第19話 神様だった
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人のごった返す市場の一角で、ハノンはぼんやりと、薄曇りの空を見つめていた。こんな空は嫌いだった。十年前のあの、雨の日を思い出すから。
はぁ、と溜め息をついた時、遠くから駆けてくる聞き慣れた足音に、反射的に表情を改める。暗い表情は浮かべていられない。心配させるのは論外だからだ。
なんとなく空を見ているだけという顔を作っていると、足音はさらに近づいてきた。
「ハノンちゃん! 買うてきたよ!」
呼びかけに、今気付いたとでもいうように振り返る。ハノンの傍に立ち止まったのは、両手に砂小麦の薄焼きを持ったトトハだった。買った場所からずっと走ってきたのか、やや息切れしている。
「走らなくてもよかったのに」
「冷めてしまうかと思て」
「そんなすぐ冷めないわよ」
苦笑しながら片方の薄焼きを受け取る。それと交換するように、ハノンが両手に持っていた荷物の片方をトトハが受け取った。
「ええ匂いー。いただきまーす」
そう言うなり、トトハは薄焼きに齧りつく。露店で買ったものにまでそんな言葉を言うトトハに微笑ましいものを感じつつ、ハノンも薄焼きに口をつけた。
甘味料で甘く味付けられた薄焼きには、これまた密漬けの果物が包まれている。あまりに甘すぎるのでハノンは少し苦手だったが、トトハが喜んで食べるので、一緒に外出した時にはよくこうして食べていた。
「今日の空、いつもより雲多いね」
もぐもぐと食べながら、トトハが空を見上げる。
「そうね」
「日差しが緩ぅなるのは嬉しいけど、いつもと違う空って変な感じ」
そう言って空を見上げるトトハの表情が、ふいに不安げに曇った。
「これって、雨が降るんかな?」
「……さぁ」
否定することはできず、かといって肯定もしたくなかった。この空は、いずれ雨を呼ぶ。ハノンは、かつて住んでいた街で雨に遭遇した。それが呼んできた大量の『遣い』にも。だがトトハは、前回の雨の時には内陸部に住んでいたらしく、『遣い』が来ることはなかったという。だから、知識としての不安はあれど、直接的なそれはないはずだった。ならば、下手に煽るようなことは言いたくない。
「まぁ降ったとしても、チトセがなんとかするでしょ。その為の組織なんだし」
だが言った傍から後悔した。トトハの顔が俯く。あのクソ男のことを思い出しているのは一目瞭然だった。
クソ男ことイチは、数日前にチトセに入った。この半年、一匹狼のように一人で『遣い』を倒し続けていたのに、どういう風の吹き回しなのか。
だがチトセという組織は思っていたより厳格だったらしく、寝泊まりは隊舎になるわ、非番以外は外に出られないわというありさまで、入ったというあの日から、トトハはイチに会えていない。一昨日『遣い』が来て討伐されたあとも、あの男がトトハに顔を見せに来ることはなかったという。
――真っ先に顔見せろって、言ったのに。
胸の中でぼやく。次に会ったら殴り飛ばすことは確定だ。とりあえず殴りやすいように、厚手のグローブをしておこう。
そんなことを誓いつつ隣を見ると、トトハはまだ俯いたままだった。トトハを落ち込ませている原因は百二十パーセントあの男なので、腹立たしいことこの上ない。ハノン自身がどうにかしてやることができない、ということも含めて。
ハノンはしばらく考え込むと、手に持った薄焼きを一気に食べ切った。甘さに若干胸焼けしつつ、それをおくびにも出さず明るい声を作る。
「なにあんた、まだ食べてるの? いらないなら貰うわよ?」
そう言いながら齧りつくふりをすると、トトハは慌てて手を引いた。
「あかん! あかん! うちが食べるんやから!」
トトハが慌てて続きを食べ始める。その顔からは一時的とはいえ曇りは晴れており、ハノンは小さく笑った。
* *
「イツヒを探してくれ」
イチがそうナナシに頼まれたのは、昼の休憩を終えて午後の訓練に向かう時だった。昼を食べたあと、行方知れずになったらしい。
「まぁどうせ、敷地内のどっかで寝てるんだろうけどな」
ムツキには既に伝わっているらしく、探す為なら多少訓練に遅れても構わないとのことだった。
「んじゃ俺は北側を探すからよ、おめぇは南側を頼む」
「わかった」
ナナシと別れ、イチは敷地内南側を探し回った。だがそれなりに広大な敷地と言えど、人目につかず寝られそうな場所は限られている。いくつか目星をつけたところを回っていると、やがて敷地の隅にある三階建ての倉庫の屋根で、ぼんやりと座っているイツヒを見つけた。
