第30話 雨
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夜明けは近いはずだったが、一帯は未だ夜のように暗かった。イチは壁の上に立ち、遠く佇む『砂生みの鯨』を見つめていた。
街と砂の海を隔てる長大な壁の上には、数十人のチトセと、覆いを取り払われたバリスタ、そしてそれらを扱う後方支援組の一部がいた。
ぬるく吹き抜ける風には、塩のような匂いが混じっていた。十年振りに嗅ぐ、雨の前兆だった。
微かな予兆も見逃すまいと意識を固く保っていると、隣に立っているナナシが口を開いた。
「固ぇなぁ。ちったぁリラックスしろ、リラックス」
「無茶言うな」
前方から目を逸らさずに返すが、ナナシは構わず話しかけてくる。
「そういやおめぇよぉ、あの夜ほんとに抱かなかったのか?」
場違いな発言に、だが顔が熱くなるのをイチは感じた。
「だから……だぃ……てねぇって言ってるだろ」
「ほんとか? あんなにギリギリに帰ってきたんなら一回ぐらいできただろう」
「無理でしょう」
口を挟んだのは、ナナシの向こう隣にいたココノエだった。
「なんでだよ」
「愛する人を抱くなら、一晩かけてじっくりと抱きたいものですからね。あんな短時間でなんて、とても」
イチは思わず振り返る。だがココノエはいつもと変わらず、至って穏やかな笑みを浮かべていた。ナナシが胡乱に尋ねる。
「朝までやるってのか?」
「もちろん無理強いはしませんが」
「……ミツカがいねぇからって言うじゃねぇか」
ミツカはちょうどムツキに伴われ、少しの間、別の場所に行っていた。
「女の子の前でこんな話はしちゃだめでしょう」
ココノエの笑顔に、イチは初めて底の知れないものを見た気がした。だがそれはナナシも同じようだった。
「初めておめぇが怖ぇと思ったぜ……」
ナナシがそう呟いた時、ちょうどミツカがムツキと共に戻ってきた。
「なに? なんの話してたの?」
「なんでもねぇ。大人の話だ」
「なによそれ!」
憤慨するミツカが、ナナシの隣で立ち止まる。ムツキはそのままイチの隣まで来ると、砂の海に目を向け、一言言った。
「二度目はないぞ」
なんのことだと思っていると、前を向いたままのムツキが、目だけを寄越してきた。
「あんな不自然な門番の交代をしておいて、なにも気付かないとでも思ったのか」
背中がひやりとする。懲罰という言葉が脳裏をよぎった。だがムツキは視線を前に戻すと、相変わらずの、感情の読みにくい声で言った。
「だがお前は逃げずに戻ってきた。だから今回だけは見逃してやろう。……ちゃんと、話せたのか?」
ムツキは表情が乏しく、なにを考えているのかわからないことが多い。声からも、それは推し量り難い。だがよく見ると、ちゃんと感情は表されていたのだと、イチはここに来てようやく気付けたような気がした。
「ああ」
そう答えると、ムツキの表情が、ほんの僅か、動いた。
「そうか」
暖かな色をした、そんな表情だった。ムツキもこんな顔をするのだと、イチは今更のように思った。
ふいに風が強くなり、塩の匂いが濃くなる。ぽつりと一滴目が落ちてきたかと思うと、次々にそれは増えていく。ついに降り出した雨に、イチはゴーグルをつけ、外套のフードを被った。
『砂生みの鯨』の方角が、薄明るくなってくる。ようやくの夜明けと同時に、あの音が響き始めた。
低く、遠く。生き物のような、機械のような。弦楽器のような、笛のような。響いてはやみ、やんでは響くその音は、砂を渡る風に乗り、微かに、だが確実に聞こえてきていた。
「構えろ!」
