第36話 門に背を向ける
工具包みは、締めると片側だけ膨らんだ。
レンは紐を解いた。伝令に出た隊員から預かった柄が、計器の箱に当たっている。向きを変えようとした左指が滑り、工具は布の上に落ちた。
「そっちは私がやる」
セナが膝をついた。
「数を読んで」
レンは紙を持ち直した。一本ずつ名前を読み、セナが布の区切りへ戻していく。取り外した環は別の小袋に入っていた。潰れた縁に黒い泥が残っている。
急いで歩かなければならない。その前に、ここで物をなくしてはいけなかった。
ミオは補修した継ぎ目へ乾いた布を当てていた。離して灯りにかざし、隊員に流量を読ませる。紙に書かれた前の値へ、レンも目を落とした。
「変わっていない」
「うん。もう一度、戻り側を見る」
ガドは戸口で、シグの消えた開口と詰所へ続く廊下を交互に見ていた。誰も男の名前を呼ばなかった。
継ぎ目を触るミオの手は遅く見えた。レンは口の中で、早くと言いかけた。
そこであの手が一つ確認を飛ばせば、帰ったあとにまた誰かがここへ来る。自分たちがいない炉の前で、何が起きたのか調べるところから始めることになる。
レンは次の工具の名を読んだ。
数え終わったところで、背後に小さな音がした。
盤の内側で何かが切り替わる、乾いた音だった。
「手を止めて」
ミオが言った。
誰も触っていない認証側の表示窓に、細い線が灯っていた。レンの手首は胸の前にあった。接続はしていない。
〈証印照合 三/三〉
〈門衛起動〉
最後の文字が残った。
レンは読み上げた。ガドが廊下から身を引き、盤を見た。
「門が開いたのか」
「接続の条件は、まだ出ていない」
レンは自分の視界を確かめた。新しく門を通れという表示はなかった。
ミオがまず幹線側の計器を指した。隊員が値を読み、切離し位置を確かめる。床溝を覆う板も、その下の切れた線も、先ほどのままだった。
「太い方へは流れていない。三炉をつないだ反応じゃない」
彼女は認証器の図を開いた。指が細い線を辿り、応答と書かれたところで止まった。
「照合の点検系から返ってきている。印が揃った知らせは、こっちを通る」
「止められるか」
ガドの問いに、ミオは首を振った。
「この表示を消しても、向こうが止まるとは言えない。ここには停止できると確認した操作がない」
レンは盤の光を見つめた。
門衛。開けるために止めなければならないものが、今は動いている。
どんな姿で、どちらを向いているのかは分からなかった。遠い足音も、戦う音も聞こえない。炉の低い響きと、紙を押さえるミオの爪の音だけがあった。
「受け取った文を写す。ほかは触らない」
ミオが言った。
レンは二行をもう一度読んだ。彼女が書いた文字と盤を見比べ、同じだと伝えた。
「戻って、これも知らせる」
ガドは廊下へ目を戻した。
レンは頷いた。門が動き始めたなら近くで確かめたいという気持ちは、まだあった。今なら見えるものがあるかもしれない。その間に第二炉で何かが起きても、ここからでは聞こえない。
工具の最後の一本を、セナへ渡した。
ミオは作業前に写した常用状態と、現在の位置を見比べた。補修した循環は安定したまま残す。取り付けた測定用の枝だけを、手順の順に切り離した。隊員が確認を返し、借りた計器が箱へ戻っていく。
認証の試験用操作を終え、口と接点に覆いを戻した。切れた幹線の保護は外さなかった。炉の冷却を丸ごと止めるために触れる者はいなかった。
「次に来た人が分かるように」
ミオは、交換した環と清掃した網の位置、最後の測定値を書いた札を点検簿の脇へ留めた。作業用の紙には同じ箇所へ印をつける。
持ち帰る紙の端に、まだ終わっていない仕事が並んでいた。
両端の切離し。支持部と線の交換。無負荷での測定。生活側の予備切替と避難。三炉の段階的な接続確認。
その下に、ミオが一行を加えた。
給電断後の門保持時間、未測定。
「これを抜かすと、帰り道のない場所で時間を当てにすることになる」
レンは紙を畳む手を見た。シグが待てなかった時間と、門の前で必要になる時間は、同じ紙に収まらなかった。
最後にミオと隊員が、互いの指す位置を確かめた。二人が道具を持って離れてから、ガドが五人を数えた。
詰所には、卓と椅子が残っていた。
セナが再生器の前で足を止めた。つまみは止めた位置にあり、差し込まれた媒体にも触れた跡は見えなかった。レンは後ろで待った。
彼女は胸の内側の袋を、服の上から押さえた。
「ある」
小さな声だった。
兄の名札のことだと分かった。セナは袋を開けず、再生器のつまみにも触れなかった。卓の角から自分の水筒を取り、肩紐を掛け直した。
壁の応答器には、エダの名が残っていた。返事のない呼び出しを完了させる者は、ここにはいない。ミオがその記録をしまったことを見届けて、レンは戸口を越えた。
消音した案内箱の灯りは点いていた。横穴の前では、ガドの手が上がった。
五人が止まる。
少し待っても、奥から音は来なかった。それでもガドは灯りを絞ったまま、一人ずつ通した。レンは杖を置く場所を探し、巻いた布が濡れた継ぎ目へ乗らないようにした。
外階段には、伝令が残した補助索があった。
レンはそれを見て、胸に溜めていた息を吐いた。ここまでは通った。その先で何があったかは、索からは分からない。
上りの途中で、右膝が震えた。
「止まる」
言ってから、足を同じ段へ揃えた。後ろの隊員も止まった。ガドが上から索を張り、セナは先の足場で道を見ていた。
伝令ならもう越えた階段だった。シグならどこかの壁を支えに進んでいる。レンは数を数えるほどの間、動かない脚を待った。
「行ける」
一段上がった。
地上へ出ると、灰色の明かりは低くなっていた。風が鎧の継ぎ目へ入り、炉のそばで温まっていた身体を冷やした。最後の隊員が索を回収する間に、ガドが工具の重さを分け直した。
レンには記録を包んだ薄い袋が渡された。留め紐を二度確かめ、胸へ寄せる。
セナが燈杭へ戻る道を指した。休める屋根の残った建物は、その途中にあった。そこまでの歩幅を、レンはガドへ伝えた。
背後の地下に三つ目の炉がある。さらに先には、動き始めたと知らされた門衛がいる。
レンは前を向いた。
まだ見えない燈杭には、第二炉の熱で夜を越す人がいる。今夜も替え布と食事を受け取るトワがいる。そこへ向かったシグを、通すわけにはいかなかった。
杖を一つ先へ置いた。五人の足音が、同じ道へ続いた。




