第35話 『砂生みの鯨』がもたらしたもの
ムツキに先導され、向かったのは本部の救護室だった。あの白髪の男は変わらず本を読んでいたが、イチ達に気付くと顔を上げた。
「怪我人……ではなさそうだが?」
この男がイサナなのか? と思ったイチだったが、すぐに、ベッドにミツカがいないことに気付いた。着替えさせた服がベッドの上に脱ぎ捨てられており、籠に入れてあった外套一式がなくなっている。
「ミツカはどうしたんだ!」
すると男は本に目を戻した。
「あの子どもなら、先ほど目が覚めて騒いだ挙句、壁の方に向かったよ。すれ違わなかったのかね?」
そう言われるが、壁からまっすぐこちらに向かってきたものの、誰かとすれ違うことはなかった。雨の薄暗さで見落としたのか、または別の道で壁に向かったのか。そもそも体は、もう大丈夫なのだろうか。
不安を募らせるイチに、ムツキが振り返って言った。
「壁に向かったのなら、隊員の誰かがいるだろう。心配はない。それより……」
再び男の方を向く。
「イサナ、貴方に聞きたいことがあるのだが」
「なんだね」
男が本から顔を上げずに言う。やはりこの男がイサナであるらしかった。
ムツキは先ほどの出来事と、前回の討伐、そして二十一番街でのことを説明した。するとイサナは、ぱたりと本を閉じた。
「海を寄越せ……か」
呟くように言うと、顔を上げ、イチを見つめる。
「君は、間違いなく『刃持ち』かね?」
「ん? ああ……」
「本当にそうなのかね? なら刃を見せてくれたまえ」
「なんでそんなに疑うんだよ」
「私は自分の目で見たものしか信じないのでね」
やっぱり腹が立つなこいつはと思いながら、イチは下ろしていた右手を体の横に上げると、その手のひらに刀の刃を生んだ。鍔のないそれを掴み取り、目の前にかざす。
「これで満足か?」
するとイサナは、特になにを言うでもなく視線を戻して腕を組み、指先を顎に当てて考え込むそぶりを見せた。
「ふむ」
せめてなにか言えよと思いながら、イチは刀をしまった。イサナがその目をムツキに向ける。
「ちなみに、こやつの因子の程度は?」
「ほとんどのチトセと変わらない。討伐の腕は優れているが、純粋に研鑽によるものだろう」
「因子?」
聞き慣れない言葉だった。そして、それに答えたのはヨミだった。
「キミには言っていないことがある」
珍しく深刻な声に振り返る。イチを見つめたヨミは、どこか重苦しい眼差して言った。
「私達の力は、あの『砂生みの鯨』由来のものなんだ」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。この力が、『遣い』を倒す『刃持ち』の力が、『砂生みの鯨』由来?
「そんなことも知らなかったのかね」
呆れた声でイサナが言った。ヨミが取りなすように返す。
「こんなこと、広く知らせたら混乱を生むだろう」
「混乱するようなことかね。あれが生み出したものを日々口にしているというのに。当然の帰結だろう」
「それも知らないんだよ。というか、知っている人間の方が限られている。このチトセでも、知っているのはキミや私、ムツキを含めて数人だけだ」
「ま……待てよ…………」
イチは思わず口を挟む。なにかとんでもないことを、さらりと言われたような気がした。
「『砂生みの鯨』が生み出したものを口にしてるって、どういうことだ」
するとイサナが、煩わし気に溜め息をついた。
「これは、説明してやらねばならんのかね?」
「キミが適任だろう?」
「……高くつくぞ、女史」
イサナは瞑目してもう一度溜め息をつくと、目を開けてイチを見た。
「『砂生みの鯨』と呼ばれるあれは、この星から遠く離れた場所から来た。文明が滅ぶ以前の我々ですら認知できていなかったであろう、遥か遠くだ。長く闇の中を渡り続け、力尽きそうになったあれが、この星の海に惹かれ、落ちてきた。それが、数百年前に起きた、この星の文明すべてを滅ぼした災害だよ」
この星から遠く離れた場所。闇を渡り、落ちてきた。言葉は入ってくるものの、あまりに荒唐無稽すぎて、理解が追い付かない。だがそんなイチをよそに、イサナは続ける。
「落ちてきたあれは、この星の海の水を瞬時に己のエネルギーへと変換し、不必要になったものだけを吐き出した。それが、今この星を覆っている砂だよ。厳密には、砂によく似たエネルギーの残骸だがね」
砂の海。砂に覆われた陸地。それが広がる光景が当たり前で、イチはかつて陸地にあったという土を、生まれてから一度も見たことがなかった。それが、エネルギーの残骸?
