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砂の鯨は天(そら)に啼く  作者: 銀子


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第25話 犠牲とは



 * *



 雲が広がり始めて、四日目の朝だった。もはや日差しはまったく見えず、街中が不安に包まれていた。そんな中、もうそろそろ昼の休憩に差し掛かろうという時に、イチはムツキから小さな紙片を受け取った。ヨミからとのことで、内容を読み次第、すぐにヨミの仕事部屋に向かうようにと言われる。


 以前相談したことで、なにか進展があったのだろうかと思った。イツヒも不在の中で気が引けたが、イチは紙片の走り書きを読むと、ココノエに断りを入れ、作業を中断してヨミの部屋に向かった。


 ドアの前に立つ。そこで改めて、手に持ったままの紙片を見た。ノックはせず、声もかけずに静かに入れとのことだった。怪訝に思いながらも、ノブに手をかけて静かに回すと、ドアを開けて中に入った。


 部屋の中は以前と同様に、本の山と書類の束で埋め尽くされていた。ヨミの姿はなかったが、やはりこれも以前と同じく、窓が開け放たれたままだった。また屋根の上にいるのかと思い、歩み寄った矢先、話し声が聞こえてきた。


「今、随分と酷いことを頼まれたような気がするんだけどね」


 ヨミの声だった。やはり屋根の上にいるらしい。誰かと話しているのか? と耳を澄ませると、もう一人の声がした。


「たぶんあってるよ」


 イツヒだった。イツヒも呼んでいたのだろうか。それなら一緒に呼べばよかったのにと思っていると、少し険しくなったヨミの声がした。


「だめだ。さすがに了承できない」


「でも君も気になるんじゃない? どれだけ効果があるのか」


 沈黙が落ちる。やがてヨミが重苦しい口調で言った。


「……研究者としては、そうだろうね。だが一人の人間としては大反対だ。それにそんなことをしたら、私がナナシに殺されちゃうよ」


「それなら遺書に書いておくよ。ヨミを殺さないでって」


「……笑えないね」


「笑わせるつもりじゃないからね」


 なんの話をしているのだろう、と思った。だが妙に重苦しい雰囲気に、声をかけづらい。


「十年前――」


 イツヒの声がした。


「あの雨の日に、ムツキは君を庇って大怪我をしたそうだね」


 トジの言っていた話だった。初めて前線に出たヨミを庇って怪我をしたと。だが怪我の程度までは知らなかった。


「おれの頼みを聞いてもらえたら、そういった危険は減らせるんじゃないかな」


 すると、ヨミが低く笑う声がした。


「肉親の情に訴えるか。キミがそんな手段を取るとは意外だよ」


「できることをしたいって、思ってるだけだよ」


 イツヒの声は、いつものぼんやりとしたものだった。だがなにか不穏なことをしようとしているのはわかった。


「じゃあこうしよう。それは研究の過程でたまたまできたものだった。それを勝手に忍び込んだおれが使った。どうかな」


「……よく喋るようになったな。ナナシの影響か?」


「そうかもしれないね。ナナシは、ずっと傍にいてくれたから」


 しばらく沈黙が下りた。イツヒの声が動く。


「じゃあ、鍵をあけておいてくれると助かる」


「わかったとは言えないよ」


「いいよ、開いてなくても勝手に入るから」


「そもそも作るとも言ってない」


「ヨミなら作れるよ。それに壁が破られたら、どのみち死ぬのは時間の問題だ。それもヨミはよくわかってるだろ?」


 立ち上がる気配。イチは窓から離れると、山積みの書物の陰に隠れた。だが予想に反して、イツヒは部屋には入ってこなかった。どうやら以前のイチと同じく、直接飛び降りたらしい。遠くで降り立つ音がした。


