第15話 言えなかった言葉
トトハの部屋のドアをノックすると、僅かな間をおいて勢いよくドアが開いた。
「イチ?!」
「おう……」
トトハはイチの全身を上から下までじっくり見ると、改めてイチの顔を見上げる。
「怪我、してない?」
「ああ、大丈夫だ」
トトハがほっとしたように、大きく息をつく。昨日もこんな感じだったなと思いながら、二日も続けて長く待たせてしまったことに、イチは申し訳なさが募った。
「悪い。また遅くなって……」
「ううん、ええんよ。チトセの人と話しとったんちゃう?」
「ああ、それなんだけど……」
一瞬目を逸らしてしまう。言い淀むイチに、トトハが不思議そうな顔をした。だが言わないわけにもいかないので、イチは意を決すると、改めてトトハを見つめ、口を開いた。
「チトセに入ることが決まった。書類やら手続きがあるから、まだ正式にじゃないんだけど」
するとトトハは、その顔をぱっと顔をほころばせた。
「うまいこといったんや! よかったぁ!」
よく思われていないというのを気にしていたのだろうか。だが手放しに喜ぶトトハに、イチは続けづらくなる。
「それで……だな……」
一瞬落としかけた視線を戻し、
「チトセに入ると、隊舎で寝泊まりしなくちゃいけないみたいなんだ。非番の時以外は、基本的に自由に出入りできないらしくて……」
これは貰った書類を、本部を出てから改めて読んで知ったことだった。
「え……」
トトハの眉が下がる。
「もうイチに、会われへんってこと?」
「いや、非番の時は申請したら外出できるし、その時は会える。でもそれ以外は……。だから、討伐が終わったあとも、ここに来ることはできない」
そう言うと、トトハの視線がゆっくりと下がり、その顔が下がり、やがては完全に俯いてしまった。
「そっ……かぁ…………」
呟くように言ったトトハは、そのまま黙り込んでしまった。トトハにこんな顔はさせたくないのだが、こればかりはどうしようもなかった。討伐後にどうにかして顔を見せられないかと考えたのだが、結局いい案は浮かばなかったのだった。
「せやけど、さ……」
トトハが顔を上げる。その顔に浮かんでいるのは、笑顔ではあったが。
「一緒に討伐に行く人がおるってことは、イチ一人であの生き物に立ち向かわんで済むってことやろ? せやったら安心やよ。危ないことは、ないよ」
トトハは精一杯の笑顔を浮かべているつもりのようだったが、どこか力なく、その言葉も、自分に言い聞かせているかのようだった。
「気にせんといて。うちはイチのこと信じとるし、チトセの人らのことも信じとるから」
言葉を返せずにいると、トトハは急にいたずらっぽい笑みを作った。
「そんな顔してー。もしかして、イチ寂しい? うちに会われへんくなるから」
おどけるような言い方に、ふっと笑みが漏れた。
「……そうだな」
自然とそんな言葉が口をついた。自分でも少し驚いたが、本心のような気がした。トトハも意表を突かれたような表情を浮かべており、恥ずかしくなったイチは、強引に右手を差し出した。
「ほら、しっかり触っとけ。次はいつになるかわからないから」
「う、うん……」
トトハが両手を伸ばし、イチの手を包み込む。華奢で、小さな手だった。柔らかな指先が、惜しむようにイチの手を撫でさする。最後はいつものようにきゅっと強く包んだが、いつもと違い、すぐには離さなかった。
「なぁイチ……」
「ん?」
「非番がいつか、また教えてな?」
「ああ」
強く包み込んでいた手から少しずつ力が抜け、イチの手が離される。差し出した手を戻すと、トトハの目がそれを追い、それから逸らされた。
「――っしょに……」
微かな声で、トトハがなにかを言った。
「ん?」
聞き返すも、トトハはゆるゆると首を振る。
「ううん、なんでもない。ほな、気をつけてな。またね、イチ」
トトハがその顔に、力ない笑みを浮かべる。
