第27話 この刃があるから
日は完全に沈み、辺りは真っ暗だった。イチは目立たぬよう黒っぽい私服に着替えると、同じく黒い上着を羽織り、そっと隊舎を抜け出した。
敷地内の外灯を避けるようにして門まで進むと、門の傍にある通用口が、僅かに開いているのが見えた。静かに近寄り、外を窺うように押し開ける。すぐ傍には、夜の間だけ立っている門番がいた。一人は門のこちら側、もう一人は門を挟んで向こう側にいる。イチは傍にいる方の、亜麻色の長い髪を襟首で括った男に小声で声をかけた。
「ココノエ」
呼びかけられた男――ココノエが、顔を前に向けたまま、目だけで振り返る。
「よかった。出られたんですね」
「本当にいいのか、こんなことして」
「仮に今『遣い』が来たとしても、出るのは僕らではありませんから」
「そういう意味じゃなくて……」
勝手に門番を代わるなどということをして、なにか罰を受けたりしないのか。
だがそう言おうとすると、ココノエが切なさの混じる笑みを浮かべた。
「イチくん、もう雨が降ります。降る前にトトハさんに会えるのは、これが最後になるでしょう。君と彼女の関係性がどうであれ、直接言葉で伝えた方がいいですよ」
その瞳に垣間見えるのは、深い後悔だった。もう二度と、伝えることが叶わない相手への。
「おい、イチ」
ココノエとは門を挟んで反対の場所に立っていたナナシが、抑えた声を出した。
「とっとと行ってこい。俺らがここにいられるのは日付が変わるまでだ。変わったあとに帰ってきたら、無断外出でとっ捕まって懲罰ものだぞ」
促されたイチは、頷くと、通用口を潜り、そのまま夜の街に駆け出した。
トトハのアパートは、チトセの本拠地から離れた低地寄りにあった。
向かうにつれて外灯が徐々に減り、辺りを照らすものがなくなっていく。空にはずっと雲がかかっているので、月明かりもなかった。
夜目が効き始めた頃、見慣れたアパートが見えてくる。階段を駆け上がり、トトハの部屋の前で立ち止まると、上がった息を整える為に、深呼吸をする。そして響きすぎないよう控えめに、ドアをノックした。
重い金属の音が、それでも夜の静寂に響く。しばらくすると、中から怪訝な声が聞こえてきた。
「誰……?」
トトハの声だった。それだけで、なぜか急速に胸が苦しくなるのをイチは感じた。息を吸って、口を開く。
「俺だ。イチだ」
しばらく間があった。やがてがちゃりと鍵の開く音がし、内開きのドアがゆっくりと開かれる。
トトハがいた。髪は編んでおらず、眼鏡の奥の瞳が、呆けたようにイチを見つめている。
「……イチ?」
「ああ。悪かった、遅くなって」
トトハの瞳が、イチを見つめる。その顔が歪み、ぼろぼろと涙が溢れ始めた瞬間、飛び出してきたトトハがイチに抱き着いた。
「イチ!」
その体を、強く抱き返す。華奢な体は前よりも痩せたような気がして、胸が痛くなった。
「イチ! イチ!」
縋るように抱き着いたトトハが、涙声で何度も繰り返す。
「ああ。ここにいる。大丈夫だ」
トトハは声を上げて泣いた。完全に日の暮れた夜で、このアパートにはトトハ以外の住人もいたが、もうどうでもよかった。この体を離したくなかった。
泣き続けるトトハを、イチは強く抱き締めた。
* *
トトハは小さくしゃくりあげながらも、少しずつ落ち着いていった。幸い、別の部屋から苦情を言いに出てくる者は誰もいなかった。
誰もいない通路で抱き締め合っていると、腕の中のトトハがふいにぽつりと言った。
「なぁイチ、なんでここに来れたん? 出れへんのと違たん?」
「協力してもらったんだ、チトセの仲間に」
さすがに乗り込んできたハノンに殴られたことは黙っておく。というか、今トトハの家にハノンがいなくてよかった。いたらトトハを抱き締める前に、また何発か殴られていた可能性があった。
「イチ、チトセの人と仲良ぅなった?」
「ああ。色々忙しいけど、なんとかやってる」
だがそう口にした言葉は、どこか言い訳じみているような気がした。そしてそんな言葉よりも先に、言わなければならない言葉があることにイチは気付いた。
「悪かった、心配かけて。ずっと、顔見せなくて」
「ううん。イチが無事やったら、それでええよ」
毎夜泣いていたことを、トトハは一言も言わない。それが逆に、イチは辛かった。泣いていたと、心配だったと責めてくれた方が、よほど楽だったかもしれない。だがトトハはしないのだ。自分を抑えて、ただ、イチのことを思って。
「……なぁ、イチ」
「ん?」
「今日は、いつまでここにおれる?」
