第8話 門を知る男
翌朝、レンは留め具を一つつまみ、机の上へ戻した。
指先で溝が分かった。昨日のように、目で持っていることを確かめなくてもいい。ミオは三度繰り返させてから、右膝の帯を緩めた。
「こっちは、まだ」
脚を支えられ、わずかに角度を変えられる。痛みが残っている場所を指すと、ミオはそれ以上動かさなかった。
「第一錨炉まで行けば、替えられるんだろ」
「現物が残っていればね。あの紙が書かれたのは、昨日じゃない」
彼女は帯を締め直した。レンは口を閉じ、杖を手に取った。
部屋を往復したあと、ガドが道具袋を持って入ってきた。新しい拘束索が二束、袋の口から覗いていた。
「昼までは休め。支度は俺たちでやる。出るのは次の朝だ」
「俺も行く」
「そのつもりで荷車を空けている」
ガドは袋を作業台へ置いた。
「歩くのは中だけだ。現地で悪くなったら、待避室で待て」
レンは頷いてから、呼び止めた。
「部品だけじゃない。炉の中を見たい」
「何のために」
「門を開く手掛かりがあるかもしれない」
どこまで言うか、決めていなかった。証印という言葉が喉まで出て、そこで止まった。
ガドは少し待った。レンが続けないと分かると、荷車の取っ手に掛けた袋を指した。
「ヴァルクが許可したのは、保守棟の部品回収だ。炉をいじる話は入っていない」
「見るだけなら」
「道が安全で、仕事が済んでいれば考える。先に隊の荷を出す。それでいいな」
頷かなければ連れていってもらえないのだろう。レンはそう思い、すぐに、昨日運んでもらった帰り道を思い出した。
「分かった」
その日は影縫いを使わず、休みながら乾いた布を畳んだ。夜の配給を終えると、ミオが規格票を油紙で挟み、平たい箱へ収めた。
「一緒に行くのか」
「厚みだけじゃなくて、穴の位置も確かめる。違うものを運んで帰る余裕はないから」
工具の間へ、古びた帳面を入れた。背の継ぎを何度も直した跡があり、角には薄い革が当てられていた。
出発時、門の外にはセナが待っていた。
首の布を巻き直し、短い棒で道の端を叩いている。荷車が来ると、その棒を肩へ担いだ。
「古い回収路を通るよ。上の橋は荷車じゃ無理だから」
ガドと隊員二人、ミオとセナ。その中にレンがいた。荷車には水と食料、毛布も積まれていた。今日のうちには戻らないと聞き、レンは修繕場の寝台が空いたままになることを考えた。
門を出る直前、ミオが脚の下の袋を直した。
「痺れも痛みも、増えたらすぐ言って」
「分かってる」
「昨日もそう言ってた」
レンは少し間を置いて、もう一度頷いた。
燈杭の蒸気が見えなくなると、風が冷たくなった。
荷車は高架の下を離れ、乾いた排水路へ入った。両側の壁には黒い水の跡が何本も残り、その間から草に似た細い繊維が垂れていた。湿った石と錆の臭いがする。車輪の音が遠くまで返るので、隊員たちは継ぎ目の手前で速度を落とした。
セナは角ごとに先へ行き、戻ってから道を示した。
一度、古い目印の下で止まった。壁へ刻まれた矢印はまっすぐを指していたが、その先は天井が低く潰れている。
「前は通れた」
彼女は呟き、棒で脇の地面を探った。
誰も先を急がせなかった。ガドが見張りに立ち、隊員が荷車の車輪へ石を噛ませる。セナは横道を短く調べて戻ると、矢印の上へ斜めの傷を刻んだ。
「こっち。広いところまで、少し押し上げる」
レンも降りようとしたが、ガドに肩を押さえられた。
「お前が途中で止まる方が手間だ。乗っていろ」
取っ手を握る男の首に筋が浮いた。レンは邪魔にならないよう脚を寄せ、荷崩れしそうな袋を両手で押さえた。
道が開けたとき、遠くに巨大な円筒が見えた。
煤けた外壁を何本もの配管が囲み、根元から薄い湯気が上がっている。上半分は崩れていたが、腹の底に響くような低い音が、風の切れ目ごとに届いた。
「第一錨炉」
ミオが荷車の脇から言った。
レンは身を起こした。文字の中にしかなかったものが、そこにあった。
近づくほど、空気が乾いていった。道端の灰が細かな波を作り、熱い鉄の匂いがした。配管に触れないよう、セナが皆を壁から離して歩かせた。
途中の休憩を含め、半日近くが過ぎていた。
保守棟は炉の西側に寄り添っていた。低い建物で、窓には板が打ちつけられている。入口の前に浅い作業溝が走り、その上へ幅広の鉄板が渡されていた。
荷車を止め、レンは杖をついて降りた。固い地面へ足を置き、少し待ってから左足を出す。痛みはあったが、歩けた。
セナが鉄板の手前で棒を下ろした。
「そこは踏むな」
頭上から声がした。
ガドが盾を持ち上げた。レンも足を止めた。
二階の窓の暗がりに、人がいた。灰白色の装甲を重ね、片方の肩を窓枠に預けている。兜の下半分が欠けたように開き、頬に古い傷が見えた。
「壁側の留めが抜けてる。棒で端を押せ」
セナはガドを見た。彼が頷くと、身体を溝から離し、棒を伸ばして鉄板の端を押した。
板が沈んだ。
壁との間に隙間が開き、次の瞬間、片側が溝へ落ちた。短い音が建物に反響した。下面の支えは、薄い錆の筋を残して折れていた。
レンは杖を握り直した。自分が載っていれば、また右脚から落ちていたかもしれない。
「右へ回れ。給脂口の脇に、人が通れる扉がある」
窓の男が言った。
「誰だ」
ガドの声に、男は少し顎を引いた。
「シグ。部品を拾いに来たなら、その道しか残ってない」
ガドの眉が動いた。
「まだ、この辺りにいたのか」
「見つかってないものがある」
シグは窓から離れた。装甲の擦れる乾いた音がして、姿が消えた。
教えられた扉は、太い配管の陰にあった。ガドが先に中を調べ、隊員を入口に残した。荷車は外へ置き、必要な袋だけを運ぶことになった。
レンが中へ入ると、シグは廊下の奥で待っていた。
背はガドと同じくらいだった。灰白色の板には黒い補修材が縫い目のように走っている。右手で小さな金具を回していたが、指が震え、金具が床へ落ちた。
拾おうとしたレンより先に、シグが足で押さえた。
「置いておけ」
足を引いて屈むまでに、妙な間があった。
「泊まるなら、向こうの待避室だ。内側から閉じられる。部品庫はその先。だが今日は奥へ行くな」
「何がいる」
「巡回機。動く時刻がずれてる」
ガドは隊員へ手で合図し、扉と廊下を確かめに行った。ミオも壁の標示を読んでいる。シグはレンの杖を見て、それから兜へ視線を上げた。
「いつ落ちた」
レンは返事を忘れた。
「どうして、それを」
「俺も、ここで生まれたんじゃない」
遠くで管が鳴った。レンはその音が止むまで、男の顔を見ていた。
「帰ろうとしてるのか」
「お前もか」
答えの代わりに返された問いが、妙に近く聞こえた。門の話をしても、この男は脚の具合を尋ねなかった。
シグの目が、杖を握る手首へ移った。そこには、索を外した端子が覗いていた。
震えていた右手を、男は左手で押さえた。
「お前なら、まだ門を開けられる」




