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砂の鯨は天(そら)に啼く  作者: 銀子


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第33話 この時の為だった




 辿り着いた本部入り口は開け放たれたままで、イチはそのまま救護室へ向かう。中に入るが、並んだベッドの上には誰もおらず、ただ一人、部屋の隅にある机で本を読んでいた男が、イチに気付いて顔を上げた。


「怪我人か?」


 眼鏡越しの瞳は黒かったが、その髪は見事な白髪《はくはつ》だった。だが肌の張りや体つきからして老人ではなく、恐らくヨミやムツキ、ココノエ達より少し上ぐらいだと思われた。


「いや、刃に衝撃を受けて気絶しただけだ」


「ふむ。ではそこのベッドに運んでくれ。濡れても構わない。どうせ使う者はほとんどいないからな」


 イチは近くにあったベッドにミツカを横たえると、自分のゴーグルを外しがてら、かけたままになっていたミツカのゴーグルも外してやる。すると本を置いた男が傍に来て、ミツカの手首を取った。


「脈は正常。だが、少し冷えているな。着替えさせてやった方がいいだろう」


 そう言うなり部屋を出ていくと、少しの間を置いて戻ってきた。手には病人が着るような、簡素な服を持っている。男はそれをベッドの足元に無造作に投げ置くと、再び机に戻って本を読み始めた。


「着替えさせるんじゃないのかよ」


「君がやりたまえ」


「はぁ?!」


「私の仕事は怪我人を治すことであり、気絶した者を着替えさせることではない」


 男は本から顔を上げようともしない。


「他に誰かいないのかよ、救護室の奴。女とか」


「いなくはないが、今は別の仕事に当たっている。ここが忙しくなるのは、ほとんどの場合、壁が破られたあとだからな」


「……どういう意味だ」


 男は本に目を落としたまま、ぱらりとページをめくった。


「壁の外の戦いにおいて起きるのは、『遣い』を倒すか、『遣い』に食われるかのふたつにひとつだ。基本的に怪我人というものは出ない。だが破られたあとならば、崩れた家屋や瓦礫で怪我をする者が現れるからな。わかったらさっさと着替えさせたまえ」


「俺だってさっさと前線に戻らなきゃならないんだよ。今も何十体もの『遣い』が――」


「だからなんだ」


 男が本から顔を上げ、静かな瞳をイチに目を向ける。


「それだけの『遣い』を相手に、たった一人の『刃持ち』が戻ったところで、態勢に大きな変化はない。なら早くその『刃持ち』を回復させてから前線に戻った方が、いくらかましなのではないかと思うのだがね」


 腹の底が熱くなったのは、言い返す言葉が浮かばなかったせいだった。確かにそれは正しい。いくら長く『遣い』の討伐をしてきたからといって、自分の腕が長くチトセとして戦ってきたムツキ達に並ぶなどとは、さすがに言えない。


 男から顔を逸らし、横たわるミツカを見下ろす。それでも問題しかなかったが、イチは諦めてミツカの外套に手を伸ばした。せめて目を薄く開くだけにし、極力見ないようにする。


 外套を脱がせ、湿り気を帯びた制服の胸元を開いていくと、ミツカはその下に薄手のシャツを着ていた。そこまで雨は染み込んでいなかったようで、心からほっとする。どうにか制服を脱がせ、男が持ってきた服をシャツの上から着せると、前合わせになっている服を閉じ、丈の長いそれで極力隠す。そして見ないようにして穿いているものも脱がせ、再度合わせを丁寧に閉じたところで、イチは大きく息をついた。


「ようやく終わったか。なら隣のベッドに移したまえ。そこは濡れてしまったのでな」


 振り返るが、男はまた本に目を向けていた。イチは言いたいことをこらえると、ミツカを抱きかかえ、隣のベッドに移した。


 そっと横たえ、掛け布をかけてやるが、ミツカが起きる気配はなかった。脱がせている最中に起きなくてよかったと、心からの溜め息をついていると、男が呆れの滲む声で言った。


「着替えさせるだけで疲れすぎではないのかね。それともその子どもに対して、欲情するのを我慢でもしていたのかね?」


 言うに事欠いて、という言葉が浮かんだが飲み込む。怒鳴りつけたくなる衝動をこらえながら、イチは振り返った。


「そんなんじゃない。確かに俺やお前に比べたらミツカは子どもかもしれないけど、男と女の違いがわからないような歳でもない。好きでもない奴に肌を見られんのは嫌だろう」


「そういうものかね」


 男は本に目を落としたまま、興味なさげに言った。いちいち腹の立つ奴だと思ったが、言ったところで仕方がないと思い、飲み込む。


 ふと、脱がせたままの外套や制服に目がいった。そのままベッドに置いておくのもどうかと思い、傍らに置かれた籠の中にとりあえず入れておく。そんなことをしていると、やはり本に目を落としたままの男が、ふいに言った。


