第39話 雨のあと
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救護室は満床だった。次々に運び込まれる怪我人に、会議室や面会室までが臨時の救護室として使われていた。そのほとんどが、今までにない『遣い』の動きに翻弄された者達で、その中には、身体の一部を欠損した者も少なからずいた。
そしてそんな中、最も広い会議室に用意された簡易ベッドのひとつに、イツヒは寝かされていた。
外傷はなく、酷く上がっていたという体温も、今は落ち着いているらしい。だが脈は弱ったままで、意識はずっと戻っていなかった。ベッドの近くに立ったイチは、そんなイツヒを、言葉もなく見下ろしていた。
ベッドの周りにはイチの他にも、ムツキとヨミ、ココノエ、ミツカ、そして枕元の、イツヒに最も近い場所にはナナシがいた。
イツヒを見下ろしていたナナシが、ベッドを挟んだ位置に立つムツキに顔を向けた。その瞳は、鋭くも重い。
「テメェもヨミとグルだったってわけか」
低く落とされた声に、同じくイツヒを見つめていたムツキが、感情の読みにくい顔を上げ、ナナシに向けた。
「イツヒの意志を尊重した形ではあるが、ヨミは提案したに過ぎない。許可したのは私だ」
「こうなることがわかってたのにか……!」
声を荒げるナナシに、周囲の人々がぎょっとしたように振り返る。だがムツキは眉ひとつ動かさず、静かに答えた。
「予想の範囲になかったとは言わない」
「テッ……メェ……っ!」
ナナシがぎり、とその拳を握り締める。そのままベッドを越えて殴りかかるかに思えたが、ナナシはムツキを強く睨みつけるだけにとどめ、肩を返すと部屋から出ていった。
その背中を、ミツカが心配そうに見送る。追いかけて行きたそうに見えたが、ココノエが静かに呼びかけて止めた。
「ミツカ、今はナナシのところには行かない方がいいでしょう。少し、僕の仕事を手伝ってもらえますか?」
それがただの口実だということに、ミツカは気付いていたのかもしれない。だが力なく頷くと、部屋を出るココノエについていった。残ったのは、イチとムツキ、そしてヨミだった。
「やっぱ知ってたんだな、イツヒがやろうとしてたこと」
イツヒを見つめたままぼそりと言うと、ムツキもまた、その目をイツヒに落とした。
「戦況を左右し得るものだった。使える手段はすべて使って民を護るのが、私の役目だ」
ちらりとムツキの表情を見る。一見すると無表情で、冷徹に見えるだろうそれには、様々な感情が強く押し込められているように感じた。そのすべてを読み切るほど、イチはムツキを長く見てきたわけではないし、ムツキもまた、そう簡単にそれらを悟らせることはしなかった。だがそれでも僅かに感じ取れたものは、悔しさのような気がした。
ムツキがその顔を、隣に立つヨミに向ける。
「ヨミ、お前も少し休め」
先ほどから一言も発しないヨミは、酷く疲れた顔でイツヒを見つめていたが、その視線を動かさないまま、緩く首を振った。
「私は、ここにいるよ。イツヒが目を覚ますまで、ついてる」
「だめだ。休め。これは命令だ」
目元を険しくし、ムツキは語調を強めて言ったが、ヨミは動かなかった。ムツキは僅かに瞑目すると、イチに目を向けた。
「すべての責任は私にある。そしてお前が止めようと止めまいと、同じ結果になっていた。それだけは忘れるな」
そう言うと、イチがなにかを言うのも待たず、ヨミの腕を強引に掴み、部屋から出て行った。
* *
ナナシは訓練場にいた。『遣い』に見立てて作られた弾性のあるダミーに、振り上げた斧を叩き付ける。斧はダミーの表面をいくらか削ったが、ナナシは手を止めず、二度三度と叩き付けた。加減をせず斬っているせいで、ダミーの形がやや崩れる。普段なら手を止めなくてはならないところだが、知ったことではなかった。なにかをしていなければ、また考えてしまいそうになるからだった。
『刃持ち』の体を強化する試薬。ヨミはそう言った。『遣い』の肉や体液、水袋の原液を使って作ったものだと言っていた。そんなものをイツヒに飲ませたということが、まず許せなかった。それをムツキが許可したことも、戦力として数えたことも、自分達に知らせずにイツヒを前線に立たせたことも、なにもかもが許せなかった。
振り下ろした何度目かの斧に、ダミーが大きく形を崩した。中に詰め込まれていた丸太の塊が露出する。ナナシは構わず斧を振り下ろしたが、刃は丸太に刺さり、それ以上深くは入らなかった。
引き抜き、手を止める。僅かに上がった息を宥めていると、人の気配を感じた。
「覗き見してんじゃねぇぞ、おい」
傍にある建物の陰に向かって吐き捨てると、隠れていた者が恐る恐る出てきた。それは、なにかの書類を両手で抱き締めたミツカだった。心配そうにこちらを見つめるミツカに、ナナシは顔を逸らし、ひとつ息を吐く。
「ミツカか。悪ぃ、今はおめぇの相手をしてやる余裕はねぇ」
だがミツカは立ち去らず、その顔を俯かせる。
「あっ……あのっ……イツヒのこと…………」
ピリ、と神経が逆立ったのを、ナナシは抑え込む。だがミツカはおずおずとしながらも続けた。
「あたしも……許せないと思うし、こんなの……だめだって思うけど……、でも、イツヒは自分にできること探してて――」
「てめぇみたいなガキになにがわかるってんだ!」