ムツキが叫び、その手に両刃の剣が生まれた。イチも倣って刀の刃を出し、ナナシ、ミツカ、ココノエもそれぞれに刃を手にする。他の班からも、リーダーの構えろと叫ぶ声が聞こえ、一部の後方支援組を除く壁の上のチトセ達は、一斉にその手に刃を握った。
遠くに、蠢くものが見えてくる。『砂生みの鯨』を起点として生まれたそれは、徐々にその両端を広げ、地平線と同化していく。
イチは、自分の心臓が早くなっていくのを感じた。いつものように砂煙を上げないそれが、立ち込めた雲の下、薄く光る銀色の地平線となり、こちらに向かって迫ってくる。それは、今までに見たことのない、とてつもない規模の『遣い』の群れだった。
「かかれ!」
ムツキの号令に、刃を構えたチトセ達が、一斉に砂の海に飛び出す。同じく飛び出したイチは、雨でいつもより硬くなった砂に着地すると、全力で走りだした。
雨の降りしきる中、ひたすらに砂地を蹴りつけていると、標的が徐々に近くなってくる。『遣い』の形状がはっきりと見て取れる距離にまで来た時、ムツキが叫んだ。
「散開!」
ムツキ、ナナシ、ココノエが加速、イチと、配置の変わったミツカは僅かに減速しながら、それぞれが離れていく。さらに『遣い』との距離が縮まり、先に向かった三人が『遣い』を刃にかけ始めた。左手に装備したヒガネも使って次々に倒すが、多すぎる『遣い』はそのいくつかが逃れ、イチとミツカの方まで来た。
イチは強く砂地を蹴ると、大きく飛び上がった。
地を埋め尽くす銀。それから零れ出た『遣い』を目掛け、刃を振り下ろす。刃は『遣い』の背を抉り、致命傷を与えた。その背を蹴りつけると、すぐ傍の『遣い』を斬りつける。次は左手のヒガネを使い、射出された鋭利な金具を、壁の方角に近い『遣い』に突き刺し、収縮と共に斬りつける。だが零れたものをすべて倒しきる前に、次の波が来た。息をつく間もなく、近いものから倒していく。
少し離れたところでは、ミツカが同じように次々と『遣い』を斬り伏せていたが、気を配っている余裕はなかった。『遣い』は際限なく現れ、ムツキ達や、同様に先行している他のチトセも、相当な数を倒しているはずだったが、『遣い』の数が減る気配はない。何体かがイチやミツカの手を逃れて壁に向かったが、そこにはまた別のチトセが立ちはだかり、逃れた『遣い』を仕留めていっていた。
音は終わりなく響いている。防水加工を施した外套が、徐々に重みを増していく。それでも『遣い』は次々に現れ、イチは刃を振るい続けた。
* *
「あークソ! しょっぺぇなぁ!」
無限に襲い来る『遣い』を斧で粉砕しながら、ナナシは悪態をついた。砂埃が上がらないので口元を覆わなくて済むのは楽なのだが、口を開けるたびに入り込んでくる塩辛い水が不愉快だった。体を冷やさない為とはいえ、濡れた外套が重くなってきたのも忌々しい。
二体の『遣い』をまとめて叩き斬ると、左手のヒガネを使いがてら、収縮の道中にいた『遣い』をまとめて斬り潰した。だがそれでも何体かの『遣い』はすり抜け、ミツカとイチのいる後方に向かう。横目で見やると、いくつかやむを得ず零しているものの、とりあえずはまだ余裕はありそうだった。ナナシは次の『遣い』へ、斧を振るう。
前回雨が降った十年前、ナナシは別の街で、傭兵として大量の『遣い』と対峙した。その為概ねの要領はわかっているのだが、この八番街という街が大きすぎるせいか、それとも別の理由からか、『遣い』の数が前回の比ではなかった。
どれだけ倒しても際限なく現れ、このままだとジリ貧になるのは確実だった。いかに『刃持ち』が身体能力に優れ、体力も人並み外れているとはいえ、限度がある。いつか誰かが、最初にやられる。そして人を食った個体をいち早く倒さなければ、地獄が始まる。
「最初の一人にゃ、なりたくねぇなぁ」
呟いたナナシは、再び後方のミツカを横目で見た。




