二十五、ははのあじ
敷居をまたぎ、深月の隣を通り過ぎ、奥に上がった老人が環の隣に腰を下ろす。
そして呆けたままの深月に視線をやり、ちょいちょいと手招きをする。
「ほれ、いつまでもそんなところにおらんと上がんなさい。雪那よ、いい加減睨むのを止めんか」
「……わかった」
じろり、と老人に睨まれ、それまで静かに深月の隣に佇んでいた雪那がようやく動く。
深月に冷たい横目を向けつつ、床の上に上がると、そのまま平然と環の隣に……と言うか、肩にくっついてしなだれかかる。
「むふー」
「…………」
ひんやりとした白い肌の持ち主に抱き着かれ、環はやはり微塵も表情を変えない。
雪那だけが満足気に、一文字に結んでいた口を微かに緩めている。心なしか、ほんのり頬が淡く染まっているように見えた。
察した深月ははっと息を呑み、思わず視線を逸らす。
思わぬ展開を見せつけられ、凄まじい場違い感を味わいながら、どうしようと視線を彷徨わせる。
「…そんじゃあ、俺達は帰るよ」
「うん、ありがとう。今後はなるべく呼ばないよう気を付けさせるよ。……これ、毎回言ってるけど」
「だな、もう慣れちまった」
「雪那がもう少し大人になってくれたら、こんな用で俺達が駆り出される必要もないんだがなぁ……」
見かねたのか、火車と呼ばれた妖が歩き出し、その後に輪入道が続く。
火車は擦れ違い様に深月の肩をぽんと叩き、去っていく。そこでようやく、深月は抜けかけた腰を上げ、環の家に上がる。
部屋の中には、囲炉裏が一つ。それを囲み、環と老人と雪那が腰を下ろしている。
三人……二人と一体が並んだその前に、深月は緊張の面持ちのまましゃがみ、正座する。隣にするりと、転が寄ってきて丸くなった。
「さて……何から話すかな。うん、まずは自己紹介からしておこうか―――儂はぬらりひょん、最近では妖の長とか呼ばれとる者だ」
訂正する。一人と二体だった。
見た目からして人間離れしていると思ったが、本当に人間ではなかったようだ。
鎌鼬や雪女異常に有名な名前が出て来た事で、深月の緊張はさらに高まり、ぴんと背筋が過剰なくらいに伸びる。
「雪那や転らのように名はない。好きに呼び方は考えてくれ。それで……こっちにおるのは儂の孫みたいなもので、御堂環。名は知っとるだろうが、詳しくは知らんだろうから教えておこう」
ぽんぽんと、我関せずといった風に無言でいる環の頭を叩き、ぬらりひょんは笑う。
よく見れば、環の膝の上に一匹の猫が……尾が二本の化け猫がいる。その毛並みを撫でて寛いでいるようだ。
「……見ての通り、本人にまるで話をする気がなくてな。儂が代わりに色々話してやろう。今、夕餉を用意させるから、食いながら聞くといい」
「は、はい」
深月が頷くと、ぬらりひょんは苦笑しながら長い後頭部を掻く。未だ緊張の解けぬ人間の少女の相手に、どうしたものかと考えている様子だ。
そうしていると、奥に備わった襖が開かれ、新たな人影が姿を見せる。
現れたのは……恐ろしい形相の老婆だった。
皺だらけの顔の中には爛々と輝く目があり、犬歯の伸びた口は熊か狼のよう。その上体つきも歪で、一見すると人間にも獣にも見えない。
山姥だ。
そう直感した深月がびくっと体を震わせた側に寄り……老婆は柔らかく笑みを浮かべて、料理を乗せた盆を置いた。
「はいよ、たーんとおたべ! やだねぇ、人間のお客さんが来るなんて久々だからついつい張り切っちゃったよぉ! あぁ、多かったら残していいからね? 足りなかったらおかわりもあるからね? まぁまぁ、ゆっくりしておいでよ。ここは来る者は誰も拒まないところだからね。お客さんはいつだって大歓迎だからね。くつろいでおいき~」
笑ってなお恐ろしい顔で、近所のおばちゃんのような親しげな騒がしさを見せる山姥。
深月がぽかんと呆けるのにも気付かず、べらべらとまくしたて続ける。
その勢いに、ぬらりひょんも転も呆れた目を向けていた。
「おい、こら婆。大事な話する前に困らすなや」