返答にためらう。だが嘘をついても仕方のないことなので、素直に答えた。
「日付が変わるまでには、戻らなきゃならない。だから、それまでだ」
「じゃあ、ちょっとの間だけでええから、お部屋ん中入らん?」
夜とはいえ、さすがに誰かが通りがかる可能性はゼロではない。それを思ったのだろう。
「そうだな」
明かりのない部屋に入る。どこかためらいを見せるトトハに、イチは椅子に座ろうと思ったが思い直し、ベッドに腰かけた。するとトトハが左隣に座り、身を預けてきたので、腕を回してその肩を抱いた。
トトハは黙ったままで、イチもまた口を開かずにいた。しばらくそのままでいたが、やがてトトハがためらいがちに口を開いた。
「あのな、ハノンちゃんがな、そろそろ避難した方がええって言うたん。もうじき雨が降るからって」
避難指示はまだ出ていない。それでもそう言ったということは、ハノンは『遣い』が来る雨を経験しているのだろうか。
「この街で雨が降ると、あの生き物がいっぱい来るやろうからって。やから今のうちに、奥の高いところに行った方がええって」
そこで言葉を止めたトトハは、迷うようにしたあと、小さく言った。
「イチは、あの生き物倒しに行くの?」
不安そうな声だった。だが嘘はつけない。
「……ああ」
トトハが、下ろされたイチの右手に向かって手を伸ばす。届くように手を動かしてやると、トトハは両手で触れてその手のひらを上に向け、そこに走る赤黒い筋を指先でなぞった。
「これがなかったら、イチも一緒に避難できたんかな」
『刃持ち』である印。これを持つ者は、大抵の場合、『遣い』の討伐から逃れることはできない。対抗するすべを持つ者が、持たないものを護るのは、暗黙の義務となっていた。だがイチにとって刃を振るうことは、義務などではなかった。
「これがあるから、トトハを護れるんだ」
あの、二十一番街でも。討伐の経験がない『刃持ち』ばかりの中、イチがいなければ、街の住人はすべて食われていたかもしれない。そこにいたトトハも含めて。だからこの力を疎んだことなど、一度もなかった。
「そうやけど……」
トトハが両手でイチの手を包み、震える声で言った。
「うちは一緒におりたい。あの生き物がおらんとこで、危ないことせんでもええとこで、ずっと、イチと一緒におりたい」
包む両手に、小さな力がこもる。
このまま逃げ出せたら。ほんの一瞬、そんなことを思った。だがそんなことをすれば、この時間を作ってくれたココノエやナナシを裏切ることになる。ヨミの苦しみを、イツヒの思いを、ムツキの信頼を、すべて捨てていくことになる。それだけは、どうしてもできなかった。
だからせめて、伝えなければいけないことを、伝えようと思った。
イチは自分の手を包むトトハの手を、逆に強く握り返した。
「トトハ」
身を預けるトトハを見下ろす。間近で見上げてくるトトハの瞳は濡れていた。
「お前は、俺のことを家族だって言ってたよな」
そう聞くと、トトハは俯くようにして目を逸らした。
「……うん」
目を逸らす、その意味が。自分が思っているものであるのなら。
「俺はトトハが好きだ。もしトトハも同じ気持ちなら、顔を上げて、こっちを向いてくれ」
トトハが、ためらいがちに顔を上げ、イチを見つめる。頬を染め、上目遣いに恐る恐る見上げてくるトトハが、たまらなく愛しく感じた。
衝動のままに、顔を近づけた。トトハが目を閉じる。唇が重なった。
肩を強く抱くと、トトハが体を強張らせる。だがそれすら愛しかった。
長く、長く重ね合わせていたそれを離すと、トトハが小さく息を吸う。呼吸を止めていたようだった。その顔は耳まで赤くなり、恥ずかしげにイチを見上げてくる。かわいいと思った。思ったら、抱き締めていた。
「好きだ」
改めて口にすると、なぜ今までこの気持ちがわからなかったのだろうと思った。自分はずっと、トトハのことが好きだったのだ。抱き締めたい、愛しいと、ずっと思っていたのだ。
トトハがゆっくりと、その手をイチの背中に回した。
「うちも、イチのことが好き。ずっと、ずっと好きやった」
縋りつくように抱き着いてくるトトハを、強く抱き締める。このままずっとこうしていたかった。トトハの傍にいたかった。でも時間は、徐々に迫ってきていた。
「トトハ」
その体を抱き締めながら、イチは言った。
「必ず帰ってくる。トトハを一人にはしない」
「うん……」
抱き締める手から、少しずつ力を抜いていく。トトハもゆっくりと手を下ろし、イチと向き合う形になった。
トトハの頬を濡らす涙を、イチは、指で拭う。そしてその頬に触れると、再び唇を重ねた。




