第三十九話 古の記憶と、かつて人間だった男
記憶というものは、整理された図書館の書架のようなものではない。
それは、引越しの際に無造作に詰め込まれた段ボール箱の山に似ている。
普段はガムテープで封印され、部屋の隅で埃を被っているが、ふとした拍子に箱が崩れ、中身が散乱することがある。
そこにあるのは、懐かしいアルバムや玩具だけではない。請求書、始末書、誰かに宛てた書きかけの手紙、そして見たくもなかった自分の恥部。
それらが一気に雪崩れ込み、現在の平穏な生活を押し流そうとするのだ。
吾輩はダンジョンである。
だが、今、吾輩の核を震わせているのは、岩盤の重みでも魔力の奔流でもない。
たった一冊の、黒い手帳。
そこに挟まれていた一枚の家族写真が、吾輩の思考回路を焼き切ろうとしていた。
写真に重なるように浮かび上がる男の姿。
くたびれたスーツ。薄くなりかけた頭髪。愛想笑いが顔に張り付き、目の奥だけが死んだように濁っている中年男。
彼の名前を、吾輩は知っている。
彼の好物が、駅前の立ち食い蕎麦の春菊天であったことを知っている。
彼が、胃薬と栄養ドリンクを主食にしていたことを知っている。
――ああ、そうだ。
――これは、俺だ。
意識の深淵から、蓋をしていた記憶が噴き出した。
吾輩の前世は、とある商社の中間管理職であった。
課長という肩書きは立派だが、実態は上層部の無茶振りと、部下の突き上げに挟まれるサンドバッグだ。
毎日のように頭を下げ、靴を磨き、接待で肝臓を痛め、終電で帰宅し、妻と娘の寝顔だけを見てまた出社する日々。
「家族のため」という呪文を唱えながら、実際には家族との時間を切り売りして、会社という巨大な歯車の一部として摩耗していた。
娘の名前は、なんだったか。
……そうだ。美咲。
桜の季節に生まれたからと、妻がつけた名前。
「パパ、おかえりなさい」
玄関で出迎えてくれた小さな声。
抱き上げると、シャンプーの甘い香りがした。
いつから、その声を聞いていない?
一週間? 二週間? それとも――
思い出せない。
仕事に忙殺されて、娘の顔すら思い出せなくなっていた。
最期の夜も、そうだった。
娘の誕生日だった。
「今日こそは早く帰る」と約束していた。プレゼントのぬいぐるみもカバンに入っていた。
だが、部下のミスが発覚した。巨額の損失。
上司は「なんとかしろ」と怒鳴り散らし、部下は「すいません」と泣くだけで動かない。
俺は、一人で深夜のオフィスに残った。
書類の山。
鳴り止まない電話。
蛍光灯の白い光が、網膜に焼き付く。
不意に、世界が歪んだ。
蛍光灯の光が、万華鏡のように回転する。
キーボードを叩く指が、遠くなる。
ああ、これは――
「まずい」と思った瞬間、床が顔面に迫ってきた。
冷たい。
こんなに冷たかったのか、このオフィスは。
スマホの画面だけが、暖かい光で瞬いている。
『お誕生日おめでとう。パパ、すぐ帰るから』
送信ボタンを押す力さえ、もうなかった。
帰れなかった。
約束を守れなかった。
ただの肉塊となって、冷たい床に転がった。
それが、吾輩――いや、「俺」の人生の結末だった。
ダンジョンの最深部、第八階層のコアルーム。
吾輩の意識中枢であるこの部屋は今、かつてない異常事態に見舞われていた。
激しい振動。
明滅する照明。
そして、コアから溢れ出る制御不能な魔力の嵐。
それは「悲しみ」や「後悔」といった人間的な感情が、物理的なエネルギーとなって暴走している現象だった。
第一階層で、罠が誤作動を始めた。
スライムたちが制御を失い、壁に激突している。
第三階層では、コダマの森が魔力の暴走に巻き込まれ、木々が悲鳴を上げていた。
ダンジョン全体が、主の苦痛に共鳴して軋んでいる。
吾輩は混乱していた。
今の吾輩は、強大な力を持つダンジョンだ。
だが、中身はあの情けないサラリーマンのままだ。
ならば、この「ダンジョンとしての生活」は、死にゆく脳が見せている長い夢なのか?