反射のように怒鳴った。だがすぐに、ハッとしてミツカを振り返る。書類を強く抱き締めたミツカは、その目に涙を浮かばせ、震えながらナナシを見つめていた。
「ミツ――」
「……ごめんなさい」
背を向けたミツカが走り去る。ナナシはそれを追うことができなかった。
* *
ココノエが書類の整理をしていると、部屋のドアが開き、ミツカが入ってきた。手に持っているのは頼んでいた書類だろうが、俯いた表情は晴れず、赤くなった目元は僅かに濡れている。
「遅くなって、ごめん」
そう言って傍まで来ると、持っていた書類を差し出してくる。なぜか若干皺が寄っている書類と、ミツカの様子に、ココノエはやれやれ、と息をついた。
「ナナシのところに行ってたんですか?」
ミツカが俯く。
「たまたま、近くを通りがかっただけ。ナナシ、訓練場にいたから」
確かに、これを頼んだ部署からこちらに戻ってくるまでの道中には、訓練場がある。だがよりによって、そこにいたのか。
「行かない方がいいって、言ったでしょう?」
そう言いつつも、あんなナナシを見たミツカが、なにもしないでいられるわけがないとも思った。だが今のナナシに、ミツカを気遣う余裕はさすがになかっただろう。抑えきれなかった感情を、ミツカにぶつけてしまったのか。
「だって……」
呟いたミツカの目に、涙が浮かぶ。頭でも撫でてやりたかったが、ミツカは『刃持ち』に触れられることを酷く嫌うので、それもできなかった。
「ココノエは、平気なの?」
ミツカが濡れた瞳を向けてくる。
「イツヒのこと」
なんと返すべきか、ココノエは少々困った。だが、まずはと思い、ポケットに入れていたハンカチをミツカに差し出す。ミツカは素直に受け取り、涙を拭いた。
ココノエは、座っていた椅子を動かし、ミツカに正面から向き直った。少しだけ見上げる位置の、ミツカを見つめる。
「平気か平気じゃないかと言われたら、平気ではないですね」
「なんでそんな言い方なの」
「それだけでは、片付けられないことなので」
やはり伝わらなかったのか、ミツカが怪訝な顔をする。ココノエは、できるだけゆっくりと、言葉を砕くようにして言った。
「僕達チトセは、この街の人達を『遣い』から護ることを職務としています。それは、ミツカもわかりますよね?」
ミツカが頷く。
「ただ、チトセの名が周囲の街にも広く知れ渡ってしまったせいで、ここなら安全だと、この十年でこの街は、随分人が増えたんです。でも、『刃持ち』自体はそれほど増えていません。これがどういう状況か、わかりますか?」
「……少ない『刃持ち』で、たくさんの人を護らなきゃいけないってこと?」
「そうです。通常『遣い』は、どれほど大きな街でも、最大五体しか同時に現れない。それだけならまだ問題なく倒せるんですけど、雨ともなれば、そうもいきません」
ミツカの手が、持っているハンカチをぎゅっと握る。あの銀の地平線を思い出したのだろう。
「雨の時に現れる『遣い』の数は、その街の人口に比例すると言われています。そして十年前の雨の日も、この街の人口に対して、『刃持ち』の数はあまりに少なかった。今よりも低かった壁は破られ、刃を持つ者にも持たない者にも、どちらにも大きな被害が出たんです」
あの時まだ十六だったココノエは、まだ隊長ではなかったムツキ、そして初めて前線に出るヨミと共に、『遣い』の討伐に向かった。そして多すぎた犠牲に、ムツキ達の親代わりを務めていた当時の隊長が、酷く心を痛めていたのを、今でも鮮明に覚えている。そしてそれを、なにより間近で見ていたムツキを。
「だからもう二度とそんな被害を出さない為に、僕らは心を砕いてきました。取れる手段はすべて取るというのは先代の隊長の考えですが、それはムツキさんにも受け継がれています」
「だから、許可したの?」
ミツカがその顔を、僅かに曇らせる。それを見つめながら、ココノエは尋ねた。
「冷たいと思いますか? ムツキさんを」
ミツカは俯いて黙り込んだ。しばらくそうしていたが、やがてぼそりと呟く。
「…………わかんない」
どこか悔しそうに聞こえるその声に、伝えたかったことは伝わったような気がした。だがミツカの歳でここまで聡いということは、決して幸せではないだろうと、ココノエは密かに胸を苦くする。
「なにが正しかったのか、僕にもわかりません。でも今回、刃を持たない者には一切の犠牲が出なかった。そのことを、忘れてはいけないと思うんです」
ミツカが、ハンカチを握る手に力を籠める。
「でも……」
ミツカは何度か迷い、だが言おうとしていたであろう言葉は、結局飲み込んでしまった。だからココノエは言った。
「許せなくてもいいんですよ」
必要な力だった。だが仕方がなかったとは言い切れない。それでもそれを飲み込んで、前に進まなければならないのだ。しかしそれは自分達大人の役目で、子どもはまだ、嫌だと泣いて、喚いてもいい。そんな風に、我慢しなくていい。だからせめて、言葉だけでも寄り添おうと思った。
「僕だって、悲しいですから」
顔を上げたミツカが、ココノエを見つめる。その目から涙がぽろぽろと零れ、ミツカは顔を歪めると、声を抑えながら泣いた。その手にハンカチを持ったまま、両手の甲で代わる代わる、流れ落ちる涙を拭う。小さくしゃくりあげながら泣き続けるミツカを、抱き締めてやることのできないココノエは、ただ傍にい続けた。




