第26話 ハノン、襲来。
その日の昼過ぎ、イチは面会人があると言われ、ココノエに連れられて面会室へ向かった。部屋の前まで来ると、妙に優しい笑顔で送り出される。
「では、僕はここで。ゆっくり話していていいですよ」
去っていくココノエを怪訝に思いながら、ドアノブを回す。もしかして、と面影をよぎらせながらドアを開けて部屋に入ると、窓際で背を向ける影があった。
後頭部で高く括り上げた黒髪が、短い束となって尻尾のように下がる。日焼けした首が振り返り、イチを見止めた琥珀の瞳が、キッとつり上がった。
「ハノン?」
なぜハノンがと思った次の瞬間、ハノンはどかどかと大股で部屋を横切ると、妙に分厚いグローブをつけた右腕を振りかぶった。
「うおぁっ!」
とっさに避けると、拳が空を切る。だがハノンはそこで止まらず、体を反転させると回し蹴りを放ってきた。それもギリギリでどうにか避けると、ハノンが強く睨みつけてくる。
「なんで避けるのよ!」
「避けるだろ普通! ていうかなんだよ急に!」
「あんたが悪いのよ!」
「はぁ?! わけわかんねぇよ説明しろ!」
「説明しなきゃわかんないわけ?!」
「わかるかよ! なんだよ!」
すると肩で息をしていたハノンは、イチを睨みつけたまま、その声を低く落とした。
「あんた、なんでトトハに会いに来ないの」
突然出された名前に、イチは怯む。
「仕方ないだろ……規則があるんだから……」
「そんなものどうとでもなるでしょ。四六時中討伐に行ってるわけじゃないんだし」
「いや、討伐以外にもやらなきゃならないことがあるんだよ」
「『刃持ち』が『遣い』の討伐以外になにしてるってのよ」
ハノンの声は、込み上げる怒りのせいか僅かに震えていた。とても業務内容についてつらつらと話せる雰囲気ではない。
「悪いとは……思ってる……」
「思ってるんならさっさと会いに行きなさいよ」
「でも規則が――」
「規則、規則ってねぇ……!」
ハノンは下ろした拳を握り締め、俯いた。
「最初の一週間は、あの子も耐えてた。自分を安心させるためにあんたがチトセに入ったって、わかってたから。でも音が鳴って『遣い』が来て、討伐が終わったあともあんたは来なくて、ずっと不安がってて。それでもあんたを信じようとしてたのよ。一緒に討伐に行ってる他のチトセもいるし、絶対無事だって、思おうとしてた。でもどれだけ思っても、ちゃんとあんたの顔を見て確認できないと、不安なのよ。わかるでしょう? あの子家族を亡くして、まだ一年も経ってないんだから」
なにも言えずにいるイチに、ハノンの手元で、グローブが、ぎり、と音を立てる。
「あんたは知らないでしょうけどね……」
ハノンが顔を上げる。濡れた目が射貫くようにイチを睨みつけた。
「あの子はあれから、毎晩泣いてるのよ!」
脳裏に浮かぶ、小柄な肩。ドア越しに聞こえてきた泣き声。
次の瞬間強い衝撃に襲われ、イチは近くにあった椅子を盛大に巻き込んで床に倒れた。左頬が強く痛み、口の中に血の味が滲む。ハノンに殴られたのだと、遅れて気付いた。
音を聞きつけたのか、駆け寄る足音のあとに、ドアが開く。
「おい、なにごとだ?」
ナナシだった。後ろには、不安げな表情のミツカもいる。だがハノンはまったく気に留めず、体を起こしたイチに歩み寄ると、胸ぐらを掴んで再び拳を振り上げた。
「ちょ、待ておめぇ……!」
慌てて駆け寄ってきたナナシがハノンの腕を掴む。一瞬怪訝な表情をしたナナシに、ハノンは振り返ると、強く腕を払ってナナシの手を離させた。
もう一度イチの方を向き、だが殴ることはせず、低く吐き捨てる。
「あの子を泣かせるぐらいなら、チトセなんて辞めちゃえばいいのよ」
そのまま突き飛ばすようにイチを離すと、呼び止めるナナシを一瞥もせずに部屋を出ていった。入れ替わりのようにして、ココノエが来る。
「どうしたんですか? さっきの子、随分怒ってるみたいでしたけど……」
イチは俯いたまま答えられなかった。ナナシが呆れたように呟く。
「おめぇ、随分荒っぽい女が好きなんだな……」
