四十四、あなたはだあれ
「え……え? かあ、さん……?」
深月は呆然と、登紀子を凝視した。
聞こえるはずのない言葉、何よりも聞きたくなかった言葉が聞こえた。それも、誰よりも聞きたくない相手から。
「? どうしたのよ、深月。……あ、指切ってるじゃない! もう、何やってるのよ!」
【本当に愚図なんだから……どうしてこう、使えない子に育っちゃったのかしら。暗いし愛想ないし、接客に向かないにも程がある外れだわ】
やや険しい表情で、指先から血を流す深月の手を取ろうとする登紀子。その声に重なるようにして、嫌悪感に満ちた〝声〟が届く。
さらに畳み掛けるように、破砕音を耳にした客達までもが厨房を覗き込んでくる。
「大丈夫かぁ、深月ちゃん」
「怪我しとらんか?」
【いやぁ、やっぱりどっちもええ身体じゃのう……屈んだおかげで尻がみっちり浮き出ておるわ】
【出てった旦那は勿体無い事したなぁ……あれを好き放題できる権利を自分で棄てしちまって】
これまで聞こえてくる事のなかった……親しい者達から届く〝声〟に、深月は動けなくなる。
驚愕、絶望、悲嘆、落胆。
信じていた者からの裏切りの言葉を目の当たりにし、負の感情が深月の心を縛り付けたーーーわけではなく。
あまりにも唐突すぎる母達の豹変に、本心とは思えない突然の悪態に、ただただ戸惑い困惑していた。
これは、誰の声だ?
間違いなく、これまでずっと聞こえ続けていた他人が心の中で放つ悪意の〝声〟だ。それが今度は母の、店の常連達の声で聞こえてくる。
だが深月はこれが、本当に母達が発しているものだとは思えなかった。声はそのまま、話し方の癖もそっくりなのに……違う、と直感していた。
まるで、海外の映画を日本人が吹き替えているかのような、そんな違和感を感じていた。
【あ~ぁ……こんな子、産むんじゃなか 】
何が起こっているのかわからず、硬直したままの深月。母は……母の声を真似た何かは気にせず、胸の内で悪態を吐き続けようとして。
その瞬間ーーーじょきん、と。
何かを切る音が響き、それまでそこら中から響いていた一切の〝声〟が聞こえなくなった。
「え……?」
深月ははっと目を見開き、辺りを見渡す。突然〝声〟が聞こえなくなった事に戸惑い、目を瞬かせる。
こんな風に〝声〟が途切れた事はない。
自らの意思で聞けず、止める事も叶わなかった厄介なもの。なのにそれが、ラジオの電源を切ったようにぶつりと聞こえなくなった。信じられない事だ。
きょろきょろと辺りを見渡す娘の姿に、登紀子は訝しげに眉を顰める。
「……どうしたの? さっきから挙動不審で」
「え、あ、えっと」
異常を認識しているのは深月だけ。聞こえる体質ではない母には、娘が一人で奇行を耽っているようにしか見えない。
深月自身にも現状が把握できず、返事に迷っていた時だった。
からん、と。
空になった五つの丼の上から、揃えて置かれた箸が転がり落ちる音が響いた。
怒涛の来客は、八時前になると落ち着きを見せた。
深月はへとへとになりながら、先ほどの一度以外に失態を見せる事もなく、配膳と会計をやり遂げた。
流し台に食器を置いて、ふぅ、と一息つく深月に、登紀子が手を拭いながら微笑みかけてくる。
「お疲れ様……今日は一段と大変だったわね。ほんと、私の早とちりの所為でごめんね?」
「い、いいよ。気にしないでったら」
汗を拭う娘に申し訳なさそうに頭を下げてくる母の姿は、やはりいつも通り優しく穏やかだ。……とても、あんなどす黒い本音を隠しているとは思えない。
流石に人生で一度も悪態をつかない聖人とまでは思わないが……あの〝声〟を放つ人とは思えない。そんなはずがない。
「……あれ、結局なんだったの……?」
「何?」
「え、いや、ううん! なんでもない!!」
無意識の呟きを聞いた母に問われ、慌てて手を振って否定する。
何度見ても、心から深月を案じてくれている表情だ。やはりあれは母が発した〝声〟ではない。
ならば、聞き間違いか。あるいは別の誰かが発したものか。と、首を傾げてうんうんと唸っていると。
「あら? ……ここってあの子の席よね。いつ帰ったのかしら?」
机の上を拭いていた母が、隅の席を片付けながら呟き、深月もつられてその席を見やる。
机の上に残された、五人分の空になった食器と箸。人影は跡形もなく、食事を終えてかなり時間が経って見える。
何も言わずに去ったのか、というか、会計はしただろうか……と訝しんだ深月は、不意に脳裏に浮かんだ可能性に目を瞠る。
「……まさか」
ぬらりひょん、その名を持つ妖怪の能力、というか逸話が知られる悪戯として有名なのは確か……気配を消せる事。そしてその力で無銭飲食をしていく迷惑な妖だったはず。
まさか、と言葉を失くしていると……母が机の上に置かれた数枚の紙幣を拾い上げた。
「あら、こんなに置いてって。お釣りも受け取らないなんて、相当急いで帰ったのかしら?」
「……ごめんなさい」
「ん? どうかしたの?」
「……何でもない」
振り向く時この視線から顔を背けつつ、深月は自己嫌悪で項垂れていた。よりにもよってとてつもなく失礼な想像をしてしまった罪悪感で、胸の奥に重く硬い痼りが生まれる。
顔を手で覆って沈黙する深月をよそに、登紀子は困り顔で頬に手を当てる。
「困ったわねぇ……誤差にしても、お釣りの額がちょっと起きすぎよね。次に来てくれた時に返せたらいいんだけど」
「……じゃあ、私が今から届けようか」
「え? いいの?」
「……家は前にお邪魔したし、まだ近くにいるかもしれないし」
悩む母に、深月は苦痛を訴える胸を押さえたまま提案する。
とにかく罪悪感をどうにかしたい一心で、母から紙幣を預かり、レジに行って注文された品物の額を引いた小銭を引き出す。
「ちょっと走って行ってくる……あの、後片付け、お願いしてもいい?」
「いいけど……大丈夫? 疲れてるっていうか、切なげな顔してるわよ? 私が行こうか?」
「大丈夫……行かせて、私に」
妙に顔色の悪い娘の身を案じる母に首を横に振り、深月は小銭を手にふらふらと外に出る。
あの街の住人が誰もいないのに、あの場所へ辿り着けるとは思えなかったが……じっとしている気にはなれず、小走りで少年の姿を探す。
その先で待ち受けているものを、微塵も想像せぬままに。




