第10話 したのかしてないのか
* *
ぬくもりの中で、トトハの意識は覚醒した。目を閉じたまま、あったかいなぁと思い、なんでこんなにあったかいんだろうと思い、同時に、落ち着く匂いを鼻が捉えた。落ち着く匂い。ああこれは、イチの匂いだった。イチの匂い……なんでイチの匂いがするんや?
ばちっと目を開ける。目の前にあったのは黒っぽい服で、顔を上げると、眠っているイチの顔が見えた。
「?!」
とっさに離れようとするが、体が動かない。見ると、イチの片方の腕が、しっかりトトハを抱き締めていた。
一気に顔が熱くなる。心臓がばくばくと暴れ出す。トトハは慌ててイチの顔から目を逸らすと、なにがどうしてこうなったのか、懸命に頭を巡らせた。
確か昨日は、イチの家に何度も行って、でもいなくて、夜になってようやく会えたのだ。安心して帰ろうとすると、イチが家まで送ってくれた。その時トトハは、つい言ってしまった。とても怖かったと。また一人になってしまったのかと思ったと。そして泣いてしまった。
本当は泣くつもりなんてなかったし、そもそもあんなことを言うつもりもなかった。だがイチの上着を借り、その温かさに包まれているうちに、つい心が緩んでしまった。
――あかんなぁ、うち。
トトハが泣くと、イチはとても辛そうな顔をする。そんな顔をさせたくなかった。心配をかけたくなかった。でもイチは優しい。その優しさに触れると、つい甘えたくなる。
ぬくもりに、そっと身を寄せる。
一年半ほど前、行き倒れていたイチを、トトハ達家族が介抱した。徐々に元気を取り戻していくイチと、ひとつ屋根の下で暮らしていたトトハは、次第にイチに惹かれていっている自分に気付いた。だがイチはいつかここを出ていく。ついていくことはできないから、別れが辛くならないよう、気持ちに蓋をした。この人は一時的な家族なのだ、と。
そっと目を閉じる。イチは家族。トトハの好きな人ではない。だから早く、このぬくもりから離れないと。
そう思っていた時だった。ふいに玄関のドアが乱暴に叩かれ、快活な少女の声が響いた。
「トトハー! 起きてるー?」
トトハはがばっと体を起こした。勢いよく起きたせいで、イチの手が外れ、羽織ったままだった上着も脱げる。なおもがんがんと叩かれるドアに、あわあわしながらベッドから降り、眼鏡をかけ、走って玄関に向かって鍵を開けた。
「ごめん、起きとる。おはようハノンちゃん」
そう言って見上げた先には、トトハより少し背の高い少女がいた。
日に焼けた肌に、琥珀の色をした瞳。黒い髪は後頭部の高い位置で雑に括られ、短い束が揺れている。ハノンという名のこの少女は、トトハよりひとつ歳が上で、この街に来たトトハを気に掛け、なにかと世話を焼いてくれる存在でもあった。
「今日市場に行く日だったでしょ。ちょっと早かった?」
そういえば、とトトハは思い出す。今日はハノンと市場にいく約束をしていたのだ。
「ううん、大丈夫。今から準備して――」
言いかけたトトハの肩を、ハノンががしっと掴んだ。そのままトトハの顔をまじまじと見る。
「トトハ……あんた、泣いた?」
あっ、と思う間もなく、ハノンの顔が真剣なものになる。
「なにがあったの?」
「え……えっと、ハノンちゃん、大丈夫やから。なんもないから」
「なんにもないのにそんな腫れるまで泣くわけないじゃない。なにかあったんでしょ」
「えっと……」
どう説明すべきか、とトトハが悩んでいると、ベッドの方で小さく呻き声が聞こえる。振り返ると、イチが体を起こしているところだった。
「あっ……」
トトハは思わず声を上げる。つられたハノンもベッドの方を見る。玄関からでも、その場所はよく見えた。イチが寝起きの顔でこちらを見る。
僅かな間。
次の瞬間、ハノンの全身を凄まじい怒りのオーラが包んだ。
「こんっの……クソ男ぉーっ!」
ハノンが豪速でトトハの傍を通り過ぎる。大股で部屋を横切り、拳を振り上げ、イチに殴りかかろうとしたところで、追いついたトトハは慌ててハノンの体にしがみついた。
「待ってハノンちゃん!」
とっさに後ろに引き寄せると、グローブをつけた拳が空を切った。
「ちゃうから! イチなんもしとらんから!」
「隠さなくていいのよトトハ! いつかやるんじゃないかって思ってた! トトハが優しいのをいいことに、こいつは! こいつはぁーっ!」
「ちゃうからー! ほんまになんもなかったからぁーっ!」
* *
ベッドに腰かけ、未だ僅かに残る頭痛に苛まれながら、イチは内心で溜め息をついた。目の前では、ようやく落ち着いたハノンが、だが全身から怒りを迸らせながら腕を組み、仁王立ちをしている。
「で、なんであんたトトハの家にいるのよ」
ドスの利いた声が降ってくる。イチはハノンとはほとんど面識がなかったが、ハノンがトトハのことを妹のようにかわいがっており、自分に対してはなぜか明らかな敵意を抱いているのは知っていた。今も下手なことを口にしようものなら、すぐさま手や足が飛んできそうな雰囲気である。