それとも、あのサラリーマン人生こそが、ダンジョンが見た悪夢だったのか?
境界が曖昧になる。
自己同一性が崩壊していく。
自分が何者かわからない。
ただ、胸が張り裂けそうに痛い。心臓などないはずなのに、あの夜の胸の痛みが蘇る。
――俺は、死んだんだ。
――家族を残して。何も成し遂げられずに。
――こんなところで、魔物の親玉気取りで遊んでいる場合じゃない。
――帰らなきゃ。娘に、謝らなきゃ。
思考がループする。
コアの輝きが、ドス黒く濁っていく。
このままでは、吾輩は「自壊」する。
ダンジョンとしての機能を停止し、ただの崩落した穴へと戻ってしまうだろう。
その時。
誰かが、吾輩の「殻」を叩いた。
『……おい、起きろ。いつまで寝ている』
低い、地を這うような声。
ヴォルグだ。
彼は、暴走する魔力の風圧に耐えながら、コアの前に立っていた。
その巨大な爪で、コアの表面(吾輩の頬のようなものか)を軽く小突いたのだ。
『鬱陶しいぞ。貴様の魔力が不安定で、床暖房の温度調節ができん。寒くて眠れんではないか』
相変わらずの減らず口だ。
だが、その瞳には、隠しきれない焦燥と心配の色が浮かんでいる。
『……主殿、お加減はいかがですか?』
パープルが、ヴォルグの後ろから顔を出した。
彼女は、いつもの芝居がかった口調ではなく、どこか母親のような静かな声で語りかけてきた。
『貴方の心が乱れているのが分かります。……過去の亡霊に取り憑かれましたか?』
『主はん! しっかりせぇ!』
コダマが飛び込んできた。手には、彼が一番大切にしている「千年樹の樹液」を持っていた。
『これ飲め! 元気出るで! ……わいの森、枯らさんといてくれや。主がおらんと、わいの芸術は完成せぇへんのや!』
彼らだけではない。
入り口からは、ゴブリンたちが心配そうにこちらを覗き込み、ブランカの子狼たちが「くぅーん」と鳴きながら集まってきている。
そして、足元にはスライム(転生者)がいた。
スライムは、生徒手帳をコアの台座に置くと、その場にじっと留まった。
『(先輩、俺も……似たようなもんでした)』
彼の声は震えていた。
『(家族がいたかどうかも、覚えてない。でも、きっと誰かに迷惑かけて、死んだんだと思います)』
『(……だから、ここで生き直せて、よかったって思ってます)』
液状の体が、小さく波打つ。
それは、涙の代わりなのかもしれない。
吾輩は、彼らの顔を見渡した。
竜、死霊、精霊、魔獣。
かつての「俺」が見たら、腰を抜かして逃げ出すような異形の怪物たち。
だが、今の吾輩にとって、彼らはなんだ?
恐怖の対象か?
違う。
ゲームの駒か?
違う。
彼らは、吾輩の「部下」だ。
……いや、違う。
部下なら、クビにすることもできる。契約を解除し、よそへ行かせることもできる。
だが、吾輩はそんなことをしたいか?
ヴォルグのいない宮殿。パープルのいない死霊エリア。コダマのいない森。
――考えただけで、胸が痛い。
そうか。
彼らは、「家族」なのだ。
失いたくない、守りたい、かけがえのない存在。
吾輩が提供する住処で眠り、吾輩が流す魔力を喰らい、吾輩のために戦い、笑い、生きている連中だ。
前の人生で、俺は家族を守れなかった。
仕事に忙殺され、一番大切なものを見失い、孤独に死んだ。
その悔恨は消えない。一生背負っていく傷だ。
だが、今はどうだ。
目の前に、こんなにも手のかかる、生意気で、愛すべき連中がいる。
吾輩がいなくなれば、彼らは路頭に迷う。
ヴォルグは人間に討伐され、パープルは浄化され、コダマの森は焼き払われるだろう。
――また、見捨てるのか?
