三十、けついのあさ
目が覚める。
見慣れた自室の天井、自分の家だ。大男の顔だけが上から降ってくる天井ではない……ごく普通の景色が見える。
習慣のまま、布団から出て着替えを始める。
いつも通りのつもりだが、まだ夢の中にいるようなふわふわとした気分だ。
「……でも、夢じゃないんだよね」
独り言ち、昨晩の事をーーー非日常体験を思い出す。
多種多様な妖達、異界の街、交わした言葉と情報の数々。
高揚も期待もない。あるのは、ただひたすらに驚愕し続けた後の余韻だけ。もう起きねばならないのに、ついつい呆けて動きが止まってしまう。
「初めての外でのご飯だったけど……全然普通じゃなかったな。こういう事ができるなんて思ってもいなかったけど……流石にこれは予想外だよね、誰だって」
誰にともなく呟き、苦笑する。
〝声〟に翻弄され、人との関わりに怯え、狭い世界に閉じ込められてきた深月の前に開けた新たな扉。既に片足を突っ込み、自分の価値観やら常識やらが変質しつつある、劇薬のような世界がすぐ目の前にある。
踏み出したい気持ちは十分にあるのだが……心のどこかで引き止められる。
「……あの人達からも聞こえたら、嫌だな」
脳裏によぎるのは、自分のこれまで。
少しでも仲が進展したと思いきや、ちょっとした言い合いをきっかけに聞こえ出す〝声〟。
すれ違っただけの赤の他人、成長期に入ると途端に増えた、男性からも女性からも漏れて聞こえる嫉妬に軽蔑に色欲などの感情。
普通に過ごしたいのに、勝手に聞こえてくる他人の悪意の〝声〟が、浮かれそうになる深月を何度も泥の中に引き摺り込む。
期待して、裏切られる。勘違いであったと突きつけられる。
これまで何十何百と経験してきた心の傷が蘇り、深月の心を重く沈める。
ようやく見つけた、普通じゃない自分の悩みを打ち明けられる普通じゃない相手。
そんな彼らまでもが自分の〝敵〟となったらーーーそう思うだけで、深月は恐怖で震えて立てなくなった。
「……御堂君の、楔」
ふと、彼らが深月に望む役割を思い出す。
人間との縁を諸共に切り捨てた少年と、縁を結んで欲しいと願う妖達の願い。
前向きに検討する、と返したものの、一晩考えた程度では覚悟も何もできるはずもない。
「どうしたらいいんだろう……私」
何かを求められる、期待されるというのは、深月にとって初めての経験だと言っていい。
女子達には関係ない役目を押し付けられ。
男子達には下卑た欲望の捌け口としか見られず。
教師達も頼っている風に見えて、実際は自分の役目を放棄したがっているだけ。
これまで自分が出会ってきた殆どの者と異なる接し方であるが故に、どう返事を返せばいいのかと只管に悩んでいた。
「……深月~? 起きてる~? 朝から悪いんだけど、ちょっと手伝って~?」
ぼんやりと考え込む深月の耳に、階下から母が呼ぶ声が届く。
はっと我に返り、着替えがまだ中途半端なままである事を思い出し、慌てて寝巻の釦を外し脱ぎ捨てる。
考えよう。それが、自分にとって何か大切なものを見つける事に繋がると信じて。
そう心に決めつつ、大急ぎで下着を着込み、シャツに袖を通した。




