第32話 だいすきなひと
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ミツカはすぐさま飛び出した。身軽であることは、この隊内でミツカが随一に優れている点だった。異常な個体のことはナナシから改めて聞いていたし、現れた際の対処方法も教えられていた。ナナシの剛腕で斬り潰せればよかったのだが、上手くはいかなかったらしい。だが自分は、この班で誰よりも深く入り込む刃を持っている。
異常個体が近付く。刃を入れるたびに僅かに距離を離されるナナシ達より、対面しているミツカの方が接敵が早かった。飛び上がって鎌を振り上げ、赤い体液を流す傷口に向かって、刃を下ろす。
刺さった。だが、浅い。ミツカは前進を続ける『遣い』の背中に乗ると、更に刃を深く押し込んだ。
「とっとと……死になさいよぉーっ!」
全力を込めた刃が、『遣い』の体に少しずつ飲み込まれていく。だがその時、『遣い』がその体を大きく振った。
「きゃあっ!」
鎌から手が離れ、体が大きく弾き飛ばされた。空と地面がひっくり返り、落ちていく頭上に、数えきれないほどの『遣い』の群れが見えた。
もうだめだ。そう思った。そしてその瞬間、あらゆるものが脳内を駆け巡った。
父と母のことを思い出した。怖気のせいであまり抱き締めてはもらえなかったけど、その奥にあるぬくもりが大好きだった。チトセに来てから知り会った人の顔が次々に浮かび、最後に浮かんだのはナナシの顔だった。
ナナシの大きな手が好きだった。あったかい笑顔が好きだった。ミツカを子ども扱いしたけど、それでもミツカ自身をちゃんと見てくれるところが好きだった。そして、こんなにも誰かを好きになるのは、ミツカは初めてだった。
最後にもう一度だけ、ナナシの声が聞きたかったな。そんなことを思いながら目を閉じる。
だが次の瞬間、ミツカは何者かに抱き留められた。走る怖気よりも、力強い腕が、ミツカに強い安心感を与える。
「ったく、無茶すんじゃねぇよ」
耳に触れる、あの声。目を開けるとすぐそこに、心配そうにミツカを見下ろすナナシの顔があった。
「ナナシ……」
泣きたいような衝動に駆られ、ミツカは思わず、その首に縋るように抱き着いた。触れたところから怖気が走る。それでも強く抱き締めた。
着地したナナシに、背中が優しくぽんぽんと叩かれる。
「怪我はねぇな。んじゃちっと、そのままくっついてろ」
背中を支えていた手が離れ、ミツカは慌てて抱き着く腕に力を込めた。ナナシがその手に斧を出現させ、『遣い』の死骸を足場に高く飛ぶ。
「悪ぃミツカ、先に謝っとく」
ふいにナナシが言い、なんのことだろうと思いながら、ナナシが進む先を見る。通常の『遣い』が、ココノエを含めた他のチトセ達によって打ち減らされていく中、ムツキやイチによってさらに傷が増えた異常個体の背には、ミツカの鎌が突き刺さったままになっていた。
ナナシは異常個体に近づくと、片手で斧を振り上げ、その刃の付け根に思いきり振り下ろした。
その瞬間、とてつもない衝撃がミツカの体に走った。
「ああっ!」
一瞬意識が遠ざかり、掴まっていた腕が離れる。だがその背を強く支えられたことで走った怖気に、再び意識が戻った。浮遊感が消え、ナナシが地面に降り立ったらしいことはわかったが、ずきずきと全身を苛む痛みに、体に力が入らなかった。
「あ……ぅ……」
口も上手く動かず、言葉が出てこない。ナナシが苦そうな顔を向けてきたが、その理由を問うこともできないまま、ミツカの意識は途切れた。
* *
深く刺さったままのミツカの鎌を、ナナシが斧で殴りつけると、刃はさらに深く入り込み、動きの鈍った異常個体が、目に見えて減速する。跳躍したムツキが、先ほどつけた横腹の傷を薙ぐように斬ると、さらに減速し、入れ替わるように近づいたイチが、その脇腹の傷に深く刀を突き刺すと、水袋を突き破る感覚があった。刀を引き抜くと、赤い体液が勢いよく吹き出す。
ゆっくりと減速していく異常個体は、ようやく動きを止め、どさりとその体を横たえさせた。周囲の『遣い』は一掃されており、イチは降り立った砂地で荒い呼吸を繰り返す。
ようやく死んだか、と息をついていると、ほぼ時を同じくして、刺さったままだったミツカの鎌が、赤い液体になってその姿を崩した。ハッとして振り返ると、ぐったりしたミツカが、歩み寄ってくるナナシの腕に抱えられていた。苦い顔をしたナナシが、ミツカを見下ろして言う。
「ちと強すぎた」
