第36話 見てねぇよ!
「やはり私はあの白髪頭が大嫌いだな」
部屋を出て歩き出すなり、ヨミが言った。
「おい、あいつに聞こえるぞ」
「構うもんか。ナナシの代わりに殴ってやればよかった。いや、次に会ったら絶対に殴ってやる」
強く息巻いたヨミは、大きく息を吸って吐き出すと、ふいにその空気を緩め、イチとは反対隣を歩くムツキを見やった。
「だからムツキ、お前もそろそろ落ち着け」
そう言ったヨミに、イチはムツキの様子を窺う。ムツキは一見するといつもの無表情だったが、よく観察すると、どうも不機嫌になっているらしいことがわかった。
「……なんで怒ってんだ?」
小声で尋ねると、ムツキを見つめたままのヨミが、そのままの声音で答えた。
「あの白髪頭がお姉ちゃんに失礼なことを言ったからだろう?」
「……ヨミ」
目を逸らしたムツキが、眉を寄せ、窘めるような声音で言う。だが否定はしなかった。
「ムツキは優しいからね」
嬉しそうに言うヨミに、イチが意外な思いでムツキを見つめていると、ムツキが強く咳払いをした。
「そんなことより、だ」
その表情を冷静なものに戻し、ムツキが前を向いた。
「壁に集結している『遣い』を、あのままにはしておけん」
「でも、どうやって討伐するんだい? ああも上を向かれてちゃ斬れないだろう」
ヨミの言葉に、ムツキが考えるように視線を落とす。そしてなにかを言おうとした時、廊下の先にある開け放された正面ドアから、一人の男が駆け込んできた。
「隊長!」
入ってきたのは、酷く焦った様子のチトセ隊員の男だった。駆け寄ってきた男は、半ば叫ぶように言った。
「『遣い』が上れる高さが上がってきています! このままではいずれ壁を越えられてしまいます!」
ムツキが目を見開く。すぐさまゴーグルをつけ走り出したムツキに、イチもヨミと共に続いた。そのまま雨の降る外へと出る。並走するチトセの男に、ムツキが叫ぶように言った。
「状況を詳しく教えろ!」
「ずっと上ろうとしては落ちるというのを繰り返していたのですが、少しずつ上れる高さが上がってきていて、もうすぐ半分にまで届きそうなんです!」
「ココノエの指示は!」
「下に降りて『遣い』が予想外の動きをしては危険だということで、引き続き壁の上で警戒しています!」
壁が近づく。次々に地面を蹴り、壁の上へと上がった。降り立つと、気付いたココノエが駆け寄ってきた。
「ムツキさん……!」
「状況は聞いた。今どこまで上ってきている」
言いながら、ムツキは歩廊を外側へと向かう。それについていきながらココノエが答えた。
「報告と変わりありません。ですが上れるようになる速度も上がってきている気がして……」
同じように外側に向かったイチは、壁から身を乗り出し、下方を覗いた。そして、思わず身を引く。先ほどよりも遥かに近い距離で、『遣い』の虚ろな口が無数に蠢いていた。
「ぞっとしねぇだろ」
傍で聞こえた声に、振り返る。いつの間にかいたナナシが、同じように下方を覗き込んでいた。
「ちっとでも足を滑らせたら、あの暗闇みてぇな口に飲まれて終わりだ。笑えねぇな」
そして乗り出していた身を戻し、イチに顔を向ける。
「んで、『遣い』が言ってた言葉の意味はわかったのか?」
イチは僅かに言い淀んだ。ナナシは『刃持ち』について、どこまで知っているだろう。
「わかりはしたんだけど……とりあえず今は、どうにもできない」
「そうか。役に立たねぇなあのクソメガネ」
「――ココノエ、ナナシ」
ムツキの声に、ナナシが顔を上げる。ムツキが双方の顔を見て言った。
「各班のリーダーを集めてくれ」
「わかりました」
「了解」
二人が壁の左右に走っていく。少しすると、それぞれの班のリーダーが集まってきた。
ムツキの作戦はこうだった。一班から十二班で下に降り、背後から『遣い』を斬る。十三班から十六班、そして後方支援組である十七班と十八班は、引き続き上での警戒。人員が欠けた班は数字の若い班に合流して人数を調整すること。下に降りた班は、『遣い』が異常行動をしたらすぐに離脱すること。上に残った班は、『遣い』の動きに注視し、変化があればすぐに信号弾で伝えること。それらをすべて伝えたあと、ムツキはイチの方を向いて言った。