その後ナナシに引っ張り起されたイチは、救急箱を持ってきたココノエに手当てされる傍ら、先ほどの顛末を話させられた。だが簡単な説明では到底伝わらず、結局、自分とトトハのことをつまびらかにする羽目になった。そしてすべてを聞き終えたナナシは、開口一番に言った。
「おめぇ本当にそのトトハって嬢ちゃんと恋仲じゃねぇのか?」
「トトハはそういうのじゃない。トトハは……家族だ」
「そんなもん嬢ちゃんが勝手に言ってるだけだろ?」
「そうだけど……。家族なんだ……たぶん」
「たぶんってなんだよ。自分でわかんねぇのか?」
ナナシが呆れたように言った。
実際イチは、トトハとの関係性をどう表すべきか迷っていた。血の繋がりはない。だが付き合っているわけでもなく、いわゆる友人なのではないかとも思うのだが、その関係性はどこか距離を感じ、適切ではない気がする。ならやはり、家族なのではないかと思うのだ。
護りたい。傍にいてやりたい。心から、大切だと思う。だがこの感情がどういったものなのか、イチにはわからなかった。トトハの家に世話になっていたのは半年ほどだが、二つ下のトトハは、どこか妹のような存在だった。それがなおさら、感情の正体をわからなくしていた。
「だって……トトハは妹みたいな存在だったから……」
口に出した言葉は、なぜか妙に言い訳がましく聞こえた。そしてそんなイチに、露骨に疑わし気な表情をしたナナシが言った。
「わかりやすい判別の仕方があるだろうが。そいつを抱きてぇと思うかどうかだ」
「品がないですよ、ナナシ」
ココノエが窘める声を出す。
「間違ってねぇだろ」
ナナシはココノエに向かってそう言うと、再びイチを見た。
「抱くなんてありえねぇって思うんなら、間違いなくおめぇにとってトトハは妹なんだろう。でもそうじゃねぇなら、そうってこった」
そう言われ、視線を落としたイチは考えてみた。抱くとは、つまり、抱き締めるのではなく、トトハとそういうことをするということだ。
抱き締めた時のことを思い出す。華奢ではあるが、頼りなくもあの柔らかな感触は、自分とはまったく違うものだ。そしてその肌に触れることを想像した瞬間、一気に顔が熱くなった。
「おっ。なに想像した?」
ナナシがニヤニヤと笑う。
「ナナシ。ミツカもいるんですよ」
ココノエの言葉に、思わず顔を上げる。ナナシの隣にいるミツカと目が合った。勉強に戻れと言われていたのに、ごねて居座っていたことを思い出した。目が合ったミツカの顔が、なぜか赤くなる。
「バカ! スケベ!」
叫ぶなり、ミツカは部屋を飛び出していった。
見られたくない顔を見られたことと、そんな顔をミツカに向けてしまったことにいたたまれなくなり、イチは俯いて頭を抱える。
「くそ……」
ナナシが楽しげにがははと笑った。
「ま、その反応ならもうわかっただろ。おめぇはトトハを妹としてじゃなくて、一人の女として好きになってんだよ」
「でもトトハは俺のことを家族だって……」
顔を上げてそう言うと、ナナシが、ハッ、と鼻で笑った。
「んなもん関係ねぇだろ。それにその家族だってやつも、ほんとにそう思ってんのかって話だ。それを言ってる時の嬢ちゃんは、ちゃんとおめぇの顔を見て言ってたか?」
そう言われて思い返すが、どれだけ思い出してみても、顔を逸らしながらそう言っているトトハしか思い出せなかった。
「一回聞いてみろ。ほんとに家族だと思ってるのかどうか」
そうではなかった場合、どうなるのだろう。トトハのことはずっと家族だと思っていて、それ以外の関係性のことなど考えたこともなかった。
「まぁ、とにかくですね」
ココノエが改めるように口を開いた。
「これは一度、なんとかした方がいいでしょう。イチくんには、できたらチトセに居続けてほしいですし」
「なんとかっつったってどうすんだよ。こんな雨が近い時に、急遽休み突っ込むなんてできねぇだろ」
「ちょっと考えがあるんです」
そしてココノエは、その穏やかな顔に、珍しくいたずらを企むような笑みを乗せた。
「ナナシにも、協力してもらいますからね」
穏やかながら、逃げることは許さないと言わんばかりの口調に、ナナシは苦虫を噛み潰したような顔をした。




