膝枕
「全部独り言よ、もしもの話よ」
私は自分の耳まで熱が、血が巡っていくのを自覚していた。私の心臓は運動以外でこんなに強く脈打つのかと驚きつつ、きっと顔や耳まで赤くなっているに違いないと刹那の間に考えた。
そして、もう遅かった。思いっきり抱きつかれている。160cmに満たない少年が、169cmの私を押し倒しながら嬉しいだの、早く皆に教えないととか、髪は長かったほうが好きだったなどなど、私の苦労も知らずに、まあ良く言葉が続くものだ。私は自分の頬に触れ、熱がこもってやしないか、ニヤついてはいないかと平静を装うのに必死になっているというのに…。
しかし、こうやって目の前で見るとこの子、木下楓は本当に美人だ。いや、男の子だから美男子というのが正しいのだろうが。まつ毛はマスカラでメイクしているのかと思うくらいに長いし、二重で目元もくっきり、鼻筋も通っているし肌艶もいい。肌艶に関しては運動ができないので引きこもり気味で、あまり日に当たっていないのが原因だと思う。それにヒゲもまだ生えていないようだし男性ホルモンが仕事していないとしか思えない。
「あなたって、見れば見るほど女の敵ね」
楓がキョトンとして、小首をかしげ、少し垂れ目気味の上目遣いで私を見てくる。そう、それが駄目なのだ。世の女性が憧れるものをすべて持っていて無自覚にも程がある。その垂れ目は私がずっと憧れているものだ。
「僕は怒られてるの?」
ため息が出る。なんだ、この生き物は…。
「怒ってはいないのよ。ただちょっと悔しいだけ。髪を切ったのは悪かったわね、医学部に居ると忙しくて毎日髪のケアするのが面倒になったの」
楓の頭を撫でながら、私が軽く嫉妬しているのを説明しながらもう一個嫉妬の対象を発見する。髪も艷やかなのだ。この子にしてみたらそんな見た目の良さより、健康な身体のほうが欲しかったのだろう。撫でられて猫のように体を預けてくる楓を見ていると、また一つため息が出る。
猫のように身を寄せてくるこの自称婿殿の子供っぽい香りに鼻をくすぐられる。この状況をどうしたものか、まずは冷静にならなければならない。過ちがないようにこの後のことも考えないといけない。
「はいはい、お祭り行くなら準備しないとね」
楓の肩を掴み、一旦引き離す。楓に唇を尖らせ心底残念そうな顔をされたが気にしないでおこう。祭に行くにしたってこの子の身体のこともあるし、準備を整えなければならない。
楓は不整脈のせいでずっと頭痛に悩まされている。夏などは気圧の変化も相まって、より激しい頭痛に悩まされ吐いたりすることもある。一般的な片頭痛ならカフェインを接種すれば和らぐのだが、楓の場合はカフェインを接種することで不整脈が悪化する。
頭痛薬が効けばいいのだが、アスピリンのような強い薬はあと一年は服用が出来ないし、アセトアミノフェン系でも意識障害を起こしたこともある為、薬の服用後は安静にしている必要がある。
「さて、どうしようかしら。楓は私とお祭り行きたい?」
正座で鼻息荒くうなずく楓の頭を撫でながら、先程の会話を思い出す。楓は雨が降ると言っていた、雨の間は頭痛がひどくなるかもしれないから遅めに出かけてみるのはどうだろうか。暫くは家で様子を見ていられるし、薬を飲んで安静にして頭を冷やしていれば夕方に雨が降ったとしても何とかなるかも知れない。
「雨降りそうって言っていたけど、そんな気がするの?」
楓は首をぐるぐると回し、一頻りこめかみを揉んだ後私を真っ直ぐに見つめた。
「うん。多分あと2時間くらいで降ると思う」
私も楓の行動を真似してみたがさっぱり分からない。私も大学で雨の匂いがすると言ったら、田舎者は雨の匂いが分かるのかとからかわれたが、その雨の匂いもしないし何を根拠にと言ったら楓の中の経験則なんだろう。
「そうなのね、じゃあ私は浴衣に着替えてくるから。雨が止むまで夕涼みしてましょうよ」
最初に浴衣の話をした時はふくれっ面だったが、今は楓の表情が明るくなった。浴衣と言う言葉に反応するあたり、少年らしさも感じられる。さっきは上手くいかなかったが、また意地悪な昼神桜子が顔を出してきた。少しお姉さんらしい所を見せてからかってみよう。私は立ち上がり正座する楓を見おろし、勝ち誇るように微笑んだ。