「だが残骸とはいえ、たった数十年でこの星に新たな環境を生み出す、恐るべき力を秘めたものだ。かつての我々ですら、そんなことは不可能だっただろう。……君は、生物濃縮という言葉を知っているかね?」
ゆるゆると首を振る。
「ある種の物質が、食物連鎖の過程を経て、上位生物の体内に濃縮されていく現象だ。そして我々は、砂から生まれた動植物を体内に入れることにより、徐々にあれの因子を内包するようになっていった。その果てに生まれたのが『刃持ち』だ」
人々が地下のシェルターから地上に出た時、そんな力を持つ人間はいなかった。砂の世界で何世代も命が繋がれ、やがて『遣い』が現れたあとに、ようやくその姿が確認されだしたのだ。理解はできる。だが信じたくなかった。そしてそんなイチの感情を、イサナは表情から察したようだった。
「『刃持ち』同士が触れ合うと、命の危機に似た怖気を感じるだろう。あれは、この星に元々いた人間としての、体の奥底に刻まれた本能が、この星を脅かしたあれの因子を、危険なものと認識して拒絶しているのだよ。刃を持たぬ者には、どういう理屈か、感じ取れないようだがね」
「なんでお前は、そんなこと知ってんだよ」
なおも疑いを向けてしまうイチに、イサナはやれやれと言わんばかりに答えた。
「大昔の話だがね。討伐されて研究の為に持ち帰られた『遣い』を食べたのだよ」
イチは耳を疑った。
「食べた……?」
「ああ、そうだ。だがその夜から次第に不思議な夢を見るようになった。『遣い』は『砂生みの鯨』が直接造ったものだ。因子も強い。それを直接取り込んだことで、あれの記憶のようなものに触れたんだろう」
そしてその頃から、徐々に髪が白くなっていったとのことだった。恐らく、強すぎるエネルギーに体が耐えられずに出た反応だろうと、イサナは続けた。
「話を戻す。つまり『刃持ち』とは、あれの因子を強く持った人間のことだ。だが稀に、因子を強く持っていながらその力が発現しなかった者がいる。そしてその人間の内包する因子は、並みの『刃持ち』の比ではない。人間を食うことで自身の分け身である『遣い』が強化されることも考えると、奴が寄越せと言っていた海とは、因子の強い人間のことだろう」
イサナがそう言うと、それまで黙っていたヨミが口を開いた。
「その言い方だと、『遣い』が喋ったのではなく、『砂生みの鯨』が『遣い』を通して喋った、ということになるけど、やはりあれは生き物なのか?」
「そう考えるのが妥当だと思うがね」
「では『遣い』は『砂生みの鯨』から指示を受けて人間を襲っている、という認識でいいのかな? その上で因子の強い人間を求めているという、その理由に心当たりはあるかい?」
「質問が多いぞ女史」
不機嫌そうに返すイサナに、ヨミが瞳の温度を冷ややかにした。
「キミはまだ色々と、私達に言っていないことがありそうだからね。命懸けで戦っている者に対して、礼を失しているのではないかい? 室長」
「情に流されるのは、研究者としていかがなものかと思うがね」
「流されてなどいないよ。必要な情報は共有すべきだと言っているんだ」
「素直に言ったらどうかね。弟を助けろと。君は最前線に立つ羽目になった弟を助ける為に、研究職に就いたのではなかったのかね?」
「……今日はよく喋るじゃないか、老人」
ヨミの声が低く地を這った。その時だった。
「――ヨミ」
静かな声に、ヨミがハッとしたようにムツキを振り返る。静かな瞳を向けるムツキに、ヨミはなにか言いたげな表情を浮かべたが、やがて諦めたように目を逸らした。
「それで……」
ムツキがイサナに向き直る。
「なぜ『砂生みの鯨』が因子の強い人間を求めているのか、貴方は知っているのか?」
イサナは肩をすくめた。
「さてね。そこまではわからんよ。私が触れることができたのは、あくまであれの過去の記憶だ」
沈黙が落ちる。イチは恐る恐る口を開いた。
「……だけど、俺は『刃持ち』だから、その海ってやつじゃないんだろ? 寄越せなんて言われても、どうしたらいいんだ」
イサナがイチに顔を向ける。
「君の身近に、因子の強い人間はいないのかね? なんらかの要因で君が帯びたその因子を、あれが感知していた可能性もある」
「そんなもんどうやってわかるんだよ」
「簡単なことだ。こやつに見せればいい」
そう言ってイサナが目を向けたのは、ムツキだった。そういえば先ほどムツキは、イサナにイチの因子の程度を聞かれて答えていた。
目を向けられたムツキは、イサナを見つめ返したまま、静かな口調で言った。
「確かに私は、相手をひと目見れば、その因子がどの程度なのかはわかる。だがさすがに、彼の知人全員をここに連れてくるわけにもいかないだろう。まだ避難指示を解くこともできない。それに、仮にその中に、『砂生みの鯨』が海と呼ぶほどの強い因子の者がいたとしても、差し出すわけにはいかない」
だがそう言ったムツキに、イサナは鼻で笑った。
「一人を犠牲にして多くが助かるのなら、その選択肢も考える必要があるのではないのかね?」
ムツキは静かにイサナを見つめ返す。
「貴方とは、考え方に相違があるようだ」
「多くを率いる者として、もう少し冷静になることをお勧めするよ、隊長」
「助言感謝する。用件は以上だ」
そう言ってムツキは踵を返し、部屋を出ようとする。それにヨミも続き、イチも続こうとした時、ふいにイサナが言った。
「ところで隊長」
立ち止まったムツキが、肩越しに振り返る。イサナは閉じていた本を再び開き、それに目を落としながら言った。
「君も弟なら、姉の手綱ぐらい握っておいてくれたまえ」
イサナがぱらりとページをめくる。ムツキはしばらくイサナを見つめていたが、なにかを返すこともなく、部屋を出ていった。




