第38話 おれが護る
* *
目の前に、銀の巨体が落ちてきた。ヨミはとっさにイツヒの腕を引き、後ろに下がる。するとその手に短い刃を生み出した他のチトセ達が、それぞれ二人一組になって『遣い』に斬りかかった。同じ場所を二撃。定められた方法に倣って斬り付けるが、異常個体の頑強さに、あまり深い傷にはならない。
『遣い』はヨミ達の方を見ると、即座に突進してきた。ヨミはイツヒの腕を強く引いてどうにか躱す。『遣い』は小壁体にぶつかり、僅かな間動きを止めた。その間に更に距離を取る。
――油断していた。
『遣い』が狙っているのはイチだけだと思い込んでいた。最初は確かにそうだったのかもしれない。だが隊の中で最も因子が強いイツヒと、それほど強くはないものの比較的強い因子を持つらしい自分が共にいたのが、『砂生みの鯨』のなにかに引っかかってしまったのか。
もがいていた『遣い』が小壁体から離れようとした時、一人がヒガネを撃った。傷口めがけて放たれたそれが、深く食い込む。それを見た他の者達も、次々に倣った。『遣い』はいくつものヒガネに捉えられ、身動きが取れなくなる。
「前線組に救援を要請しろ!」
一人が叫び、ヨミはハッとして、腰に装備していた信号弾を撃った。救援を求める白い光が、煙の尾を引いて上っていく。
今いる十八班は、壁上で警戒に当たっていた班の中で、最も端に位置する班のひとつだった。だがそのせいで、最も近い前線組である十六班からも、いくらか距離ができていた。自分達後方支援組の短い刃では、異常個体の討伐は荷が重い。だがその十六班も、先ほどの討伐でかなりの欠員が出ていたはずだった。来たところで、倒せるのか。
「ねぇ……ヨミ…………」
隣にいるイツヒが掻き消えそうな声で言い、ヨミは肩越しに振り返る。
「なんだ」
イツヒはいつもとは違う虚ろな表情で、俯きがちに言った。
「矢を射させて……。おれなら、倒せるかもしれない……」
「だめだ。それに、キミの矢もさっき深く入らなかったのを見ただろう」
ヨミは十七班にいた。だがあってはならない矢が放たれたのを見て、急遽こちらに来たのだった。
「それにどうあれ、これ以上矢を撃つことは許さない。本当なら定めた本数を撃ったら退く約束だったのに、私が下に降りている間に姿をくらまして、またこうしてこっそり壁の上に戻ってきていたんだからな」
ヨミはイツヒの右手首を掴んだ手に、更に力を込めた。掴んだ手首は、制服越しにもわかるほど、体温が高い。
「だって……おれも、みんなを護りたい…………」
「もう充分護った。キミはこの上なく頑張ったんだ。これ以上は本当に命に係わる」
「でも……」
イツヒが言いかけた時、ヒガネに捉えられていた『遣い』が、ふいに強く体を振った。何人かが弾き飛ばされ、壁の内外に落ちていく。捉えていたヒガネの本数が減った。こちら側にはもう一本もない。
ヨミはイツヒの手を離すと、即座に『遣い』に駆け寄ってヒガネを射出した。体内に深く食い込む。強く張り、反対側の者と共に、もう一度『遣い』の動きを縛った。
「十六班はまだか!」
叫びつつ、十六班がいる方を見やる。だがいつの間にか、そちらの歩廊にも新たに『遣い』が飛び乗っていた。いや、正しくは十五班。イチがいる場所だ。
――二体目か!
どうする。自分達で倒すしかないのか。だが通常個体ならまだしも、異常個体相手に自分達の刃で致命傷を与えるのは難しい。いっそヒガネで捉えたまま、壁の外にもろとも落ちてみるか。運が良ければ食われずに済み、落とした『遣い』は下にいるチトセ達が倒してくれる。だがその前に反対側のヒガネを外させて――。
「――ヨミ」
ふいにイツヒの声がした。
「そのまま動かないでね」
ヒガネを張ったまま、ヨミは肩越しに振り返る。そして見えたものに、すぐさま叫んだ。
「やめろ!」
イツヒが弓を構えていた。鏃はいつもより、さらに鋭く長い。形状が変わっている。だが刃の形状が変わるなど、聞いたこともない。あれも例の試薬のせいなのか。
「おれが……護るから」
イツヒが矢を放つ。放たれたそれは、『遣い』の横腹、水袋の位置に深々と突き刺さった。
『遣い』がもがくのをやめる。ぐらりと傾く体に、ヨミはヒガネを外して離れた。
倒れた『遣い』は完全に絶命していた。だが次の瞬間、横腹に刺さっていた矢が、赤い液体となって形を崩した。振り返ったのと、目を閉じたイツヒが倒れたのは、ほぼ同時だった。
「イツヒ!」
駆け寄って抱き起こす。だが脱力したイツヒは完全に意識を失っており、触れた体は酷く熱い。そしてその呼吸は、対照的に酷く弱々しかった。
ヨミは耐えきれず、その体を強く抱き締めた。
自分がやったことだ。こうなるとわかっていたはずだ。取り決めた約束なんて守らない。イツヒは必ず無茶をする。わかっていたはずだ。わかっていたのに。わかっていたのに、自分は――。
ヨミの喉から、言葉にならない叫びが迸った。
* *
長く響き続けていた音がやんだ。避難所の窓からずっと壁の方を見つめ続けているトトハに、ハノンは歩み寄った。
「終わったのかしら」
だが壁は遠く、なにが起きているかは、ここからはわからない。
「雨がやんだら避難指示も解除されるでしょ。そしたらチトセの本部まで行ってやりなさい。規則なんてクソくらえよ」
そう言ったハノンに、トトハは俯いてぽつりと言った。
「うち……待っとる…………」
だがそう言うものの、その顔は不安げなままだ。本当は今すぐにでも会いに行きたいだろうに、どこまでも自分を抑えつけるトトハに、ハノンは呆れたように言った。
「あんたもうちょっと我が儘になってもいいと思うわよ? あいつならなにやったって受け止めるだろうし」
だがトトハはふるふると首を振った。
「イチ、必ず帰ってくるって言っとったもん。うちを一人にせんて、言っとったもん。うち、イチを信じる」
ハノンは、どこか意外な思いでそれを聞いていた。あの優柔不断でヘタレでなにをやっても腹の立つ男が、そんな台詞を吐くとはとても思えなかった。
「あんたたち、なにかあったの?」
「ふぇっ?!」
何の気なしに尋ねただけだったが、振り返ったトトハの顔は真っ赤だった。
「なっ、なんもあらへんよ?! なんもしとらんよ?!」
なにかあったんだな、とすぐにわかった。トトハは嘘をつけない。それがかわいいところでもあるのだが。それにしても、なんもしとらん、と来たか。つまり、なにかしたのか、あの男。トトハに。
「ハノンちゃん、なんか怒っとる?」
「……なんでもないわ」
ハノンが腹の底からの溜め息をついていると、やがて雨音が少しずつ静かになっていくのを感じた。
――やっと、止むのね。
ふいに右の手のひらが、ずきりと痛んだ気がした。だがそこに傷などない。ただの気のせいだ。それでもハノンは、一瞬だけ走った痛みのようなものを抑えつけるように、右手を強く握り締めた。