「なんなら、浴衣のお姉さんの膝枕で夕涼みでもいいのよ」
午後16:07。楓の言う通りに雨が降り出した。ようやく私にも馴染みがある雨の匂いを感じ、庭に落ちる雨音を聞きながら驚きを隠せないでいた。
楓はアセトアミノフェン系の頭痛薬を飲み、私の膝枕で安静にしている。浴衣に着替えたのもあるかもしれないが、雨のお陰で風が抜けるようになり私の不快指数は少し下がった気がする。だが楓はと言うと、大好きな桜子お姉さんの膝枕の割に不愉快指数がなかなかの数値を出しているようだ。
「これは僕が知ってる膝枕じゃない」
楓は実に不愉快そうだ。大好きな桜子お姉さんの浴衣越しの膝枕かと思ったら、浴衣と自分の頭の間にバスタオルと氷嚢が邪魔しているのだからさぞ気にいらない事だろう。楓も氷嚢の硬い感触をどうにか避けて私の膝の感触を味わえないものかと、右に寝返り左に寝返り、仰向けになったりと試行錯誤している。
「文句言わないの、これなら酷い頭痛にはならないでしょう?」
先程までと立場が変わり私が楓の世話をする番だ。夕方の涼やかな風を私がうちわで楓の頭に優しく届けてあげている。我ながら出来たお姉さんだなどと悦に入って油断していると楓がうつ伏せになり、氷嚢に額をこすりつけている。
「こら、うつ伏せ禁止」
私は楓の後頭部をうちわで優しく叩いた。それでも暫く不服そうにうつ伏せで唸っている楓の柔らかな髪を撫でながら私は言葉を続ける。
「首の血管冷やすのが一番なんだから、言う事聞きなさい」
私のじっとりした目線に気がついたのかどうなのか、楓は不服そうに唇を尖らせながら仰向けになる。私の目つきの悪さに負けじと見返してくるとはなかなかの胆力だ。
「桜子ねえさんのけち」
アヒルみたいな口角の上がり方で可愛らしく、また頭を撫でてしまった。楓の柔らかい髪を撫でるとまた猫のように目を細める楓を見て頬がムズムズする。私の毒気もすっかり抜けてしまった、やはりこの生き物は可愛らしい。楓も撫でられるのは好きなようで目を細めている。猫なら今頃喉を鳴らしている事だろう。
「現役の医大生にそういう夢と希望を持つほうが間違いなのよ」
楓は諦めたように深いため息をつき、私の顔を不思議そうに見上げてくる。そんなにまじまじと見つめられるとこちらも身じろいでしまいそうになるのでやめてほしい。
「なに、なんかした?」
楓は私が少し嫌がっているのを察したようで楽しそうな顔をしている。こうなってくると生意気だと思うし、また毒気がぶり返してくる思いだ。
「桜子ねえさんはきれいだね。浴衣もすごい似合っ」
最後までは言わせたくなかったので、楓の両頬を引っ張って邪魔をする。14歳が女子大生に向かって歯の浮くような台詞など本当に十年早い。生意気なお婿候補には少しお灸を据えなくてはならない。これもお婿を貰う私の務めと言っていいだろう。きっとそうだ。
楓は引っ張られた頬を擦りながら、やれやれこのお姉さんにも困ったものだと思っているように微笑む。いや、これは絶対に思っている。
「桜子ねえさんは恥ずかしがり屋なんだね。あんまり褒められないの?」
ほら、思っていた。
「膝枕辞めるわよ」
私はあまり褒められない理由の一つである、先ほど見せられなかったじっとりした目線で楓を窘めた。第三者がいたら静かに恫喝したと言われそうだが、今はふたりきりだ。
それは困りますと言わんばかりに、楓は寝返りをうって静かになる。本当に分かりやすく純粋だ。意地悪をしすぎるのも良くないと今度は飴の代わりに私は楓の頭を撫で始めた。何となく癖になる柔らかさの髪の毛だ。
「雨がやんだら出かけられるように安静にしなさいよ」
すっかり冷たさを失った氷嚢とバスタオルを取り除きちゃんと膝枕にしてあげた。なんて優しいお姉さんなのだろう。そして静かにしている楓の頭を撫で続けると楓の呼吸が少し落ち着き始め、寝息に変わって行った。それでも私は楓の頭を撫で続ける。夕立の音と雨の匂い、心地良い風と楓の寝息を聞きながら、これはこれで悪くないと思っていた。




