第18話 ココノエの過去
翌日は、朝から薄曇りだった。ムツキに招集され、イチはココノエ達と共に隊長室へ向かった。そして揃った面々の中には、イツヒの姿もあった。
机の向こう側に座ったムツキが、常と変わらぬ表情で言った。
「ここしばらく、『遣い』が来る頻度が増えているのは、皆も知っているだろう。このままでは近いうちに雨が降ることも考えられる。その前に、皆には遺書を書いてもらう」
「遺書?」
思わず聞き返すと、ムツキは、そうだ、と答えた。
「どのような葬送の方法を望むのか、体が残らなかった場合はなにを代わりとするかなどを書いてもらう。またその際、誰かに伝えたい言葉などがあれば、それも書いて構わない」
眉ひとつ動かさずにそう言ったムツキに、イチは戸惑いながらも返す。
「なんだよそれ、まるで死にに行くみたいな……」
「もちろん生還を前提としている。だが万一のことがあった場合、意志が確認できなければ葬儀に手間取るだろう。その為のものだ」
やはりムツキの顔には、これといった感情は読み取れない。大きな街に雨が降るということは、そういうことなのだろうか。そう思おうとするも、気持ちが追い付いてこなかった。イチは今まで一度しか雨に遭遇したことはなく、五十七番街でのそれは、ただ恵みを授けるものでしかなかったからだ。
言葉を返せずにいると、ナナシが口を開いた。
「俺はうめぇ酒一本用意してくれりゃそれで構わねぇぞ。言いたいことがある相手もいねぇしな」
「ならそのように書いて提出しろ」
「めんどくせぇ……」
苦々しい顔を浮かべるナナシから視線を外し、ムツキが声をかけたのはココノエだった。
「ココノエ」
ココノエがハッとしたように顔を上げる。
「お前は十年前に一度書いているが、どうする」
問われたココノエは、その視線を僅かに落とすと、ぽつりと言った。
「……改めて、書きましょうかね。色々と、変わりましたので」
そう言ってムツキに近づき、一枚の紙を受け取る。
「これとは別に、手紙を用意してもいいでしょうか?」
「構わない。遺書と共に大切に保管しよう」
「ありがとうございます」
頭を下げ、元いた位置に戻るココノエを目で追う。確かココノエは、三歳になる娘がいると言っていた。その娘と妻に向けて、手紙を書くのだろうか。
そんなことを考えていると、ココノエと入れ替わりのように、イツヒが前に進み出た。無言のまま手を差し出すイツヒに、ムツキも無言で渡す。イツヒの表情は常のぼんやりとしたもので、なにを思っているのかはわからなかった。
ムツキの視線がイチを見る。頭の整理がつかないまま、イチも歩み出て紙を受け取った。紙面に目を落とす。そこに書かれた遺書という文字列は、やはり実感を伴わない。
元の位置に戻ると、ナナシが渋々のように進み出て紙を受け取った。だがその手には二枚ある。なぜだろうと、戻るナナシを目で追っていると、戻ったその隣にはミツカがいた。俯いた表情は暗く、あれだけ騒がしい少女が先ほどから一言も言葉を発していないことに、イチは今更のように気付いた。
ナナシが横目でミツカを見やり、重なった紙の一枚をミツカの方に向ける。だがミツカは受け取らずに顔を背け、ナナシが小さく息をついた。
「雨が降るまでには提出するように」
ムツキの声に、再び前を向く。
「以上だ」
だがその表情からはやはり、なにも読み取れるものはなかった。
その日は、街の各地に設置された警鐘の点検をすることになった。本来これは整備班の仕事なのだが、以前、壁の修繕に追われる彼らの仕事を手伝っていたところ、いつの間にか半分ほどがチトセの仕事になっていたらしい。だがやはり、『砂生みの鯨』から音がすればすぐさま本部に戻って出動する為、本部近辺のみに限られているが。
加えて、万一の為に二人一組で行動することになっており、イチはココノエと組んで点検に赴いていた。
街のあちこちに存在する警鐘は、木で組まれた高い櫓の上にある。高さはそれなりにあるものの、自分達『刃持ち』にとっては、軽く飛び上がるだけで届く程度のものである。だが点検ともなれば櫓そのものの劣化具合も見なくてはならず、ひとつひとつ、設置された梯子で上っていく羽目になっていた。
上に上っていたココノエが、最後の数段を飛ばして着地する。
「問題ありませんでした。ここも大丈夫そうですね」
その言葉を受け、イチは手元の書類に問題なしと記入する。
「じゃあ次に行きましょうか」
歩き出すココノエに、イチも続く。次の警鐘はここから少し離れた場所にあった。
背の低い建物に挟まれた、多くの人が行き交う道を歩いていると、ふいにココノエが言った。
「今日はちょっと、元気がありませんね」
振り向くと、いつもの穏やかな表情に見つめられていた。
「今朝渡されたもののことですか?」
イチは思わず視線を落とす。
「……ああ」
