第21話 ナナシになら
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夜明け前の薄暗い部屋の中で、ナナシはペンを握っていた。向き合う机の上には、あの面倒な書類がある。夜通し考え続けて、とうとう夜明けになってしまったのだった。
顔を上げ、窓を見る。遥か遠くには、あの忌々しい『砂生みの鯨』が見えた。頭の中をよぎったものを無理やりに振り切り、再び書類に目を向ける。そして、がりがりと不器用なペン先を走らせた。
ペンを置き、紙を四つ折りにすると、備え付けの引き出しを開け、その中にペンごとしまう。本来ならムツキに提出しなければならないが、自分の性格をよくわかった奴がこれを見つけるだろうから、問題はない。
すると、見計らったかのように外が明るくなってきた。だが雲は昨日よりも多く、日差しそのものは見えない。
ナナシは立ち上がると大きく伸びをした。部屋の反対側に視線をやると、ベッドで眠るイツヒが目に入る。寝息も静かなもので、生きているのか疑わしくなるほどなのも、いつものことだった。
まだ少し早いが、起こしにかかるか、とナナシは思った。イツヒは朝が弱い。まずなかなか起きない上に、目覚めて体を起こしても、それからかなりの間、ぼーっとしている。放っておけばそのまままた寝ていくので、着替えさせて食堂まで連れて行くのが、ナナシの日課になっていた。
「イツヒ、起きろ」
無駄だとわかっていても、まず声をかける。だが当然のように反応はない。
「イツヒ」
呼びかけながら近付き、だがふと、イツヒの机の上に置かれているものに目がいった。あの書類だった。紙面にはなにも書かれておらず、だが僅かに皺が寄っていた。
イツヒはなにを思ったのだろう。そんな考えがよぎったが、断ち切るように目を逸らし、ベッドに向かう。そしてその細い肩に手を伸ばした。
掴んだ瞬間、ぞわりとした感覚が走る。だがそれを無視して乱暴に揺さぶった。
「おらイツヒ、起きろ」
がくがくと揺らすと、イツヒがうっすらと目を開けた。
「う……」
その目が彷徨い、ナナシを捉える。かと思ったのもつかの間、再び閉じられた。
「こら寝るんじゃねぇ、起きろ」
再びその肩を強く揺らす。手のひらからは怖気のような感覚が延々と立ち上り、腕を伝って体にまで走ってくる。決して快いものではないが、これも毎日のことなので、ナナシはさらに強く揺さぶった。
「お・き・ろ!」
耳の近くで半ば叫ぶように言うと、イツヒが眉を寄せ、掛け布を肩まで引き上げようする。
「寒い……」
その感覚は、間違いなくナナシがイツヒに触れているからであり、寒い以上の感覚があるはずなのだが、それだけで済ませてまた眠ろうとするイツヒに、ナナシは次の手段に出ることにした。
肩から手を離し、手のひらを、その首にぴったりと触れさせる。頸動脈を、覆うように。
すると、イツヒがぱっと目を開けた。ナナシが手を離すと、ぼんやりとしながらも驚いたような顔のイツヒが、ナナシを見上げてきた。
「びっくりしたぁ……ナナシかぁ……」
「起きたんなら体も起こせ」
ナナシが言うと、イツヒはベッドの上でもぞもぞと体を起こした。そしてうとうととした目で、呟くように言う。
「びっくりした……殺されたかと思った……」
「おめぇが起きねぇからだよ。嫌ならとっとと起きろ」
イツヒの言葉は一見、見当違いな反応に思えるが、『刃持ち』同士では概ね間違ってはいなかった。触れ合うだけで発生する、あの奇妙な感覚。その感覚を言葉にしたとして一番近しいのは、命の危機、だった。触れているだけで、命の危機に晒されているような感覚。一刻も早く離れたいと感じるそれは、人体の急所とされる場所であるほど、触れられた相手には強い不快として伝わるようだった。
ナナシとしてもあまり積極的に使いたい手段ではないのだが、イツヒがあまりに起きない時は使うようにしていた。だが効果的だったのは最初のうちだけで、慣れてしまった今となっては、また寝てしまうことが多いのだが。
眠たげに瞬きを繰り返していたイツヒの視線が、徐々に危うげなものになっていく。
「びっくり……したぁ……」
「おいおいおい寝るな寝るな」
目を閉じて傾いていくイツヒの両肩を掴み、その体を起こさせる。首をがっくりと垂れさせながら、イツヒがもごもごと言った。
「ナナシ……寒い……」
「俺だって同じなんだよいい加減起きろ。また首触るぞ」