「あんな所にいたのか」
チトセの人間はよくよく屋根の上が好きだなと思いながら、イチは地面を蹴って屋根に上がった。
「なにしてんだ、こんなとこで。もう昼の休憩終わってるぞ」
だがそう言うも、イツヒはぼうっと前方を見つめたまま反応がない。
「イツヒ」
呼びかけると、イツヒはなおも前方を見つめたまま、ぽつりと言った。
「おれは、神様だったんだ」
「は?」
唐突な発言に怪訝になっていると、イツヒはやはり前を見つめたまま続けた。
「神様だから、生かされた」
なんなんだいきなりと思っていると、ふとイツヒが一枚の紙を手に持っていることに気付いた。ムツキに渡された、遺言を書く書類だった。イチは少し考え、その隣に座った。
「どういうことだよ」
隣に座って気付く。イツヒの見つめる先には、遠く、『砂生みの鯨』が見えた。
「おれは、神様だったんだ」
イツヒはもう一度繰り返した。
「小さな街で、音が鳴っても『遣い』は来なくて、平和なところで。唯一『刃持ち』だったおれは、守り神として、崇められてた。おれがいるから、『遣い』が来ないんだって。なんの根拠もなかった。ただ街の規模が小さいだけだった。でも彼らはそう信じてた」
いつも言葉数の少ないイツヒにしては、饒舌だった。イチは黙って耳を傾け続けた。
「でもそんな噂が広まって、少しずつ街の人が増えていった。そしてある日、『遣い』が現れた」
僅かだけ規模の大きくなった街。現れた『遣い』は一体だった。
「おれはそれを倒した。でもたぶん、それがだめだった」
くしゃりと音がする。イツヒの手にした書類に、僅かに皺が寄っていた。
「彼らの信仰が酷くなった。おれがいれば『遣い』など恐れることはないと言われた。一体しか倒せない、目の前で力尽きて倒れたおれを見ていたのに」
そうして信仰は、さらなる人を呼んだ。街の規模は、どんどん大きくなっていった。
「そしてまた、『遣い』が来た。今度は四体だった」
一体は倒した。だがそれだけだった。イツヒは動けなくなり、残った三体の『遣い』は街を蹂躙した。刃を持たない人々は、ただ食われるだけだった。
破壊音と悲鳴の中、動けなくなったイツヒは、数人の信者に運ばれて逃がされた。あなたは我々の神だから、死んではならないと。
「たった一体しか倒せない、誰も護れなかった神なのにね」
やがて動けるようになったイツヒは、信者達の前から姿をくらました。もう崇められるのは、誰も護れないのは嫌だった。だからそのあと、偶然ナナシに拾われて八番街に行くことになった時も、連れていかれた医療施設で『刃持ち』だと知られた時も、二度とこの力を使うつもりはなかった。
「なんでまた使うことにしたんだ?」
イツヒはイチがチトセに入るまで、ムツキの班で弓を握っていた。だからそう尋ねたイチに、イツヒは前を見つめたまま答えた。
「ムツキに頼まれたんだ。力を貸してくれって。その時のチトセは今より人が少なかったから、必死だったんだと思う」
イツヒが討伐しやすいように。決して危険が及ばないように。そして人が揃ってきた時には、いつか必ず後方支援に回すと、そう、ムツキは約束してくれた。
「おれにも誰かを護れると思わせてくれた。だからもう一度、力を使うことにしたんだ。でも……」
イツヒの視線が落ちる。
「……雨が降る。おれは一度だけ雨を見たことがあるけど、それは『遣い』を連れてこなかった。でもここでの雨は違う。数えきれないほどの『遣い』を連れてくるって聞いた」
だがイツヒは、一体しか倒せない。どれだけ護りたいと思っても、第二矢を撃つことはできない。
「どうしておれの刃は弓の形なんだろう。どうしてこんな、一人で戦えない、一体しか倒せない力なんだろう」
俯くイツヒに、イチは返す言葉が浮かばなかった。ただなにかを言ってやりたくて、無理やりに言葉を引きずり出す。
「人に言われた、ことなんだけどよ……」
遠く佇む、『砂生みの鯨』を見つめながら、
「生き残ることには、意味があるんだと。お前を連れ出して逃がしたのはそいつらの勝手な信仰かもしれないけど、死んだらそこで終わりだ。けど生きてればなにかできる。だからお前の刃の形にも、きっと意味があるんだ。お前にしかできない、なにかが……」
言葉はそこで途切れた。ヨミのように上手く言えないのがもどかしかった。酷く安い言葉を連ねただけのような気がした。
「ありがとう……」
イツヒが呟くように言う。だがその声は、掠れそうなほどに力ないものだった。