「そうじゃ、ただでさえこの地に来たばかりの初心者じゃというのに、気が利かんのう」
「……あ?」
「「すんませんでした」」
講義の声をあげる二体。だが、山姥に鋭い、殺気のこもった目を向けられ、途端に平伏し詫びる。
二体が頭を下げると、最初に見た時よりもっと恐ろしい顔になっていた山姥はすぐさま破顔し、深月にぺこりと会釈してみせた。
「あの爺と毛皮は気にしないで、好きにお過ごし。何か困ったら遠慮なく呼ぶんだよ、女同士仲良くしたいからね……それじゃあ」
「ひゃ、ひゃい」
「ほい、環ちゃん。お客さん連れてくるなんて、しかも女の子の知り合いなんて中々意外にやるね。遠慮なく今後も呼んでおくれよ」
深月が頷き、山姥は次は環の方へ向かう。
もう一組、盆に乗せた料理を環の前に置くと、彼は二尾の猫を撫でながら「ありがとう、ばあちゃん」と答える。
にこにこと、やはり恐ろしさが抜けない顔で笑う山姥は環のそばを立ち、奥の襖の向こうに姿を消した。
「……ん、んん。あれは山姥の御山といってな、ここで環の飯を作ってくれとる。顔は怖……中々特徴的だが気のいい奴だ。怖がる必要はないぞ」
「……大丈夫、ですか?」
「いつもの事や。気にせんでええで、深月はん」
冷や汗を垂らし、襖の奥をちらちらと気にする素振りを見せるぬらりひょんを案じるが、転が首を横に振って否定する。
序列というか、複雑な人間、ではなく妖関係があるらしい。色々察した深月は深く追求せずにおいた。
そして深月は、山姥が置いていった料理を見下ろした。
ごく普通に上質そうな食器にもられた、白米に味噌汁、焼き魚に和え物、漬け物。ごく普通の、旅館の食事のような美味しそうな顔ぶれだ。
だが、それらにすぐさま手をつける気にはなれず、深月は不安げにぬらりひょんを見つめる。
「あの、これはすごく失礼な質問なんですけど……これって、私が食べても大丈夫なものですか……?」
この場に、この地に呼ばれた時から、深月には懸念があったーーーきちんと帰れるのだろうか、と。
昔話、というか伝説には不穏なものがある。
あの世のものを食べて帰れなくなる話や、狐や狸に化かされる話。少し特殊な一般人でしかない自分に、果たしてどの程度影響を及ぼすだろうか。
「ん? あぁ、それは……」
「……嫌なら食べなきゃいいんじゃない。ばあちゃんの料理、そんな気持ちを持ってる奴に食べられたくないし」
深月の心配を察したぬらりひょんが口を開いた瞬間、隣からずばっと鋭い声が届く。
深月が視線を向けると、茶碗を手に持った深月が平然と白米を口に運んでいる。
よく噛み、味わい、作り手の気持ちを感じ取ろうとしているような丁寧な食事を行う姿を、見せつけるように深月に晒している。
「君はただ、そこの馬鹿に乗せられてきただけだし、帰りたいなら後で送ってあげる。食べたくないなら食べなくていい。我慢してお行儀良くしてるの見ると、僕が不快になる」
「……環はん、馬鹿は言い過ぎやで」
「勝手な気遣いも届かなきゃただの迷惑だし、嫌なら嫌って言ってもらった方がいい。そういう疑いの目で見てる人にばあちゃんのご飯は勿体無い……料理屋の娘が実はこんなんだと思うと、がっかりするどね」
厳しい口調で言い切った環は、それ以降深月に目を向ける事なく、黙々と食事に没頭する。
話を遮られたぬらりひょんが何か言いたげにしていたが、反論する事は何もないとばかりに腕を組んで黙り込んでしまった。
深月は言葉をなくし、環を凝視する。そして、料理に目を戻す。
美味しそうな料理、だが本物なのかはわからない。
食べてどうなるのか、今や予想もつかない。不思議すぎる世界に来てから、目に映るものすら信用がならなくなった。
しかし深月は、やがて箸を手に取ると両手を合わせ、目を伏せながら礼をした。
「……いただきます」
小さく呟き、味噌汁の器を持って口に運び、一口啜る。
そして……ほっと息を吐いた。
ごく普通の、作り手の気持ちが伝わってくる……母の作る定食のような温かい料理だ。