脅すように言うと、イツヒがゆっくりと顔を上げた。ナナシを見上げるような角度だが、その目は閉じられたままだ。そのままなにかを言うのかと思ったが、予想に反してイツヒはなにも言わず、ナナシに顔を向け続ける。
「……なんだよ」
怪訝に眉を寄せると、イツヒが言った。
「……いいよ」
「あ?」
「……首、触っていいよ」
相変わらず寝ぼけた声の、だが返された言葉に、ナナシは戸惑った。寝ぼけているだけにしても、こんなことを言ったことは今までになかった。妙に混乱してしまうのは、触れ続けてしまっているせいかと思い、肩から手を離す。
イツヒは目を閉じたまま、こちらに顔を向けている。イツヒの意図が読めなかった。だが状況的にただ寝ぼけているだけの可能性は高く、ならさっさと起こしてしまおうとナナシは思った。
右の手を伸ばし、その細い首に触れさせる。イツヒの眉が僅かに動き、その目がうっすらと開かれた。ぼんやりと、ナナシを見つめる。
「目ぇ覚めたか」
そう言って手を離そうとすると、イツヒの手がナナシの手首を掴んだ。そのままナナシの手を、自分の首に押し付ける。怪訝に思っていると、ナナシを見つめたままのイツヒが、ぼんやりとしながらも、ふっと笑みを浮かべた。
「おれ、ナナシになら、殺されてもいいかも」
寝ぼけたこと言ってんじゃねぇと、とっさに言えなかった。その、ただ寝ぼけているだけのはずの表情と、その言葉に、妙に不穏なものをナナシは感じた。だがその不穏さの先にあるものを考えるということを、意識の奥底が拒絶する。
ナナシは強く腕を引き、細い首から手を離すと、その手で拳を作り、イツヒの頭に思いきり振り下ろした。
「いっ……たーぁ……」
イツヒが頭を押さえて俯く。
「寝ぼけたこと言ってんじゃねぇ! とっとと起きろ!」
動揺をごまかすように怒鳴りつける。イツヒは俯いたまま「痛い…」と呟いていたが、その声の張りは起きているものだった。
「起きたら着替えろ。朝飯食いっぱぐれるぞ」
外はだいぶ明るくなってきていた。他の部屋からも、動き始めた音が聞こえてきている。
イツヒは渋々のようにベッドから降りると、寝間着代わりにしている服を一気に脱ぎ捨てた。寝る時に下着をつけないせいで、そのまま全裸になる。これも毎朝のことながら、この羞恥心のなさは直らなさそうだな、とナナシは思った。
イツヒはかつていた街で、幼い頃から馬鹿な大人どもに、神だなんだと言われて育てられたせいか、一般常識に欠けているところがあった。その言動も、歳の割に幼いと感じることがある。だがそれ故に、先ほどの言葉の真意が量り難かった。
――ナナシになら、殺されてもいいかも。
なぜあんなことを言ったのか。わざと首を触らせていたことも思うと、ただ寝ぼけて言っただけだとも思いにくかった。
目をやったのは、机に置かれた例の書類だった。皺が寄った、白紙のままの書類。やはりあれが関係しているのだろうか。
イツヒは、かつて一体しか倒せずに多くの犠牲を出したことを、ずっと悔いていた。どうしようもなかったことなのに、だ。そしてムツキは、イツヒでも確実に討伐できるよう、そしてイツヒに危険が及ばないようにと、チトセ内の人員を調整した。
だが、弓を握ることを嫌がっていたイツヒを、いくら条件を整えたとはいえ半ば無理やりに前線に行かせたことを、ムツキが密かに悔いているのにもナナシは気付いていた。そこにようやく、刀の刃を持ったイチという有望な存在が現れ、イツヒは後退することができたというのに、じきに雨が降るという。
前回の雨では研究職のヨミも駆り出されたそうだから、今回、イツヒは間違いなくまた出る羽目になるだろう。だが曲がりなりにも近接型のヨミとは違い、イツヒは一発しか撃てない。どう配置されるのか。そしてイツヒは、なにを思ったのか。
「ナナシ」
声が聞こえたと同時に、背筋に一筋の怖気が走る。指でなぞられたのだということは、すぐにわかった。
「余計なことすんじゃねぇ!」
怒鳴りつつ振り返ると、制服に着替え、ナナシを見上げるようにしたイツヒが、いつものぼんやりとした表情を浮かべていた。
「腹減った。飯、食いに行こう」
時折こうして少し口が悪いのは、恐らく一緒にいる時間が長かった自分のせいなのだろう。いつもと変わらないその様子に、ナナシは喉の奥にわだかまっていた思いを飲み込む。
「おお。歩きながら寝るなよ」
いつもと変わらぬ声音を作ってそう返すと、ナナシはドアへと足を向けた。