「戦況は、どうかね」


 腹の立つ男に対して素直に答えてやるのも癪だったが、一応救護関係者ではあるようだし、知っておく必要はあるだろうと、イチは仕方なく口を開いた。


「最初はどうにか押しとどめていたんだけど、異常個体が出たせいで大きく崩れた」


 男が目だけをイチに向ける。


「その異常個体は、持ち帰ってきたかね?」


「そんな余裕あるわけないだろ。それの討伐に時間を食われて、今大量の『遣い』が壁に向かってきてるんだ。……もう到達してるかもしれない」


 そう言った瞬間、重く響く音が、地面を僅かに揺らした。ハッとして窓を見るが、雨の向こうに聳える壁は、破られたようには見えない。男が静かな声で言った。


「杭が射出されたな。つまり第一波はもう到達しているというわけか」


 焦りが体を動かしかけ、思いとどまる。ココノエは、ナナシは、ムツキは無事なのか。壁の上にいた、イツヒは。


 ベッドの上で眠るミツカを見やる。だがやはり、目を覚ます気配はない。


「やっぱり俺は行く」


「行ったところで――」


「それでもだ!」


 本に目を落としたままの男を振り返る。


「このままなにもせずに、ここにいるよりマシだ!」


 男が目だけでイチを見やった。だがそのまま再び本に戻す。


「なら好きにしたまえ。救護室の外は私の管轄ではない」


 最後まで腹の立つ男に、だがイチはなにも言わずに飛び出した。




 ゴーグルをつけ、雨の降りしきる街を走る。だが中ほどまで走ってきた頃、壁の上から信号弾が上がった。緑が一発。壁の上で後方支援に当たっていた者の中でも、『刃持ち』ではない者達への、避難を指示するものだった。矢が尽きたのだ。


 すると、壁の内側にかけられた補修用の梯子や、臨時でかけられた縄梯子を、次々に人が下りてくるのが見えた。イチは壁の近くまで来ると、近くの民家の屋根に飛び乗り、そこから壁の上まで跳躍した。


 歩廊に降り立ち、人の流れに逆らって外側下方を見ると、突き出された杭の先端付近では『遣い』が群れを成し、巨大な杭を徐々に削って前進してきていた。それに対し、ダガーなどの短い刃を持ったチトセが二人一組で討伐に当たっており、そこから断続的に繋がる群れの、最後尾に近い場所では、最前線にいたチトセ達が刃を振るっていた。『遣い』は徐々にその数を減らしていっているようだったが、それでもまだ多い。


 加勢しようと踏み出しかけた時、一本の矢が『遣い』の一体に突き立った。ハッとして振り返る。次々と降りていこうとする人の流れの中、動かずに立ち続けるイツヒを見つけた。


「イツヒ!」


 思わず名を叫んで駆け寄ると、イツヒが振り返った。


「……イチ」


 フードに隠されていた顔が、ようやく見える。矢の確度を上げる為か、ゴーグルをしていないその顔は、一見いつもと変わらないぼんやりとしたものだった。


「お前、大丈夫なのか」


「なにが?」


 イツヒは表情を変えないまま、再び前を見つめる。なんと言うべきか迷っていると、イツヒはなにかを察したように、ああ、と言った。弓を構えて、矢をつがえる。


「ヨミ、喋っちゃったのかな」


 その目を眇め、放つ。矢は遠く向かってくる『遣い』に突き立った。


「でもそんなに怖いものじゃないよ。ちょっと体が強くなるだけの、薬だから」


 そう言うと、再びつがえた矢を放つ。見た限りではなにか不調を抱えている様子はなかったが、不安は拭い切れない。


「本当に……大丈夫なのか?」


 改めてそう言うと、イツヒはふいに弓を下ろした。


「ねぇ、イチ」


 その瞳は、遥か砂の海に向けられたまま。


「いつか言ったの、覚えてるかな。どうしておれの刃は弓の形なんだろうって」


 遺言を書く為の書類を貰った日。屋根の上で。


「この時の為だったんだ」


 その瞳にささやかな、だが確かな力強さが宿る。


「おれは『遣い』の傍で危険に身を晒さずに、一方的に討伐することができる。『遣い』を強化する心配もない。それに……」


 ふいに弓を構えたイツヒが、つがえた矢を杭の先端付近に放った。今まさにチトセを食おうとしていた『遣い』が、額を貫かれ沈黙する。


「こうやって、助けることもできる」


 そう言ったイツヒが、ふぅ、とひとつ息を吐く。気取られないようにしているようだったが、そこには明らかな疲労の色があった。


「イツヒ――」


「イチ」


 イツヒが振り返る。その目が、まっすぐにイチを見つめた。その顔には、薄く、穏やかな笑みが浮かべられている。


「手伝ってあげて。壁の外を。おれは、大丈夫だから」


 やはり不安は、拭いきれなかったが。


「信じるからな」


「……うん」


 頷くイツヒから視線を断ち切ると、イチは壁の外へと飛び出した。





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