「あ、ああ……」
これといった言葉を返せずにいると、トトハはそのままドアを閉じた。ばたりと金属のドアが閉じられ、次いで、鍵のかかる音がする。
トトハがこうして目の前でドアを閉じたのは初めてのことだった。今までにない状況に僅かな戸惑いを感じつつも、ドアの前から離れようとした時、ふいに耳に掠めるものがあった。
トトハの泣き声だった。
ドアの向こうから、トトハの押し殺した泣き声が聞こえてきていた。『遣い』の襲来を捉える為に研ぎ澄ませた聴覚が、捉えない方がいいものを捉えてしまっていた。
イチは口を開きかけ、だがゆっくりと閉じた。声をかけて、どうする。開けさせて、どうする。イチがチトセに入ることは変わらず、トトハに長く会えなくなることも変わらない。どうやったって、その涙を止めてやることはできない。
イチはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて足音を潜めるようにして、ドアの前から離れた。
* *
荷物はいつも背負っている背嚢ひとつだった。それをどさりと床に下ろし、イチは改めて部屋の中を見渡す。
ベッドと小さな机、それに椅子。あとは備え付けの棚が、それぞれ左右対称になるように設置されている。簡素な部屋ではあったが、ひとつだけある窓にはガラスが嵌め込まれており、外から砂が吹き込むのを遮っていた。
「ここが今日から君の部屋です。本来一般の隊員は相部屋なんですが、ちょっと人数の都合上、君は一人部屋になります。なのでここは、好きに使ってください。鍵はこれです」
そう言って、ココノエが銀色の小さな鍵を渡してくる。
「合鍵は基本的にないと思ってください。隊長がマスターキーを持っていますが、緊急時以外は使わないので安心してください」
プライベートは守られるということだろう。だが今まで窓も電気もない部屋で寝泊まりをしていたので、若干落ち着かない気持ちになるのは否定できなかった。
「隊舎内の設備は一通り教えたかと思いますが、なにか質問はありますか?」
「いや」
「わからないことがあったら、またいつでも聞いてくださいね。ナナシとイツヒくんは二つ隣の部屋なので、そちらに聞いてもらっても構いませんが」
どうやらその二人は同室らしい。
「あんたの部屋はどこなんだ?」
そう尋ねると、ココノエはどこか温かな笑みを浮かべた。
「僕は奥さんがいるので、そっちの隊舎なんですよ」
想定外の言葉に、イチは一瞬詰まる。
「ああ、あんた既婚者だったのか」
「はい。娘もいまして、今年三歳になります。かわいいですよ。今度機会があったら会わせますね」
いつになく笑み深いココノエに、イチは深い愛情の滲みを感じた。本当に家族が大切なのだろう。いつまでも幸せなままであってほしいと、漠然と思う。
ココノエが部屋を出ると、ドアを閉めたイチは改めて室内に目をやった。広くはないが、狭くもない。だが備品のすべてが二人分設置されているとはいえ、やはり一人だと、どこか落ち着かない広さを感じた。風の音すら遠い静かな部屋に、イチは窓に歩み寄ると、それを開け放った。
砂の匂いがする風が吹き込む。窓はちょうど砂の海の方を向いており、遥か遠くに『砂生みの鯨』が見えた。
――よかったんだよな、これで。
チトセの一員として組織立って討伐に赴けば、危険も少ない。トトハの心配を減らすこともできる。だが……。
視線が落ちる。耳の奥に甦ったのは、ドア越しに聞こえてきた押し殺した泣き声だった。
本当はあの場で抱き締めたかった。涙を止めてやりたかった。だがイチがチトセに入ることが変わらない以上、そんなものは一時しのぎにしかならない。
――よかったんだよな、これで。
言い聞かせるように思うも、胸に重くのしかかったものは消えない。
ここにハノンがいたら、俺のことを殴ったのだろうか、などと、埒もないことをイチは思った。




