第43話 帰った先の名前
点検室の床は、寝るには冷たかった。
隊員が戸口から離した場所へ敷物を広げた。レンは壁へ背を預け、左腕の帯をミオに緩めてもらった。胸の圧迫が薄れると、腕の重さが戻ってきた。
ガドは二つの出口に見張りを置いた。来た通路へ戻れることを確かめ、翌朝までここで休むと決めた。
門衛の足音は、壁を隔てると途切れがちに聞こえた。
レンは目を閉じた。片足が上がり、その上へ重い胴が移る形だけが残った。鉤を持つ右手を思い浮かべると、同じ手には刀を持てなかった。
眠りに入るまで、何度も持ち替えた。
朝、ミオは点検用の送り機の覆いを外していた。
短い台の上を、小さな爪のついた送り板が往復する装置だった。型の符号と資料を比べ、古い供給線を外し、ほかの設備へつながっていないことを隊員と確かめる。台の両端には止めがあり、送り板が外へ飛び出さない形になっていた。
「これで接続だけを見る。門の方へは流さない」
レンは椅子へ移った。左腕は固定したまま、肘の下に布を足した。
ミオは携帯電源を最低の設定へ合わせた。隊員が周りから工具を片づけ、ガドは戸口の見張りへ合図した。
送り板が動いた。
ひと往復する間に、かすかな擦れる音がした。ミオが止め、滑り面を掃除してもう一度動かす。今度は同じ速さで端まで行き、戻ってきた。
「先に、索の掛かりを確かめる」
調整箱から鉤が出された。
右脇の金具へ索を通し、短い信号線を左手首へ留める。ミオが少しずつ索を引いた。胴の帯が締まったが、腕は引かれなかった。強さを一段増すと、肋骨の下へ圧が寄った。
「ここまでなら。息はできる」
レンが言うと、ミオはそこでやめた。
「機体を支えるためには使わない。引かれたら、抱え込まずに外す」
ガドが横から索を見た。
「重さを受けるのは俺たちの方だ」
レンは頷き、右手で鉤を持った。
送り機の接続口は机の手前にあった。動く爪から離れた位置へ鉤の接点を合わせる。左手首の奥に、冷たい筋が触れた。
「触れた」
ミオが時計を構えた。
「一度だけ」
レンは影縫いを使った。
送り板の動きが鈍り、わずかに滑って止まった。左指の感覚が、指先から遠くなった。
一つ。二つ。
数え終える頃に、送り板がまた動いた。
「三秒。戻った」
ミオが言った。
レンは右手で鉤を離した。左手は添えの上に載っているのに、どこへ置いたか分からなくなる。前に続けて使った時に似ていた。一度しか使っていないのに、痺れが強かった。
「指が遠い」
レンは言った。
「もう一度は、今は無理だ」
ミオは電源を切った。動きが止まるのを待ち、接点を外した。
「今日は終わり」
ガドが時計を覗いた。
「止まっている間に、全部倒すわけじゃない」
レンは顔を上げた。
「足を留めるところまで、三秒で作る。お前が触れたら俺たちが張る。動きが戻っても崩れた姿勢をすぐ直せないようにする」
「ここで通ったから、門衛にも必ず通るとは言えない」
ミオが紙へ書きながら言った。
「外れた時の合図も決めよう」
接点が合わない時、動きが止まらない時。レンが短く伝え、ガドが退路を覆う。二度目ができるつもりでは組まない。
レンは右手を開いた。刀を抜くには、この手から鉤を離す時間が要る。索を脚へ落とさない置き方を、ミオと確かめた。
窓のない部屋でも、食料を配る時刻は来た。
レンは水筒を受け取り、右手で口元へ運んだ。左指には触れられる感じが少し戻っていたが、握ろうとはしなかった。
セナが隣へ座った。
小さな金属板を、敷いた布の上へ置いた。縁は丸く削られ、片側に紐を通す穴があった。まだ何も刻まれていなかった。
「切れ端を一枚、持ってきた」
セナは道具包みを開いた。
「名前、今なら書いてもいい?」
レンは板を見た。
初めて名を残そうと言われた時には、ここで死ぬためのものに見えた。あの時と同じように、板は小さかった。今は穴の先へ通す紐まで見えた。
「俺が持っていくのか」
「うん。ここに置くのは、嫌なんでしょう」
セナは簡単に言った。兄の名札を入れた袋は、胸の内側にあった。そこから出して見せることはしなかった。
レンは紙をもらった。
右手に筆記具を持つ。セナが紙の端を押さえた。最初の線を引き、屋根の形を作る。下へ続く線が一つ傾いた。
廉。
「向こうでは、こう書く」
声にすると、兜の中で知らない響き方をした。
セナは字とレンの顔を交互に見た。
「これも、レン?」
「ああ」
彼女が線を指で辿った。読み慣れない字を、勝手に単純な形へ直すことはしなかった。
レンはもう一枚に大きく書いた。
紙の白いところへ、雨の筋が重なった。
黄色い線の向こうに、濡れたホームがあった。屋根の下の標識が見えた。いつもそこにあったもののように、二つの字が読めた。
水瀬。
雨音の奥で、誰かが名前を呼びかけた。
振り向こうとすると、壁の向こうで重い足音がした。紙は膝の上に戻っていた。
「どうしたの」
セナの手が止まっていた。
「駅の名前を、思い出した」
レンは息を整えた。
「水瀬。雨が降っていた駅だ」
「帰るところ?」
「そこにいた。そこから先が、分からない」
家がどちら側にあったか、なぜ雨の中を歩いていたかは出てこなかった。呼んだ者の顔もない。
それでも二つの字は消えなかった。
セナは小さく頷き、板を押さえた。布の上で細い刃を引く。硬い粉が少しずつ落ちた。途中で灯りへ傾け、紙と比べてまた線を足す。
レンはその音を聞いていた。
母の記録を読むミオ、出口で隊員と交替するガド。セナの手の下で、自分の名前が残っていく。
完成した板を右手へ載せられた。刻み目を親指で撫でると、細い線が確かに触れた。
「合ってるか、見て」
レンは一画ずつ確かめた。
「合ってる」
セナが紐を通した。レンの右手だけでは結びづらいところを、彼女が結んだ。首に掛けると鎧へ当たるので、胸の内側の布袋へ収めてもらった。
「名前を忘れたわけじゃないんだ」
レンは言った。
「でも、呼ばれたところへ帰りたいと、ここで言っておきたかった」
ミオが顔を上げた。ガドも戸口からこちらを見た。
「帰れる門だとは、まだ分からない」
レンは袋の上へ右手を置いた。
「それでも、探しに行きたい」
誰も行き先を保証しなかった。
セナは金属の粉を布へ集め、残った切れ端を包んだ。
「じゃあ、それは持っていって」
板の重さは、鎧越しにはほとんど分からなかった。レンは袋の位置をもう一度確かめてから、手を下ろした。