遺書などというものを書くことになるとは思わなかった。二十一番街で『遣い』の襲来を受けた時も、倒すことに必死で、死んだらどうするといったことは、考える余裕もなかった。
「やっぱり、いきなり渡されるとびっくりしますよね。僕もそうでした」
「ココノエは、十年前に一度書いてるんだよな」
「はい。今回みたいに、近いうちに雨が降るだろうっていう時に、当時の隊長に渡されました。しばらく悩みましたよ。なんて書いたらいいんだろうって。その時は両親が健在だったので、結局二人に向けて長文を書いたんですけどね」
その時は、ということは、今はこの世を去っているのだろう。ココノエの親ならまだ寿命ということはないだろうから、病気か、もしくは。
「どんなことを書いたのか、聞いてもいいか? 詳しくは言わなくていいから」
「……そうですね。主には、お礼かな」
「お礼?」
目を向けると、ココノエはいつもと変わらぬ表情で、前を見つめたまま言った。
「僕はですね、『刃持ち』ではない夫婦から生まれたんですけど、この力が怖かったみたいで、子どもの頃に捨てられまして」
予想外の生い立ちに、イチが返す言葉を見つけられずにいると、ココノエはイチを振り返り、苦笑しながら言った。
「いえ、悲しい話とかではないです。僕自身、もう気にしてませんし」
そう言うと、再び前を向く。
「それで捨てられたあと、運よくある老夫婦に拾われまして。彼らに育てられたんです。とても優しい人達で、僕を本当の子どものようにかわいがってくれて、とても、幸せでした」
「じゃあ、手紙はその人達に書いたのか?」
「はい。僕を拾ってくれて、育ててくれてありがとうっていう内容のことを、延々、五枚も」
書きすぎですよね、とココノエは笑った。
「でも……」
ココノエは僅かに言い淀むと、呼吸を整えるように、小さく息を吸って吐いた。
「その時の『遣い』の襲来で、二人とも、命を落としてしまって」
イチは歩く足元を見つめたまま、それを聞いていた。ココノエの顔を見ることができなかった。
「でも僕は、生き残って。だから、届かなかったんですよね、手紙」
ざわざわとした喧騒が、沈黙を埋める。ココノエはしばらく黙り込んだあと、言葉を続けた。
「僕は当時、長く塞ぎ込んでしまって、討伐任務もままならない状態でした。その時に、今の妻である女性に出会ったんです。だから今度は、彼女と娘に向けて書こうと思うんですが、今度は長くは書きません」
力ない声が、少しだけ前を向いていた。目を向けると、ココノエはあの穏やかな表情で、前を見つめていた。
「伝わらないかもしれない手紙を残すより、今、言葉で伝えようと思うんです。愛してるって。心から、大切に思ってるって」
その顔に、悲壮な色は見えなかった。十年前に育ての親を失った時、ココノエはいったいどれだけの時間をかけて立ち直ったのだろう。そしてどれだけの時間をかけて、ここまで強くなったのだろう。そんなことを、イチは思った。
「だから……」
ココノエがイチを振り返った。
「君も恋人には、直接言った方がいいですよ」
一瞬、なにを言われたのかがわからなかった。遅れて理解が追い付く。
「……ナナシか」
「同棲していた恋人がいるそうですね。チトセに入るのを迷っていたのは、恋人のことがあったからですか?」
「えっ……と……」
とりあえずナナシには、次に会った時にしっかり訂正を入れておくとして。
「恋人じゃないし、同棲もしてない。迷ってた理由は、確かにそうだけど……」
トトハは元気だろうか。ふと思った。もう随分長くその顔を見ていない。また泣いていないだろうか。落ち込んでいないだろうか。せめてひと目だけでも、その顔が見られたらいいのに。
「心配ですか?」
ココノエの声に顔を上げる。いつの間にか俯いてしまっていたようだった。
「チトセに入ってから、一度も会えていないんじゃないですか? 非番もまだまだ先ですし」
トトハに、非番がいつか教えてと言われてから、そのままだったことを、イチは思い出した。トトハの住むあの辺りは、住所も曖昧で、手紙を届けることもできない。自分の足でそこに赴くしか、会う方法はないのだ。
するとココノエは、声を潜めて言った。
「今、ちょっとだけ会いに行きますか? 少しの間なら、時間を融通できますが」
その言葉に、イチは一瞬自分の心が浮き立つのを感じ、だがすぐにそれを打ち消すように首を振った。
「いい。あいつの住んでるところはチトセの本部から離れすぎてる。いざという時に、討伐が遅れたらだめだろ」
するとココノエは、困ったような笑みを浮かべた。
「真面目ですね、君は」
真面目だとか、そんなんじゃない。そう、心の中でイチは思った。『遣い』が壁を越えれば、会うどころの話ではなくなる。トトハが危険に晒されるなど、絶対にあってはならないのだ。
だがもしかしたら今、外出でもしていて、この辺りにいないだろうか。ふいに思い、周囲に目をやる。だが現実は、そう都合よくはいかなかった。




