第5話 名前のない借り
レンは固定された脚を見下ろした。
「直せば行けるだろ」
「直す部品があればね」
ミオは空の椀を重ねた。底に残っていた粒が一つ滑り、レンはそれを目で追った。
「明日、棚を当たる。今日は寝て」
修繕場へ戻って寝台に横になると、口元の板はいつの間にか閉じていた。指を当てても唇には届かない。粥の塩味だけが、舌に残っていた。
灯りを落とされてからも、レンは何度も目を開けた。足音が通るたびに、棒の先が車体の下へ入ってくる気がした。膝を引こうとして痛みが走り、そのたびに天井の梁を確かめた。
壁の管は、夜の間も鳴っていた。
翌朝、その寝台の前へ細身の男が来た。
白いものの混じる髪を短く揃え、留め金を一つだけ新しくした上着を着ていた。指には、関節を横切る古い火傷の跡がある。男は椅子に座る前に、寝台を囲む道具を邪魔にならない位置へ寄せた。
「管理長のヴァルクだ。昨夜は眠れたか」
「少し」
「ガドから聞いた。しばらく歩けんそうだな」
ミオが棚から浅い箱を持ってきた。中には短い金属片が並んでいたが、彼女は箱を傾けて見せただけで、どれも取り出さなかった。
「幅が合うものはあった。でも厚みが足りない。荷重を掛けたら曲がる」
「削って合わせられないのか」
「薄いものを削っても、厚くはならないよ」
レンは黙った。ミオも言葉を足さず、箱を作業台へ置いた。
「修理材は外から回収する」
ヴァルクが言った。
「食料も水も、運ぶ者がいる。炉を維持する者もいる。お前の分を増やすには、誰かの手が要る」
「だから、出ていけと?」
「仕事ができるようになったら、働いてもらう」
男は薄い帳面を開いた。頁には数字と短い文字が並び、いくつかの行は横線で消されていた。
「当面の配給と寝床、それに応急修理を貸しにする。動けるまでは、ここで部品の仕分けを。外へ出られるとガドが判断したら、回収隊へ入れ」
「いつ返し終わる」
ヴァルクは帳面をレンへ向けた。
「支給した分も働いた分も、これに残す。額は先に伝える。返済に回すのは、その日の配給を引いた残りだ」
読める数字だった。少なくとも、知らないうちに書き足される帳面にはしないということらしい。
「返したら、門へ行く」
ヴァルクの指が頁の上で止まった。
「昇界門か」
「帰る道を探してる」
「この集落から案内を出す約束はできん。まず、自分の脚で歩けるようになれ」
レンは枕元の添え板を見た。借りた布。借りた寝床。腹に入った食事まで、ここから得たものだった。
「回収したものは、全部渡すのか」
「回収権がある。発見者の取り分は残す。ただし炉の部品は集落へ納める。勝手に持ち出すな」
ヴァルクは帳面を閉じた。
「もう一つ。動いている設備には、許可なく手を出さないこと。止まったように見えても、自分だけで決めるな」
レンは頷いた。
「分かった。仕事をする」
言ってから、片手を差し出した。黒い指を見たヴァルクが一瞬だけ動きを止める。けれど男は、火傷のある手でそれを握った。
その日の昼、ミオが修繕場の戸を開けた。すぐ前の小さな作業机に、セナが座っていた。
窓からの光が届く場所だった。レンはミオに支えられて入口の椅子へ移り、脚を台に載せた。寝台から離れただけで、少し胸が軽くなった。
セナは金属板を小さな万力に挟んでいた。鏨を当て、布を巻いた槌で叩く。硬い音は一打ごとに短く途切れた。
「それ、外で拾ったやつか」
「こっちは写し。拾った方は家の人に渡した」
彼女が横へ寄ると、板に刻まれた文字が見えた。人の名らしい。その下には、小さな字で『先に食べてて』とあった。
「最後に言ったこと。奥さんが覚えてた」
セナは鏨の先に付いた屑を払った。
「名留めっていうの。身体を連れて帰れないことが多いから」
「埋めないのか」
「残せば骸機が持っていく。運べるときばかりじゃないしね」
机の脇に、穴を開けただけの板が何枚かあった。字はない。
「分からない人のも取っておく。あとで探しに来る人がいるかもしれない」
レンは『先に食べてて』をもう一度読んだ。昨日の粥が喉を通った感触が、不意に戻った。
「あなたの名前は?」
セナが空いた板を一枚手にした。
「まだ墓に入るつもりはない」
思ったより強い声が出た。
セナの手が止まった。板を机へ戻し、鏨も置いた。
「今、刻もうとしたんじゃないよ。ずっと黒い人って呼ぶのも変でしょ」
レンは目を逸らした。階段の向こうを、湯の入った桶を持つ人が通った。桶から落ちた滴が、床に濃い点を残した。
「……レン」
「レンね」
セナはそれだけ言って、作業中の板へ向き直った。
名前を書き取られなかったことに、レンは少し安堵した。
机の端に、細い紐で束ねた紙があった。同じ名前が何度も記され、その横に場所と日付が並んでいる。セナの肘が触れ、束が床へ落ちかけた。レンが手を伸ばすより早く、彼女が押さえた。
「それも、名留めか」
「捜してる人」
「見つかってないのか」
「まだ」
セナは紙を袋に入れた。代わりに、字のない板を手元へ引き寄せた。
「これ、持っててくれる? 角を落とすから。指はそこより外」
レンは言われた位置を押さえた。鑢が動くたび、掌へ細かな振動が伝わった。
それから数日、レンは修繕場で夜を越した。
朝は膝を調べてもらい、昼は座ったまま座金や留め具を大きさごとに分けた。似たものを混ぜると、ミオは二つ並べて違いを示した。最初の箱は半分やり直しになった。
痛みで眠れない時間は短くなった。胸も、浅く息をしている間は気にならなくなった。けれど右脚を動かそうとすると、内側で引っかかる感触は消えなかった。
ミオは変形した外側の溝を少しずつ整え、傷んだ駆動部が膝を押し切らないよう、動く範囲を狭めた。
「これは歩く練習のため。部品を替えたわけじゃない」
注意を聞いてから、レンはガドの肩と台の縁につかまって立った。右足には少ししか体重を載せられなかった。それでも、寝台へ戻る前に自分で二歩進んだ。
その夕方、ミオが小さな熱札を机に置いた。
「仕分けの分。貸しから引く分も帳面に付けたよ」
レンは札をつまんだ。冷たく、端に鑢の跡が残っていた。ガドが持っていたものと同じだった。
ミオの目が、その手首で止まった。
「そこ、もう少し明るい方へ向けて」
手を返すと、内側に並ぶ小さなくぼみが見えた。汚れを拭ったあとだけ、底の金属が違う色をしていた。
「端子みたい。痛みは?」
「ない」
ミオは脇の棚から、先が二つに分かれた導線を取った。片端は机上の小さな計器につながっている。計器の別の口からも線が延び、隣の巻上機の制御箱へ入っていた。巻上機は空の軸を低く回していた。
「ここに弱い電気が来ているかだけ見る。手は動かさないで」
レンは頷き、掌を上へ向けた。
導線の先が、くぼみの底へ触れた。
指の付け根に冷たいものが走った。レンは反射的に手を握りかけた。
隣で鳴っていた巻上機の駆動音が、ぷつりと途切れた。
ミオが顔を上げた。
音を失った軸は、まだ回っていた。




