第38話 折れた左腕
吊り鉤は、人の頭より少し高いところで止まっていた。
その下に空の荷台がある。車輪には木の楔が打たれ、床の二本の軌条に沿って奥の扉へ向いていた。シグは荷台の左側、腰ほどの操作台と壁の間にいた。
右手を台の縁に置き、左手で長い棒を握っていた。先端が平たく潰れた鋼棒だった。足元には、こすり取られた錆が散っている。
「来たか」
レンは戸口から二歩のところで止まった。ガドの盾が右前にある。後ろには隊員が二人いた。一人が索の束を床へ下ろし、もう一人が戸口を空けていた。
「炉を開けさせろ」
シグは奥の扉へ顎を向けた。
「吊り具を戻せば運べる。荷台もある」
「戻さない」
レンは言った。
「核は残す。第三炉でも言った」
「なら何をしに来た」
「お前を止めに来た」
シグの右手が台の縁を掴み直した。指が二本、遅れて曲がった。
ガドが半歩出た。
「棒を置け。ここから一緒に出る」
「炉を止めていないだろう」
「今はな。そのまま終わらせる」
レンの足の裏へ、炉の振動が届いていた。温かい空気に油の臭いが混じる。ここで声を張っても、奥の炉音に吸われていくようだった。
「治療を受けてくれ」
レンが言うと、シグは視線を下げた。杖の先を見ていた。
「お前はそれで、いつ走れる」
レンは答えられなかった。
「俺にはもう、次を待つ脚がない」
シグが棒を持ち上げた。
先端が台から離れる。ガドの盾が前へ出た。鋼棒はその上を叩かず、低く突き出され、盾の縁で滑った。
「下がれ」
レンは杖を引いた。後ろへ一歩。シグは台に右手を残したまま身体を進め、左手で棒を押してきた。
長い。
腕を伸ばした先より、さらに先端が来る。レンは右脚を退き、壁際へ寄った。ガドが棒を外へ押し流す。平たい先が床を擦り、短い火花が出た。
シグは手元を引いた。棒が戻る間に、ガドが荷台の奥側へ回った。閉じた保守口へ抜ける通路を盾で塞ぐ。
「台から離れろ」
シグは右手を台から外した。左脚を引きずって、荷台の手前へ出てくる。レンとの間には、荷台の角があった。
後ろの隊員が左へ回ろうとすると、シグは棒の先をそちらへ向けた。隊員が止まり、その分だけレンの前から先端が外れる。
抜こうと思えば刀を抜けた。
だが顔か首へ届かせるには、この棒の内側まで入らなければならない。そこまで踏み込んだあと、自分の膝で戻れるとは思えなかった。
レンは杖を壁へ立て掛けた。
「右の足が、長く持たない」
「荷台の手前から動くな」
ガドが答えた。
シグがこちらを向いた。棒を両手へ持ち替え、右の掌を柄に添える。震えは消えていなかったが、肘を脇へつけると先端が落ち着いた。
「道を空けろ」
レンは首を振った。
突きが来た。
荷台の角を挟んで左へ身を寄せると、棒が腹の横を抜けた。シグが踏み直す。右足は来た。左足が軌条の脇で止まり、上体だけが前へ残った。
ガドが盾を押し出した。
シグは後ろへ戻らず、棒の半ばを荷台の鉄の縁に載せた。縁を支えに手元を低く押す。先端が跳ね上がった。
レンは右足で退こうとした。
膝の奥が噛み合わないように痛んだ。踵が残った。胸へ来る先端に、左腕を上げた。
硬い音が、耳ではなく肩の内側へ響いた。
前腕の外板がへこんだ。続いて、内側で細い物が裂ける音がした。肘から手首へ白く熱い痛みが通り、指が勝手に開いた。
レンは息を吐けなかった。
左腕が落ちた。荷台の角へぶつかり、もう一度痛んだ。
「左が、動かない」
声にしたところで、ガドの盾が二人の間へ入った。
棒が盾を叩いた。ガドは正面から押し返さず、斜めに受けて先端を床へ落とした。
「下がれるか」
「一歩なら」
レンは左足から引いた。右足を揃える。腕の重さで身体が左へ傾いた。右手で抱えたかったが、その手を空けておかなければ次の棒を避けられなかった。
シグが棒を引く。床を擦った先端が、また荷台の縁へ載った。
今度は左足を動かそうとしていた。爪先が軌条に沿って震え、動かない。手元を引いて立ち直ろうとするたび、鉄の縁に掛かった棒が身体を支えた。
レンは縁を見た。
載っているだけだった。溝に嵌まってはいない。
「棒を、外へ落とす」
レンはガドへ言った。
隊長が一度だけ頷き、盾を棒の上へ被せた。シグが持ち上げようとして、左肩を沈める。足はまだついてこない。
レンは荷台の角に右の腰を当てた。膝で押さず、身体を預ける。空いた右手を、盾に押さえられた棒の横へ伸ばした。
指を下には入れなかった。
掌の付け根で横へ押す。ざらついた鉄が手袋を擦った。棒が縁を滑り、角を越えた。
支えを失った手元が下がった。
シグの上体が前へ倒れ、ガドの盾にぶつかった。その肩へ、横から回っていた隊員の索が掛かった。もう一人が後ろで索を取り、腕ごと胴へ引きつける。
棒はまだ左手にあった。
「放せ」
ガドが盾で肩を支えたまま言った。
シグの右足が床を蹴った。左足は遅れて折れ、身体が沈む。レンは棒の先を靴で押さえた。右膝を曲げず、荷台へ体重を逃がした。
シグが顔を上げた。
兜の奥の目が近かった。
「お前まで、こっちに残るぞ」
レンは答えを出せなかった。左手は、指一本も持ち上がらなかった。
隊員が棒を握る手へ布を巻き、指を一本ずつ外した。鋼棒が床に落ちた。ガドが足で遠ざける。
レンはようやく靴を退けた。
シグは横向きに座らされた。索は首へ掛けず、肘の上と胴で止められた。隊員が呼吸を確かめ、脚を軌条から外す。シグは一度、左肩を捻ったが、索が張ると動きを止めた。
「炉番を呼べ。救護の者もだ」
ガドの声がした。
レンは杖を置いた壁を見た。近いはずなのに、そこまでの床が広かった。
「座れ。もういい」
隊員が右肩を支えてくれた。レンは荷台の手前へ腰を下ろした。左腕が揺れ、声が漏れた。
鞘は閉じたままだった。腰の鉤も使っていない。
奥から来た炉番が閉鎖した保守口を確かめ、吊り具の切替を管理する者と短く言葉を交わした。
「弁は触られていない。核もそのままだ。防護の値も変わっていない」
ガドが聞き返し、同じ答えが返った。
レンは頭を壁へ預けた。
炉は動いていた。シグの胸も、索の内側で上下していた。
それを見てから、左腕へ目を落とした。割れた外板の隙間に、曲がった細い支えが見える。何をどこまで壊したのかは分からなかった。
手を上げようとした。
腕の奥が焼けるように痛んだだけで、指は床を離れなかった。