ミツカは完全に意識を失くしているようだった。『刃持ち』の刃は、外見を見る限りでは通常の武器と変わらないが、その実、持ち主の身体の延長線とも言えるものだった。刃に走る衝撃は、そのまま本人の感覚に返る。イチもナナシの斧を払った時は、想像以上の衝撃が全身に走り、しばらく痺れが残った。ミツカの場合は斧そのもので全身を思いきり叩かれたような衝撃になっていたはずで、無防備な状態ではひとたまりもなかっただろう。
すると、他のチトセと共に通常個体の討伐に当たっていたココノエが傍に来た。
「ムツキさん」
異常個体を検分していたムツキが振り返る。
「『遣い』の発生自体は落ち着きましたが、かなりの数がすり抜けて壁に向かっています」
ムツキがイチを振り返る。
「イチ。お前はミツカを連れて壁の内側へ戻れ」
「待てよ」
声を挟んだのはナナシだった。
「こいつが気を失ったのは俺の責任だ。俺が連れてく」
だがムツキは静かな口調で返す。
「だめだ。戦力としてはイチよりお前の方が上だ。お前には残ってもらう」
ナナシはなにかを言いたげに顔をしかめたが、諦めるように小さく息をつくと、イチに歩み寄ってきた。
「頼む」
小柄な体を受け取る。途端に怖気のような感覚が襲ってきたが、表には出さずに耐えた。
「イチ」
再びムツキに呼びかけられ、イチは振り返る。
「壁の中に入るまでの間、なにを見ても、なにがあっても、一切立ち止まらず、手を出さずに走り抜けろ。ミツカの命はお前にかかっている」
随分と念を押すものだと思った。だが人一人の命を預かっているのなら、そうもなるのだろうと思い直す。
「わかった」
イチは走りだそうと、壁の方を向く。だがその時初めて、想像以上の数の『遣い』が、壁に向かっているのを知った。思わず足を止めると、ムツキの声がした。
「行け」
振り返る。険しい瞳がイチを見つめていた。
「決して立ち止まるな。討伐は他の者に任せろ」
それでも上る思いを、どうにか飲み込む。イチは再び壁に向き直ると、硬くなった砂地を蹴った。
雨の降りしきる砂の海を、イチは壁に向かって走っていた。小柄な少女とはいえ人一人を抱えているせいか、いつもほどの速度は出なかったが、それでも壁に向かう『遣い』との距離は徐々に縮まっていた。
『遣い』の群れの中では、他のチトセ達が『遣い』を討伐し、その数を打ち減らしていっている。壁からは時折バリスタの矢が飛来し、群れの先頭付近に突き刺さっていた。矢は砂を撒き散らしながらいくらかの『遣い』を減速させ、その体勢を崩させるが、やはり完全な足止めとはならず、『遣い』はすぐにまた壁へと向かって行く。その繰り返しだった。
イチは群れの中を、縫うように走った。時折『遣い』を足場にして飛距離を稼ぎ、そうやっていくつかの『遣い』の波を抜けて壁に近付いていると、前方を行く『遣い』が一体、唐突に減速して動きを止めた。イチとの距離が縮まり、ゆっくりと倒れていくそれを、通り過ぎざま横目で見たイチは、眉をひそめた。
『遣い』の額に、バリスタのものではない、小さな矢が刺さっていた。怪訝に思ったのもつかの間、未だ前方にいる『遣い』の一部が、一体、また一体と減速し、動きを止めていく。追い抜いたそれらはすべて、額を矢で貫かれていた。
困惑が深くなる。通常の矢であれば深くは刺さらず、絶命に至らせることはできない。そして、絶命に至らしめる矢を放つ者は、たった一撃しか矢を放てないはずだった。
もしかしてという思いに、足を加速させ、いくつもの『遣い』を追い抜く。その間も、放たれた矢が次々に『遣い』を貫いていっていた。
壁が目前まで迫り、砂地を強く蹴りつけると、イチは大きく飛び上がって壁に乗った。狭い歩廊は、バリスタを操作する者と、その補佐をする者、伝令に走る者などでごった返していた。だが人ごみの向こうに、ただ一人、微動だにせず立って矢を構える姿がある。顔は見えなかったが、間違いなくイツヒだった。
声をかけようとした矢先、ふいに肩を掴まれる。
「おい、その子はどうしたんだ」
後方支援のチトセだった。
「刃に衝撃を受けて気絶した。外傷はない」
「そうか。すまないがそのまま隊の救護室まで連れていってやってくれ。『遣い』が多すぎてバリスタの装填が追い付いてないんだ」
「わかった」
一瞬、イツヒの方に目をやる。イツヒは引き絞った矢を構えていたが、その顔は、フードに隠されてやはり見えない。不安を残しながらも、イチは壁の内側へと降り、街の中を走った。




