第3話 消えぬ後悔
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イチが生まれた時から、世界は砂に包まれていた。世界がこうなってしまったあらましは幼い頃に親から聞いたが、この砂の世界しか知らないイチにとって、それはどこか遠い場所の話のように感じた。時折砂の中から掘り出されるかつての文明の遺物を見ると、確かにあの話は本当だったのだなと思いはしたが、実感は湧かなかった。
世には手から刃を生み出す『刃持ち』と呼ばれる人間とそうでない人間がおり、砂の海の向こうには、遠く霞むようにして、巨大ななにか――世間では『砂生みの鯨』と呼ばれているそれが、静かにそそり立っている。生まれた時からそれが当たり前だった。
時折思い出したように音が鳴りはしたが、鳴るだけでなにも起こらないので、特に気にすることもなかった。イチのいた街は小さく、そういった街は『遣い』が現れないとされていた。
だが五年前のある日、いつものように響いた音は、その時初めて、見たことのないものを連れてきた。
ちょうど街を見下ろす高台にいたイチは、それを見た。『砂生みの鯨』がある方角から砂煙を上げて、三体の巨大な魚のようなものが来るのを。
魚はあっという間に街に近づくと、申し訳程度に作られていた壁を食い破り、建物を、人を、あらゆるものをその口で食らい始めた。圧倒的な勢いで迫りくるその生き物に対抗できる者は、恐らくそこにはいなかった。イチ以外は。
遠く悲鳴が聞こえる。泣き声が聞こえる。助けに行かなきゃと思った。イチは『刃持ち』だった。この刃は確か、『砂生みの鯨』から来るものを倒す力を持っているはずだった。それを使える者は、あの生き物を倒せるのは、この街では自分しかいないはずだった。
だがイチは動けなかった。恐るべき速さで街を巡り、抵抗すら許さず、その口でなにもかもを食らう。理不尽とも言える力で街を蹂躙するそれが、とても恐ろしかった。震える脚は、固まったように一歩も動かなかった。
イチは『刃持ち』だ。だがそれだけだ。戦ったことなどなかった。生まれてから一度も、あの生き物を見たことがなかった。父も母も同じで、イチが幼い頃に亡くなった祖父もそうだった。だからそれが、今になって現れるなんて思いもしなかった。
街や人を食らいつくし、破壊し尽くしたその生き物達は、なにかを探すようにしばらくその場を巡っていたが、やがて再び砂の海へと戻り、次第に見えなくなっていった。
それからどれだけの時間が経ったのか、気がつけば震えは止まっていた。足も動くようになり、ようやく歩けるようになったイチは、街へと戻った。
だがそこには、なにもなかった。瓦礫すらもほぼ食い尽くされ、ほとんどの場所が更地のようになっていた。イチの家があった場所も、なにもなくなっていた。
みんな食われてしまった。この目で見たから確かにそうであるはずだったが、あまりにもなにも残っていないので、実感が湧かなかった。
ぺたりと、その場に座り込んだ。空から降り注ぐ日の光が、やがて高台の向こうに沈み、辺りが暗くなる。しばらくするとイチは唐突に思った。
――腹、減ったな。
いつもなら、そろそろ夕飯の時間だった。家々から漂う炊事の煙と、鼻をくすぐる香りがするはずだった。家に帰ると、母がいて、父がいて、今日あったことを話しながら、食卓を囲んでいた。いつもそうだった。今日もそのはずだった。だがもう、会えないのだ。あの顔を見ることも、話すことも、もうできない。
目頭が、じわりと熱を持った。
どうして動かなかったのだろう。戦い方を知らなくても、なにかできたかもしれなかった。誰かを助けることができたかもしれなかった。家族を助けることができたかもしれなかった。
後悔が胸を灼く。息が苦しい。嗚咽が漏れた。
なにもなくなった街で、誰もいなくなった街で、イチは一人、泣き続けた。
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目を開ける。薄暗い天井が見えた。次いで目尻が濡れていることに気付き、イチは手の甲でそれを拭った。
体を起こし、傍に置いた背嚢を漁る。水筒を取り出して、一気に飲んだ。
大きく息を吐き出す。あの時の夢を見るのは久しぶりだった。どうしてだろうと思い、トトハのせいだろうか、と思った。家族、なんて言葉を聞いたから。
水筒を背嚢に戻し、窓から外を見る。夜明けが近かった。この建物は二階程度の高さしかないが、この街は内陸側から沿岸の低地に向けて階段状に低くなっており、イチのいる廃墟は低地寄りであるものの、壁と、その向こうの砂の海はよく見えた。あの巨大な、『砂生みの鯨』も。
ふいに音が聞こえた。低く、遠く。
イチは背嚢の傍に置いてあった布とゴーグルを引っ掴んだ。首元に巻いて口を覆い、ゴーグルを頭につける。次いで背嚢を背負うと、そのまま窓を開けて飛び降りた。
着地し、走り出す。ひとけのない街の中、まだひんやりとする夜風を切って走っていると、やがて警鐘が響き始めた。人々が家からちらほらと出てきて、不安に駆られた表情で高台を目がけ走り出す。それらに逆流しながら走るイチは、やがて壁の近くまで辿り着くと、地面を蹴り、屋根を経由して歩廊に乗る。
この街の夜明けは、砂の海から来る。かつて水の海だった遠い地平線が、塔の影だけを長く引き、次第に明るくなってくる。それと同時に、イチの目は遠くから近づいてくる、大量の砂煙を見た。
目を凝らす。それは昨日倒したものと同じ外観の、魚の姿をした『遣い』。いつものように五体いた。イチは背嚢をその場に置くと、ゴーグルをつけ、壁を蹴った。
砂の上に着地し、その先へ更に走る。柔らかな砂は、だが蹴りつけると、固い地面と同様にイチの体を前に押し出し、『遣い』との距離を縮める。『刃持ち』特有の能力であると、かつて同じ『刃持ち』に聞いたことがあった。こうして砂の海を走る時は有用であるものの、いつまで経っても違和感は拭えない。
徐々に近づく。イチは砂を蹴って大きく飛び上がると同時に、その右の手のひらから刀の刃を生んだ。