――過去の痛みに溺れて、今の「家族」を切り捨てるのか?
否。
断じて否である。
そんな無責任な真似は、二度としない。
過去は変えられない。だが、未来は変えられる。
俺は――吾輩は、学習する男だ。
一度目の人生は失敗した。
ならば、二度目のこの「物件としての生」こそは、全うしてみせる。
吾輩のコアから、濁った色が消えていく。
代わりに満ちるのは、透き通った、しかし鋼のように硬質な決意の光。
人間だった記憶は、消さない。
あの痛みも、後悔も、ラーメンの味も、全て抱えていく。
それは重荷ではない。吾輩を構成する「基礎工事」だ。
サラリーマンの悲哀を知っているからこそ、部下の痛みもわかる。
組織の理不尽さを知っているからこそ、このダンジョンをホワイトな職場にできる。
吾輩は、意識を拡張させた。
コアルームだけでなく、第一階層から第十階層(建設予定)まで、隅々まで感覚を行き渡らせる。
壁のシミ一つ、床のひび割れ一つまでが、愛おしい我が肉体。
――待たせたな、諸君。
吾輩は、念話を飛ばした。
それは、弱々しい独白ではなく、ダンジョンの主としての威厳に満ちた宣言だった。
――少々、悪い夢を見ていたようだ。昔の、つまらん夢だ。
――だが、もう覚めた。
『……フン。寝ぼけ眼は治ったようだな』
ヴォルグが満足げに鼻を鳴らす。
『よかったです。……主殿が逝ってしまうかと、ヒヤヒヤいたしましたわ』
パープルが扇子で口元を隠す。その目元が少し潤んでいるのを、吾輩は見逃さなかった。
『ほな、仕事に戻るで! サボってた分、魔力たっぷりよこせよ!』
コダマが軽口を叩く。
吾輩は、台座に置かれた「生徒手帳」を見つめた。
もう、これを見ても動揺はない。
これは墓標だ。
かつて死んだ「ある男」の墓標。
吾輩は、それをコアの深奥、最も安全で、誰にも触れられない場所へと沈めた。
さようなら、俺。
そして、ありがとう。
ダンジョンの日常が戻ってきた。
入り口のセンサーが、新たな冒険者の来訪を告げる。
今日はどんな客が来るのか。
生意気な若造か、慎重な古強者か、それともまた変な商人が来るのか。
吾輩は、彼らを歓迎しよう。
罠を張り、魔物をけしかけ、恐怖と絶望を与え、そして時折、極上の宝とラーメンを提供しよう。
それが、吾輩の仕事だ。
逃げることも、倒れることもない、永遠の職務。
吾輩は、大きく息を吸い込むように、魔力を循環させた。
今日も、ダンジョンは営業中である。
名はまだない――などとはもう言わせない。
ここには、吾輩という確固たる主がいるのだから。
吾輩はダンジョンである。
かつて人間だった。
家族を守れなかった、情けない男だった。
だが、今は違う。
ここには、吾輩を必要とする者たちがいる。
吾輩がいなければ困る、愛すべき厄介者たちがいる。
――だから、吾輩は立っている。
――何度でも、立ち上がる。
それが、二度目の人生を与えられた男の、償いであり、誇りである。
吾輩はダンジョンである。
世界で一番、人間臭い迷宮である。
―――― 第一部 完
思考するダンジョン【吾輩】の物語。第一部完了です。
第二部の展開は今のところ白紙。
お気に入りのキャラでもあるので、早めに再開したいなぁとは思っていますが……。
第一部への評価、感想など頂けたら幸いです。
厚かましいお願いですが、今後の作品の完成度を上げるため、辛口の批評も頂けるとありがたいです。
厳しいお言葉でも、多分……泣かないと思います。
よろしくお願い致します。




