二十、すくいのかぜ
逃げるように、素早く廊下を進む深月。
急速に感じた身の危険。浮かれた気分に冷水をかけられた気分で、とにかくあの男から距離を取ろうと急ぐ。
そんな彼女の前に、後ろから猛烈な速度で追い越してきた一人の女子生徒がずん、と立ちはだかった。
「ーーーねぇちょっと、ふどーさん…」
「…さよならっ」
追いついてきた知人、いや取り巻きと言うべき二人の女子生徒を傍らに置き、鋭く睨みつけてくる細身の少女。目付きの悪い三白眼に雀斑顔の同級生。
最も目立つ〝敵〟である彼女……烏丸京香だったか……の横を、深月は触れないようにそそくさと抜けようとする。
思わぬ態度に一瞬呆けた彼女は、すぐにきっと目を釣り上げて手を伸ばした。
「ちょっと! 無視してんじゃないわよ!」
「っ……!」
がっ、と烏丸の手が肩にかかり、付け爪が食い込む。
思わず呻いた深月は仕方なく足を止め、やや恨みがましげな目を〝敵〟に向ける。
「何よその目……あんたが無視するから悪いんでしょ! 私が呼んでんだからすぐ止まんなさいよ!」
「……無視なんか、してない、です。私、あの、急いでるので」
「はぁ? あんたの用事なんか知らないし! 男漁りに忙しい性格ブスのくせして、生意気言ってんじゃないわよ!」
威圧感のある顔立ちをした同級生の表情は険しく、苛立ちに満ちている。昼休憩中に見つからなかった所為だろうか、普段より刺々しい圧を放っている。
傍らの残る二人のうち、制服を着崩した派手な格好の女子も深月を睨んでいる。化粧の厚い、実年齢より年上に見える姿の彼女も、嫌悪感まみれの視線を向け不満げな顔で佇む。
一人だけ、気弱そうな顔をした小柄な少女がいたが、何を言うわけでもなくただおろおろとしているだけであった。
「男、漁りとか……私は……」
「あぁ? 聞こえないんですけど? つかなに? 反抗すんの? 屑のくせして私らに意見する気? 何様? ねぇ、何様?」
眉間にしわを寄せ、鼻息荒く騒ぐ様は猛犬か、あるいは気性の荒い猫か。少なくとも人間離れして見える。
心底嫌だったが、このまま去ってもより面倒な事になりそうだと、溜息を押し殺し正面から向き直る。
「な、何の、用ですか……?」
「……あんた、大嶋先輩に遊びに誘われたわよね。図に乗るんじゃないわよ、あんなのただの遊び、先輩が本気であんたを気に入ったわけないんだからーーー」
「……こ、断りましたから……!」
「は、ちょ! …待てって言ってんのよ!!」
悪鬼の形相で悪態を吐く烏丸が、深月に手を伸ばす。髪を引っ張る気だとわかった深月は、はっと息を呑んでその手を弾いた。
「ゃ、やめて……!」
「いった…! 何すんのよ塵屑が! 調子に乗んなくそが!!」
かっ、と烏丸の目の奥で炎が散ったように見える。それが怒りの火だと気付いた時には、烏丸の一見枝のように細い腕が深月の制服の襟を掴み、締め上げていた。
「屑の分際で! 生意気な目してんじゃねぇよ! くそ! なんであんたみたいな屑が…!!」
「……や、やめなよ。やりすぎだよ……」
「いいじゃん、此花。こんなビッチ、ちょっとぐらい痛い目見といた方が大人しくなるっしょ。あたしらがやってんのは善行だよ、善行」
呼吸を阻害され、苦しむ深月を烏丸が必死の形相で締め上げ続ける。がくがくと前後に揺さぶられ、脳まで揺さぶられるようで気持ち悪くなる。
取り巻きの片割れが僅かに止める素振りを見せるが、友人の剣幕に押されてか役には立たない。本当に気が弱いらしい。
もう一人に至っては、舌打ち混じりに勝手な事を宣う始末だ。
「やめ、おねが、やめ、て…!」
「あんたさえ…! あんたさえいなきゃ! ちくしょう……ちくしょう!」
深月は只管戸惑うばかりだった。陰口やら悪戯やら嫌がらせやら、今までの悪意は間接的なものばかりで、こうも直接的に襲われた経験などなかった。
烏丸もそう、ここまで真っ向から暴力に訴えかけてくる事はなかったはずなのに、急にどうしたというのか。
「あんたが……お前さえ、いなきゃ! こんな、こんな…!」
【何でこんな陰気なブス女に…! 体しか取り柄のなさそうな屑に、先輩が……このクソビッチが! ふざけやがって、くそ! くそ! くそ!!】
唐突に響いてくる〝声〟。実際に放たれるものと遜色のない、敵意に満ちた感情の波。
それが何を意味するのかなど、極限状態にある深月には理解ができない。息苦しさが強まり、思考も抵抗もままならなくなる。
「…ちょ、ちょっと京香、流石にちょっとやりすぎだって。マジで首絞まってるし」
「死ねばいいのよ、こんな女!!」
「いや、ちょっ、人殺しはマジでまずいって! 落ち着いてってば!」
「あ、あぅ、あ…!」
一向に弱まらない烏丸の力。既に恐ろしく歪んでいた顔が、より一層凶悪に変じていく。
事態が急を要するものになり始めると、流石に焦った取り巻き二人が止めようとするも、烏丸は止まらない。止められない。
「ひ……か、はっ」
掠れた呻き声を上げ、泡を吹いて悶える深月。
突然すぎる命の危機に頭が真っ白になる。なぜ急に殺されそうになっているのか、唐突にも程がある。ここまで恨みを買う真似をした覚えなどない。
烏丸の手を掴み返す力も入らなくなり、意識がすっと遠のきかけ。
次の瞬間、真横の窓が突然勢いよく開き、豪風が吹き荒れた。
「ふわっ!?」
「うぶっ!?」
ごっ! と烏丸に襲いかかる風。
不意の一撃に烏丸は目を瞑り、体勢を崩し尻餅をつく。
深月も急に手を離された事でその場に膝をつき、苦しげに咳込みうずくまる。
「な、何よ……急に……いっ!?」
よろよろと上体を起こした烏丸は、突如足を押さえて悲鳴をこぼす。
どうにか呼吸を落ち着かせ、涙目で顔を上げた深月は、烏丸の足を……ぱっくりと裂けて血が流れる、痛々しい傷痕を見てぎょっと目を剥いた。
「うぇっ!? ちょ、何これ……!?」
「うわ、切れてるし」
「だ、大丈夫…!?」
烏丸は傷の痛みに呻きながら、次いで深月を再度睨む。傷をつけた犯人とでも思っているのだろうか、凄まじい憎悪の視線を向けてきている。
「こいつ……いっつ…!」
「や、やめよ? 無理したら怪我酷くなるかもだし、さっさと保健室行こ? ね?」
取り巻きの片割れが烏丸の腕を取り、首に回して持ち上げる。相当に痛むのか、立ち上がった烏丸の顔は深月からしても痛々しく歪んで見えた。
最早深月を睨む気力もないようで、烏丸は取り巻きに肩を借り、ゆっくりとその場を後にする。
もう一人の取り巻きに至ってはあわあわと戸惑うばかりで役に立たず、ただ二人の後をついて行くだけだ。
深月は呆然と、困惑の表情でへたり込んでいた。
何が起こったのかさっぱりだったが、この状況で帰る気にもなれず、三人の背中を見送る他にない。
そしてふと、気付く。
視界の端で開いたままの窓に一瞬……鈍色に輝く獣の尾が揺れていた事に。




