第16話 あの時食えなかった人間
それから一週間、『遣い』の襲来はなかった。かといってなにもすることがないというわけではなく、敷地内での鍛錬、防護壁の修繕依頼に対する関係部署への連絡、街の各地にある警鐘の点検、また『遣い』関連による苦情の対処など、チトセの仕事は想像以上に多岐に渡った。これほど長い間トトハに会えないのは初めてのことだったが、そのことに思いを馳せる余裕もないほど、イチはそれらの仕事に追われていた。
「なんでこんなものまで俺達がやらないといけないんだ」
チトセ本部内の一室で、山積みの書類を分けながら、イチはぼやいた。その体は、真新しいチトセの制服に包まれている。
「『刃持ち』という特殊な立場とはいえ、結局はお役所所属ですからね、僕らって」
変わらぬ笑みをたたえながら、分けられた書類にてきぱきとサインをしていくのは、隣に座るココノエだった。
「こんな時に『遣い』が現れたらどうするんだよ」
「それはもちろん、全部投げ出して即座に出動します」
「……でもさ」
呟くように口を挟んだのは、イチとは反対側でココノエの隣にいるイツヒだった。イツヒは書類から顔を上げないまま言った。
「そうなると、全部おれに回ってくるから、来ない間に終わらせてほしい」
イチが入ったことにより補欠要員になったイツヒは、以前にも増して事務仕事を任されているらしい。
「頭を使うのも、腹が減るんだ」
そう言いながら、常に携帯している砂跳び鼠の干し肉を齧った。
「お前はなにしても腹を空かせるよな……」
「普通のことじゃないか?」
「燃費が悪すぎるんだよ」
活動すれば腹が減る。確かにそれは至極当たり前のことではあったが、イツヒの場合、常になにかを食べていないと、すぐにエネルギー切れを起こすような有様だった。さすがに弓を使ったあとのように倒れはしないが、仕事の効率が落ちるわ気が付けば寝ているわで、散々だった。
「ほら二人とも、口と一緒に手も動かしましょう。じゃないといつまで経っても終わりませんよ」
書類から顔を上げないままココノエが言う。確かにその通りだったので、手元の書類に目を落としつつ、イチは言った。
「そういえばナナシとミツカはなにしてるんだ。あいつらはこういう仕事をしないのか?」
そもそもできるかという話は置いておいて。
「ミツカはお勉強をしてますよ。まだまだ学業に励まないといけない年齢ですからね。ナナシはその付き添いです」
「あいつが勉強教えてるのか?」
イチは思わず顔を上げてココノエを振り返った。悪いがそういうことが向いていそうには見えない。
「いえ、ミツカが逃げ出さないように見張ってるだけです。あの子は隙あらば逃げ出そうとしますからね」
そういえば最初に会った時にも、ナナシに勉強しろと言われていた。逃げ出して自分を覗きに来ていたのか。
あの日の討伐以来、ミツカには数えるほどしか会っていないが、会えばなにかと突っかかってくるので、さぞかし大変だろうと同情の気持ちが湧く。
そんなことを考えながら書類を分別していると、ふいに耳に掠める音があった。
低く、遠い。久方ぶりに聞く、だが決して聞き間違えることのないそれ。
即座に立ち上がる。同じく手を止めて立ち上がったココノエと共に、すぐに部屋を出た。
正面入り口とは別の出入り口に向かうと、既にムツキがいた。ドアの傍に並んで掛けられた焦げ茶色の外套をココノエと共に羽織っていると、少し遅れてナナシとミツカが現れる。
全員が外套を羽織り、首元に布を、頭にゴーグルをつけると、ムツキが振り返った。
「揃ったな。行くぞ」
ムツキがドアを開ける。遥か遠くには、『砂生みの鯨』が見えていた。
防護壁の上に立つ。彼方から砂煙を上げて向かってくる『遣い』は、いつもと同じ五体だった。
「作戦はいつも通りだ」
前方を見つめたまま、ムツキが変わらぬ表情で口を開く。
「水袋は斬るな。口内を正面から貫こうとするな。体表は斬れぬ可能性があると思え。以上だ」
各々がゴーグルをつけ、口元を布で覆う。だがその一瞬、ミツカが睨んできたのをイチは感じた。
チトセでは、『遣い』はそれぞれが一体のみを倒すという決まりがあった。たとえそれ以上倒すことができたとしてもだ。かつては一人が複数体を倒していたが、慢心から体を一部失った『刃持ち』がいたらしい。そしてその『刃持ち』は、それ以降刃を生む力を失った。
それからというもの、一人が確実に一体を倒すことが徹底されてきたのだった。しかも刃を振るう順も、厳しく定められている。
イチの配属されたこの班では、先鋒がナナシ、次鋒がココノエ、その次に隊長であるムツキが討伐するのだが、イチが入ったことによりその後の順が変わった。