 聞いてはならないものを聞いてしまったような気がした。だがいったい、イツヒはなにをしようとしているのか。


「イチ、いるかい?」


 突然呼びかけられ、イチはびくりと肩を震わせた。だがヨミは部屋に戻ってきたわけではなく、声は屋根の上からしていた。


「いたら上っておいで」


 続けてそう言われ、イチはもう一度窓に近づくと、窓枠に足をかけ、屋根の上に飛び乗った。


 予想通り、ヨミは前と同じく屋根に座っていたが、心なしか、その表情にはいつもの覇気がない。


「呼び出して悪かったね」


 いつもと違う雰囲気のヨミに居心地の悪さを覚えながら、イチもその隣に腰を下ろす。


「さっきの話、聞こえていたかい?」


 素直に頷くのは盗み聞きを肯定することになるのだが、すぐさま返事ができなかった時点で同じことだった。


「途中から、なら……」


 気まずさを感じつつ答えると、ヨミは視線を落として言った。


「じきに、雨が降るだろう。キミは、『遣い』を呼ぶ雨に遭ったことはあるか?」


「いや……」


 そう返すと、ヨミは俯いたまま、立てた膝にその腕を乗せた。


「雨が降った時に来る『遣い』の数は、その街の人口に比例すると言われている。この十年でこの街の人口は飛躍的に増えたが、総人口に対する『刃持ち』の比率は、圧倒的に少ないままだ」


 ヨミは顔を上げ、砂の海の方を見やった。チトセの本部から壁のすぐ傍にまでひしめく、低地に広がった街並みを。


「恐らく少なくない数の犠牲が出るだろう。十年前に比べて壁は高くなったが、最悪の場合、また破られるかもしれない」


 イチは思わず耳を疑った。


「……破られる?」


 こんなに大規模な、街を覆う壁が。


「ああ。じきに避難指示が出るから、住民の被害はほとんどないだろうがね。だが低地で食い止められなかったら、それもその限りじゃない」


 食い止められなかった『遣い』は奥地へと向かう。刃を持たない人々のところへと。イチの脳裏に、トトハの姿がよぎった。


「十年前は、このチトセの本部が最も砂の海に近い建物だったんだ。この十年で、低地に向けてここまで街が広がってしまった。護るべき人が、増えてしまった」


 ヨミは一度そこで言葉を切ると、痛みをこらえるようにその顔を歪め、酷く苦しげに言った。


「……足りないんだよ、『刃持ち』が」


 その手が、強く握り締められる。


「だから私はたぶん、イツヒの頼みを聞いてしまうと思う。『刃持ち』の力を強化すると想定されている、試薬を」


 ヨミはうなだれるように、膝に乗せた腕にその顔をうずめた。


「酷い人間だ。軽蔑してくれて構わない。殴りたいのなら殴られよう。だがそれでも、私は……」


 きっかけがいつだったのかはわからない。だがヨミは、イツヒがこの持ちかけをしてくると予想していたのだろう。だからイチをここに来させた。こっそりとこの部屋に入るようにと。人に聞かれてはならないあの会話を、聞かせる為に。


 してはならない。止めてほしい。でもそれを振り切るであろう自分もいる。


「キミの選択は自由だ。聞かなかったことにしてもいい。このことを公に晒してもいい。ナナシ辺りに知らせたら、私を捕まえて、絶対に作らせないようにするだろうね」


 『刃持ち』の力を強化すると想定されている試薬。試薬というからには、まだ不明な点が多いものなのだろう。だがそれでも、イツヒはそれを望んだ。


 ――どうしておれの刃は弓の形なんだろう。どうしてこんな、一人で戦えない、一体しか倒せない力なんだろう。


 あの曇りを、晴らすことができるものなのか。それでも――。


 ヨミが顔をうずめたまま、震える声で言った。


「今のままであれば、イツヒは後方支援に回されるだろう。だが《《そうならなければ》》、ナナシ達に知らされない形で前線に変更になるかもしれない。その時は、できうる限りイツヒの傍にいるつもりだ。なんの贖罪にもならないがね」


 イチは俯く。止めるべきだ。そう思う。どんな副作用があるかもわからない試薬で、イツヒの身を危険に晒すなんて、あってはならない。だが壁を破るかもしれないほどの大量の『遣い』に、果たしてどこまで対抗しきれるのかという思いもあった。


 避難すると言えど、街はすべてが繋がっている。倒せなかった『遣い』は、奥地へ行ってしまうだろう。だがそこにいるのは、刃を持たない人々だ。それを思うと、一人でも多くの『刃持ち』が、一体でも多くの『遣い』を倒さなければならない。もしイツヒが、戦い続けることができるのなら……。だがそれでも……。


 なにが正しい。なにを優先したらいい。どうすれば、犠牲を減らせる。そもそも犠牲とは、なんだ。


 だがどれだけ考えても、答えは見つからなかった。





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