはなかった。
イツヒは眠ったまま、ずっと目を覚まさない。上掛けの掛けられた胸元が静かに上下しているので、生きていることはかろうじて分かったが、それだけだった。
そうやって眠るイツヒを見つめていると、部屋に入ってきた足音が、そのままこちらに近づいてきた。それは、イツヒのベッドを挟んだ向こう側で止まる。
「まだいたのかね」
顔を上げる。イサナだった。イサナはイチを見ると、その顔を不愉快そうに歪めた。
「なんという顔をしているのかね」
イチはなにも言葉が浮かばず、もう一度イツヒに目を戻す。イサナが大きく溜め息をついた。
「一日の仕事を終えたら、食事を摂り、睡眠を取り、翌日に備えるのが君達の役目ではないのかね?」
確かに、そうかもしれない。雨が降った翌日に『遣い』が来るのかどうか、イチにはその知識がなかったが、来ないという保証はないのだ。だがどうしても、ここから離れることができなかった。
ムツキは、イチが止めようと止めまいと、同じ結果になっていたと言っていた。だが本当にそうだろうか。他の誰かに知らせたら――それこそナナシに知らせたら、ナナシは絶対にイツヒを前線に立たせなかっただろう。そうすればイツヒも、こんなことにはならなかったかもしれない。
「この弓遣いの結果を、悔いているのかね」
イサナが言った。
「隊長の判断だろう? あの甘えた小僧の選択にしては、悪くはないと思うがね」
結果として、刃を持たない一般の民には犠牲が出なかった。そう、イサナは続けた。
イサナの言うことは正しい。だが本当に、ここまでしなくてはいけなかったのだろうか。すべては結果論だと、わかっている。わかっているが、どうしても、素直に受け入れることができない。
「君は、チトセとしての覚悟が足りていないのではないのかね」
「……覚悟」
ぼそりと、その言葉を繰り返す。
「そうだ。どんな手段であれ、使えるものはすべて使い、『遣い』から民を護る。これは先代の隊長が口癖のように言っていた言葉だが、それはチトセ自身にも当てはまる」
「そんな、道具みたいな……」
「道具だよ」
はっきりとそう言ったイサナに、イチは顔を上げる。イサナは不愉快な顔のまま、イチを見下ろして言った。
「チトセとは、そも『刃持ち』とは、刃を持たない者を護る為の道具だ。それ以上でもそれ以下でもない。そこに個人の感情など関係はなく、護る為に生き、護った果てに死んでいく。それが『刃持ち』だ」
顰められた顔を、イチは見つめ返した。普段なら、ふざけるなと食ってかかっていたかもしれない。だが不思議とそんな感情は湧かず、ただその言葉の底にある、嫌悪の根を思った。
「あんた、刃を持たない人間が嫌いなのか」
そう言うと、イサナは鼻で笑った。
「大嫌いだね。だが私は、お前達『刃持ち』も等しく嫌いだ」
吐き捨てるように言ったイサナに、イチは続けて尋ねた。
「なんで嫌いなんだ?」
「なぜ答えてやらねばいかんのかね」
不愉快な顔を崩さないイサナに、イチは、そうか、と呟くように言い、視線を戻した。するとイサナは、その声の苛立ちを深めて言った。
「部屋に戻りたまえ。私達の仕事は怪我人を治すことであり、腑抜けた『刃持ち』の面倒を見ることではない」
「……イツヒは、どうなるんだ」
「どうもこうも、前例のないことだからわからんよ。このまま目を覚まさぬかもしれんし、明日にも目を覚ますかもしれん。生涯覚まさない可能性の方が高いと思うがね。まったく、女史も妙なものを飲ませてくれたものだよ」
イサナはそこで大きく息を吐いた。
「わかったら、さっさと出ていきたまえ。仕事の邪魔だ」
イチはそれでもなおイツヒの顔を見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がると、部屋を出た。
自室に戻ると、イチは外套やゴーグルをまとめて床に投げ捨て、そのままベッドに倒れ込んだ。明かりもつけず、暗い天井を見上げる。
使えるものはすべて使い、『遣い』から民を護る。そしてすべてのチトセは――『刃持ち』は、刃を持たない者を護る為の道具。
ムツキは、イツヒを正しく道具として使ったのだろう。それが隊長としての、ムツキの仕事だったのだ。だがイツヒを見つめる顔にうっすらとだけ感じ取れた悔しさは、イチにも覚えのあるものだった。自分の手が及ばなかったことへの悔しさ、無力感。あれが見間違いではなかったのであれば、イツヒを道具として使うことに、ムツキはなにも思わなかったわけではなかったのだろう。
だがやはり、だからと言って、他に方法はなかったのかと、何度も思ってしまう。あの会議室でムツキから作戦を聞いた時、自分が言っていれば。そうでなくとも、せめて壁の上でイツヒを見つけた時、どうにかして止めていれば。
――イチ。
壁の上での、イツヒとの最後のやり取りを思い出した。
――手伝ってあげて。壁の外を。おれは、大丈夫だから。
その顔に浮かべられていた、穏やかな笑み。あの壁の上で、イチは初めてイツヒから視線を向けられていたことを、今更のように思い出した。倉庫の屋根でやり取りした時ですら、一度もなかったそれを。
イツヒが誰かの目を見て話しているところを、イチは見たことがない。その理由はわからなかったが、少なくともあの時は、イチをまっすぐに見ていた。そして恐らく、あの時のイツヒの意志を覆させることはできなかったのだろうと、漠然と思った。
決して強い視線ではなく、だが逃げることなくイチを見つめていたイツヒ。ならやはり、今のこの状況は、避けられないものだったのだろうか。それでも――。
もしもという思いが終わりなく頭の中を巡り、イチは強く目を閉じた。




