第一章一 始まり
ーーー全ては、ここから始まる。
「ピーンポーンパーンポーン――」
乾いたチャイムが教室に響く。
放課後を告げる音と同時に、生徒たちは一斉に立ち上がり、ざわめきとともに教室を出ていった。
残されたのは――俺、トウマと、男子三人だけ。
嫌な空気が、静かに沈殿していく。
「なあ、トウマ」
そのうちの一人が、ニヤついた顔でこちらを見た。
「俺、昨日チョコもらえなかったんだけどさ。どうしてくれんだよ!」
顔を赤くして叫んでいる。怒りというより、八つ当たりだ。
――チョコ?
そのとき初めて、昨日がバレンタインだったことを知った。
そういえば、男子たちが妙にソワソワしていた気がする。
あれは、そういうことだったのか。
どうでもいいことを考えながら、俺は小さく答える。
「……そんなの、知らないよ」
「あ?」
空気が一瞬で凍る。
「なんつったてめぇ?」
「だから、知らな――」
言い終わる前に、視界がぶれた。
「ブッ!」
鈍い音とともに、顔面に拳がめり込む。
鼻の奥に衝撃が走り、次の瞬間、両方の鼻から血が溢れ出した。
痛い。
……けど、慣れてる。
「おっ、泣いてんじゃん!」
「やっぱお前殴るとスッキリするわ〜」
「ほら、顔上げろよ。泣き顔見せろって」
三人は笑っている。
――人を殴って、楽しんでいる。
何もしていないのに。
ただ静かに、迷惑をかけないように生きているだけなのに。
なんでだよ。
涙が、勝手に溢れる。
「……憎い」
気づけば、口から言葉が漏れていた。
それ以上、そこにいることができなかった。
俺は鼻を押さえたまま教室を飛び出す。
廊下を駆け、階段を降り、下駄箱へと向かう。
逃げるように。
「あの……」
不意に、声がした。
足が止まる。
ゆっくりと振り向くと、そこには――
艶のある黒髪。整った顔立ち。
心配そうな表情で、こちらを見つめる少女が立っていた。
「鼻血……大丈夫ですか?」
優しい声だった。
俺に、そんな声をかけてくれる人なんて、ほとんどいない。
「ハンカチ、使いますか?すごい量ですよ……本当に大丈夫ですか?」
差し出された白いハンカチ。
戸惑いながらも、それを受け取り、血を拭う。
「あ……ごめんなさい、私、ちょっと急いでて」
彼女は申し訳なさそうに笑った。
「そのハンカチ、後日でいいので返してください!」
そう言って、急いで靴を履き、校舎の外へと走っていく。
……あの人。
確か去年、ミスコンで優勝していた一年生だ。
「……あ」
気づいたときには、彼女の背中は遠ざかっていた。
「ありがとう……言ってない……」
慌てて靴を履き、外へ飛び出す。
校門を抜け、辺りを見渡す。
――いた。
100メートルほど先、小走りで進む彼女の姿。
大きな声を出すのは苦手だ。
だから、ただ――走った。
距離が縮まる。
あと少し。
息を切らしながら、ようやく口を開く。
「あの……さっきは――」
彼女が振り向く。
その瞬間――
「あぶない!!!」
反射的に叫んでいた。
考えるより先に、身体が動く。
彼女を突き飛ばす。
すぐ横を――
猛スピードのトラックが、突っ込んできていた。
「きゃっ!」
「ドンッ!!!」
衝撃。
世界が、ひっくり返る。
視界が赤い。
頭から流れる血で、何も見えない。
……何が起きた?
身体中が、熱い。
誰かが、何か言っている。
けれど、聞こえない。
ただ、口が動いているのがぼんやり見えるだけ。
……泣いてる?
なんで、泣いてるんだよ。
声を出そうとする。
けど――
「おえっ……げほっ……ごほっ……」
出てきたのは、声じゃない。
血だった。
鉄の味が、口いっぱいに広がる。
――ああ、俺……死ぬのか。
急に、視界が白く染まる。
次の瞬間。
「ドンッ!!」
小さな爆発音とともに――
意識は、闇へと引きずり込まれた。
「おおおおお!!!」
歓声が響く。
「ついに召喚されたぞ!」
「神に選ばれし神託者様だ!」
「千年ぶりだぞ!!」
……うるさい。
静かにしてくれ。
そう思いながら、ゆっくりと目を開ける。
――そして、息を呑んだ。
石造りの街並み。
見たこともない建物。服装。空気。
まるで――中世ヨーロッパのような世界。
俺は、その中心に立っていた。
周囲には大勢の人間。
そして、近くには――俺と同じように戸惑う数人の男女。
金髪ポニーテールの女性。
緑髪で優しそうな小柄な男。
細目の青髪の男。
長い青髪の女性。
背の高い紫髪の女。
そして――
「……っ」
視界に入った瞬間、心臓が強く脈打つ。
刈り上げの赤髪の大柄な男。
俺が、一番嫌いな顔。
……アキト。
その隣には――
さっき、俺が庇ったはずの少女と、同じ顔の女性がいた。
状況が、理解できない。
けど、一つだけ、頭に浮かんだ言葉がある。
「……異世界転生……?」
ぽつりと呟く。
そして――
トウマは、笑った。
人生を、やり直せるのだから。