「お前は上に残れ」
「なんでだよ」
一班である自分は、てっきり下に降りると思っていたのだが。
「『遣い』が今もお前を目指して上ろうとしているのであれば、お前が動けば『遣い』の動きも変わる。先ほどのようにお前一人が狙われる可能性もある。ならば上に留まり、『遣い』の動きを固定してもらっていた方が、こちらもやりやすい」
「……わかった」
「隊長」
リーダーの男が一人、声を上げた。
「『遣い』はなんでこいつを狙ってるんですか?」
イチを見やるその目にも言葉にも、どこか棘があった。ムツキは常と変わらぬ表情で答える。
「まだはっきりとしたことは言えない。ただ彼を差し出したところで事態が収束しないのは確かだ」
そう答えたムツキに、男はまだなにか燻るような表情をしていたが、それ以上追及することはなかった。
その後リーダー達が持ち場へ戻っていくと、再びイチの傍に来たナナシが小さく言った。
「さっきの奴な、あいつの班で二人食われてんだ。だから、ちっとばかし据えかねるもんがあったんだろ。まぁおめぇは悪くねぇから気にすんな」
そう言うと、ムツキの方に歩いていく。イチは思わず、先ほどの男が去っていった方向を見やった。
下で『遣い』を斬っている時、幾度となく黄色の信号弾を見た。人員の欠け、それはそのまま、人が『遣い』に食われたことを示すものだ。わかってはいたが、次々と現れる『遣い』を斬るのに精一杯で、気にしている余裕はなかった。だが自分のせいで『遣い』の動きが変わり、そのせいで食われた者がいるのだとしたら――。
視線が落ちる。だがその時唐突に、腰の辺りに後ろから強い衝撃が入った。
「いっ……てぇな……!」
言いながら振り返ると、そこには口を尖らせたミツカが立っていた。
「ミツカ! お前もう体は大丈――うぐっ」
拳が腹に飛んできた。思わず押さえ、その場に膝をつく。
「なにすんだ……てめぇ…………」
前に後ろにの痛みに呻きながら見上げると、憤然とした顔のミツカが、腕を組んでイチを見下ろしていた。
「あんた弱いのね。ナナシには全然効かないのに」
「あいつと一緒にするな……」
イチだって鍛えていないわけではないが、さすがにナナシとは比べ物にならない。
「まぁいいわ。これでちょっとはすっきりした」
「なんなんだよいきなり……」
よろよろと立ち上がると、イチを見上げるミツカの眉がきりりとつり上がった。
「あんたあたしの裸見たでしょう!」
馬鹿デカい叫びに、ミツカの後方にいたナナシ、ココノエ、ムツキが振り返る。イチは慌てて返した。
「見てねぇよ!」
「うそ! あんたがあたしのこと着替えさせたって、あの白髪頭が言ってたもん!」
「脱がせたのは制服までだ! お前その下にも着てただろうが!」
「じゃあ下は?! あんた下も脱がせてたじゃない!」
「着替えの服を着せたあとに隠した状態で脱がせたんだよ! あの服やたら丈が長かっただろ!」
「その時見たんじゃないの?!」
「見てねぇよ!」
「こらミツカ」
傍に来たナナシが、その大きな手を、フードを被ったミツカの頭にポンと置いた。あの感覚が走ったのか、ミツカはぐっと口を引き結び、だが振り払うことはせずに、ナナシを振り返った。
「……なによ」
ナナシがその手を離す。
「こいつは見てねぇって言ってるだろ。それに今はそんなことしてる場合じゃねぇ」
「そんなことってなによ! あたしはこいつに穢されたのよ?!」
「誤解を招くようなことを言うな! 見てねぇっつってんだろ!」
「あーわかったわかった」
めんどくさげにひらひらと手を振ったナナシが、改めてミツカを見下ろす。
「んじゃ全部終わったらこいつのこと煮るなり焼くなり好きにしていいから、今はとりあえずこっち来い」
「おいナナシ……」
それではなにも解決していないのだが、ナナシはミツカの肩に手をやると、そのまま強引に歩かせながら、ムツキの方に行ってしまう。ミツカは不服そうにしながらも、やはりその手を払うことはしなかった。
イチはそれを、ずきずきとする痛みと共に見送ったのだった。