「いや、昨日トトハをここまで送ってきて……」
「じゃあなんでベッドで寝てたわけ?」
ハノンが遮るように尋ねる。
「それは……」
イチはなんと説明すべきか迷った。そもそもこれは自分の口から言ってもいいものか。
「……言えないの?」
ハノンの声のトーンがまたひとつ下がった。これは殴られる流れか、それとも言うべきかと悩んでいると、トトハがぽつりと言った。
「あの……うちのせいなん」
ハノンが隣に立つトトハを振り返る。
「うちが……一緒におってって言ったから……」
「あんたから誘ったってこと?」
「ちゃう! ちゃうから! そんなんちゃうから!」
トトハが顔を真っ赤にして手をばたばたと振る。
「そんなん違て! 普通に! 一緒におってって言ったん! なんかするとかと違て! 普通に!」
ハノンが胡乱な表情になり、それがイチを向く。
「してない。マジで。本当に」
必死の思いで返すと、ハノンの目が眇めるように細くなる。
「ほんとね?」
「本当だ」
「嘘ついてたら砂に埋めるわよ?」
「ついてない」
それでもなおハノンはじっとイチを見つめていたが、やがて大きく息を吐くと、その顔から剣呑さを消した。
「ならいいわ」
イチは腹の底から息を吐いた。トトハもほっとしたように胸をなで下ろす。が、それもつかの間、ハノンは身を乗り出すと、イチの胸ぐらを掴んだ。
「で、ちょっと来なさい」
「お、おい……!」
そのまま玄関の方へ向かうハノンに、イチは引っ張られるようにしてついていくしかない。トトハが顔を青くした。
「ハノンちゃん!」
ハノンが肩越しに振り返る。
「別に殴ったりしないわよ。ちょっと聞きたいことがあるだけ。あんたは部屋の中で待ってなさい」
そう言うとドアを開け、ハノンはイチを通路に引っ張り出した。ドアを閉めると、ようやく手を離す。そしてイチを睨み上げながら、小声で言った。
「トトハ、なんで泣いてたの」
イチはぐっと詰まる。言いづらいことではあったが、素直に話した。昨日早朝に『遣い』が現れ、倒しに行ったこと。その後チトセの者に話があると呼ばれ、家に帰ったのは日が沈んでからだったということ。その間トトハはイチの安否を確かめる為に何度もイチの家に行き、イチの不在に、不安を募らせていったらしいこと。
「もしかしたら俺が、食われたのかもしれないって、思ったみたいで……」
警鐘が鳴るたびにイチが討伐に赴き、そのあといつもトトハがイチの安否を確認しに行くことは、ハノンも知っている。
ハノンが吐き捨てるように言った。
「最低ね」
「悪かったとは思ってる」
せめて一度帰るか、トトハの所へ行き、無事を知らせるだけでもしておけばよかった。そうすれば、あんな思いをさせることもなかったのだ。
ハノンは腕を組むと、その顔の剣呑さを強くした。
「あんた、今度はチトセになに言われようがされようが、まず真っ先に帰ってトトハに顔見せなさい。二度とトトハを泣かせないで」
「……わかった」
それでトトハを不安にさせずに済むのなら、少しでもその気持ちが軽くなるのなら、そんなものは苦労とも呼ばない。
ハノンはそれでもしばらくイチを睨んでいたが、ふいに顔を逸らした。
「まったく、あんたみたいな奴、とっととあの化け物に食われちゃえばいいって思うけど、そんなことになったら絶対トトハは大泣きするし、腹が立つったらないわ」
確かに今回のことはイチに非があるが、あまりの言われように思わず言った。
「ていうかお前、なんでそんなに俺のこと嫌ってんだよ」
するとハノンが、キッと音がするほど強くイチを睨みつけ、組んでいた腕をほどく。
「そういうところよっ……!」
どういう意味だと考える間もなく、ハノンの蹴りが脛を強襲した。凄まじい激痛にイチは思わずしゃがみ込む。
「いってーえ!」
「イチ?!」
さすがに聞こえたのだろう、色を変えたトトハが部屋から出てきた。トトハはあわあわしながらも、ハノンを強く見つめた。
「ハノンちゃん!」
その勢いに、ハノンが若干圧される。
「け、蹴らないとは言ってないし……」
「そういうのあかん! そういうのあかんよ!」
それ以上強い言葉を言えないトトハは、屈み込むと、心配そうにイチを覗き込んだ。
「イチ……大丈夫?」
「あ……ああ……」
実際は、骨にひびでも入ってるんじゃないかというぐらい痛かったが、言うわけにもいかない。イチはふらつかないように立ち上がった。
「じゃあ俺、帰るわ」
とりあえずトトハは大丈夫そうだし、これ以上ここにいたらハノンになにをされるかわからない。だがそう言ったイチに、トトハは一瞬寂しそうな顔をし、だがすぐにそれを消すと、笑顔を浮かべた。
「うん、ありがとうね、イチ」
「ん」
ハノンが少し不機嫌そうな顔をする。だが今度はなにも言わなかった。イチは歩くたびに呻き声が漏れそうになるのを我慢しながら、階段を下りていった。




