第二章三 魅惑の眼
―――少し前、夜の森。
「よし、そろそろ戻ろうかな。先輩、もう寝ちゃってるかな……」
ヒナは両手いっぱいに枝を抱え、来た道を引き返そうと歩き出した。
そのときだった。
ぴたり、と足が止まる。
森の静寂を引き裂くように、子どもの悲鳴が響いた。
「いやあぁぁぁ!!!」
絶望に満ちた声が、暗い森にこだまする。
ヒナは一瞬の迷いもなく、声のした方へ駆け出した。
草をかき分け、枝を払い、ただ一直線に進む。
やけに静かな森だった。
まるで、生き物の気配がすべて消えたかのような、不自然な静けさ。
やがて――見つける。
大樹の根元に、座り込んで泣いている少女を。
黒い髪が風に揺れ、黄色の瞳が涙に濡れていた。
(……10歳くらいかな……)
「大丈夫!?」
ヒナは駆け寄り、声をかける。
「……っ……ひっ……?お姉ちゃん、だあれ……?」
少女は一瞬だけ泣き止み、ヒナを見上げる。
しかし、すぐにまた涙をこぼし始めた。
「私は橙の神託者、ヒナっていうの。よろしくね。それで……何があったのか話せる?」
ヒナはその場にしゃがみ、できるだけ優しく微笑みかける。
――そのとき。
「……神託者……」
少女の声が、わずかに低くなる。
「……殺す……」
ヒナの瞳が大きく見開かれた。
反射的に立ち上がり、一歩後ずさる。
肌を撫でる、不快な気配。
「……あなた、本当に人間?」
頬を汗が伝う。
すると――
少女の口元が、ゆっくりと歪んだ。
泣き顔が、まるで最初から存在しなかったかのように消え、
代わりに浮かび上がるのは、不気味な笑み。
「さすがは神託者だネ」
その声には、先ほどまでの弱さは微塵もなかった。
「そうだ、自己紹介がまだだったネ」
少女はゆっくりと立ち上がる。
「じゃは――色欲の魔蛇ラグネイア様に仕える“三大狂蛇”の一人」
わずかに首を傾げ、笑みを深める。
「“魅惑の眼”ユズハ・サーペント。……覚えておくといいネ」
「色欲の……魔蛇……?」
ヒナの顔が強張る。
その名は知っている。
かつて神託者と勇者が総力を挙げて挑み、
全滅した――災厄。
(……勝てるわけ、ない)
思考よりも先に、身体が動いた。
ヒナはユズハに背を向け、走り出す。
「無駄だネ」
冷たい声が、背後から落ちる。
その瞬間――
一本、また一本と、巨大な蛇が現れる。
全長は十メートルを優に超える。
それが次々と、暗い森から這い出してくる。
気づけば、視界の端から端まで、蠢く影で埋め尽くされていた。
「……嘘……」
かすれた声が漏れる。
「じゃの“欠片”の力だネ。召喚されたばかりの神託者一人、わざわざ手を下すまでもないネ」
ユズハは軽く右手を掲げ――振り下ろした。
その合図で、蛇の群れが一斉に動き出す。
不規則に、しかし確実に、ヒナへと迫る。
「っ……!」
ヒナは奥歯を強く噛み締めた。
(こんなところで――終われない)
(トウマ先輩に……もう一度、会うために!)
右手の手光石が橙色に輝く。
『大地の神よ、我が敵に天罰を――ロック・バレット・クアッド!』
詠唱と同時に、四つの魔法陣が空中に展開される。
次の瞬間――巨大な岩塊が射出された。
「ドン! ドン! ドン! ドン!」
地鳴りとともに土煙が舞い上がる。
その様子を、大樹の下から見つめながら、ユズハはくすりと笑った。
「流石だネ。複数同時発動にその威力……申し分ないネ」
だが、その笑みは冷たい。
「けど……そんな戦い方じゃ、すぐに魔力が尽きるネ」
(今ので……何体……?)
息を整えながら、ヒナは状況を確認する。
だが、蛇の数は減った気配がない。
(まずい……魔力が……)
視線が自然と右手へ落ちる。
手光石に触れ、情報を表示する。
タチバナ・ヒナ
レベル:7
属性:土
魔力:33 / 65
(残り……33……)
(テラ・ディヴァウィングは使えない……)
思考が加速する。
(消費の少ないスキルで、一気に数を減らさないと……)
――違う。
その瞬間、気づく。
(違う……)
(今、するべきだったのは……攻撃じゃない)
(――逃げるべきだった)
判断を、誤った。
拳を強く握りしめる。
だが――もう遅い。
過去は変えられない。
(レベルが上がると魔力上限も上がる…蛇を集めて、一気に叩く!)
ヒナは顔を上げる。
そして――蛇の群れへ向かって、走り出した。
「シャアァッ!!」
無数の蛇が一斉に牙を剥き、襲いかかる。
ここから、始まる。
ーーー色欲の魔蛇との戦いが