イチは四番手になり、それまで四番手だったミツカは五番手に下がった。経験と実力の差だというのがムツキが口にした理由だが、ミツカは納得がいっていない様子だった。自分よりあとから来た者が、自分より先に配置されたのが許せないのだろう。
さすがに仕事中に無謀は働かないよな、とやや不安を覚えていると、先頭のナナシが斧を生み出してその手に握った。
「んじゃ行くかぁ!」
壁を蹴ったナナシが砂の海に飛び出す。ココノエ、ムツキが続き、イチも続いて降りた。
遠い先に、五体の『遣い』がこちらに向かって直進してくるのが見える。横一列に並んだ『遣い』は、中央の一体が先頭として突出しており、他の四体はそれぞれがやや後ろの位置にいるという、鉾のような形を作っていた。こちらも同じような形態を取る。
ナナシが砂を蹴散らして飛び上がった。散らされた砂がイチの頬を打って後ろに流れていく。
振り下ろした斧が、中央の一体の脳天をかち割った。次にココノエが飛び出し、ナナシが仕留めた右隣の一体を、上空から強襲して槍で貫く。次はムツキが、反対隣の一体を剣で深く斬り上げる。次はイチだった。
ココノエの横を通り過ぎた一体めがけて飛び出し、その手に握った刀の刃で切り裂く。透明な体液が溢れ、加速を失った『遣い』の体が、ゆっくりと速度を緩めていく。その体が倒れ、活動が完全に止まったのを確認して顔を上げると、ミツカが最後の一体に向かって鎌を振り下ろしているところだった。
刃が深くえらに刺さり、刈り取る。減速した『遣い』は、やがて砂地に倒れた。
響く音が静かに消えていく。これで脅威は完全に去ったのだが、毎度二体を斬っていたイチは、どこか拍子抜けのような感覚を覚えた。
ムツキが改めて状況を確認し、やがて各々が、横たわった『遣い』の腹を捌き、水袋を取り出す作業に入った。かつてイチも別の場所で、討伐後の『遣い』から水袋を取り出したことがあったので、捌き方は知っていた。
体液で手が汚れないように、左手に手袋をつける。だがいざ刃を立てようとした時、ふいに小さく、なにかが聞こえた気がした。
ざあざあと、それは年に数度、稀に起こる砂嵐の音に似ていた。だが今日の天気は見渡す限りの晴天で、嵐の気配など微塵もない。だが音はまだ聞こえる。どこから聞こえているのだろうと耳を澄まし、そして気付いた。それは、目の前に横たわる『遣い』の体から響いていた。
思わず後退る。だが背を深く切り裂かれた『遣い』は間違いなく絶命しており、動き出す気配はない。そうしているとやがて、砂嵐に似た音が途切れ途切れになり、それに紛れるように、男とも女とも取れない、中性的な声が聞こえてきた。
《お……》
思わず耳を澄ます。
《お……マエ……あのトキ……クえなかった、ニンゲン……だ、な……》
宙を見つめていた目が、ぎょろりとイチを捉えた。
ざっと背中が冷える。『遣い』ははっきりとイチを見つめていた。
『遣い』が喋った。いや、動いたということは生きているということだ。とどめを刺さなくてはならない。だが脚が、凍り付いたように動かない。動かなければ、食われる。斬らなければ、また犠牲が――。
「イチくん?」
ハッと顔を上げる。気が付けばすぐ傍にココノエがいた。
「どうしたんですか?」
その声に、金縛りのように動かなかった体が一気に動きを取り戻す。
「どけココノエ! こいつはまだ……!」
言いながら刃を構えたイチだったが、振り下ろす前にその手を止める。『遣い』の目は宙に向けられ、イチを見てなどいなかった。いつの間にか砂嵐のような音も消え、最初から何事もなかったかのように、『遣い』は絶命したその体を晒していた。
「イチくん? どうしたんですか?」
ココノエの言葉に、イチは振り上げていた刀を下ろす。今のはなんだったのか。聞き間違いなどでは決してなかった。だが『遣い』が喋るなど、今まで一度も聞いたことがない。
「どうした」
低く落ち着いた第三の声に、イチは振り返る。異常を察したのか、ムツキまでがイチの傍に来ていた。ムツキはその目元をやや険しくしてイチを見つめる。
「なにかあったのか」
『遣い』が喋った。だがその言葉は、口から出すことはできなかった。
イチは遭遇した『遣い』はすべて倒してきた。唯一倒せなかったのが、五年前のあの時だ。この個体はあの時の個体だったのだろうかと思う気持ちと、あの時『遣い』とは対面したわけではないし、そもそも人を食ったら性質が変わるから違うはずだという気持ちが混ざる。
それでも、あの時食えなかった人間という言葉は、否応なく記憶を関連付けさせ、素直に伝えることをためらわせた。誰にでも話してしまえるほど、あの時の出来事は、イチにとって軽くはない。
イチはゆっくりと俯き、呟くように言う。
「なんでもない……」
目が無意識に、倒れた『遣い』の方を向く。『遣い』の目は、やはり何事もなかったかのように、澄んだ目を宙に向けていた。




