第34話 印を失った男
「一度だ」
ガドが言った。
シグは掌を引いた。縁に残った指先だけが二度、小さく滑った。盤の文字が消えても、レンの目には最後の一行が残っていた。
有効な通過認証なし。
ミオが盤の覆いを戻した。流量を読んでいた隊員へ目を向け、変わらないと聞いてから記録に短い線を引いた。
「燈杭でも、分かっていたのか」
レンは尋ねた。
シグは右手を左の掌で包んだ。
「あの盤は古かった」
「お前が触っても反応しなかった。俺には返事をした。接点のせいだと言った」
炉の低い音が続いていた。シグが手を強く挟むと、今度は左右の手が一緒に震えた。
「ここなら戻るかもしれんと思った」
「何が」
「俺の資格だ」
ガドが計器の前からシグを退かせた。出口側の壁に腰を下ろせる段があった。そこまでの数歩で左の爪先が床に引っかかり、シグは壁へ肘をついた。
誰も手を貸す前に、自分で脚を引き寄せた。
レンも杖をついて近づいた。立ったままでは右膝が熱くなる。通路を塞がないところで段に座ると、シグとの間には一人分ほどの隙間が残った。
「前は見えた。お前に見えている文字が」
シグはレンの顔ではなく、兜の縁を見た。
「錨炉へ触れろ。門を開けろ。まだ取っていない印の数も出た。途中から、何も出なくなった」
「いつから」
「怪我をしたあとだ」
淡い装甲の腹に、色の違う継ぎ板があった。シグはそこへ触れかけ、右手を膝に戻した。
「目が覚めた時には消えていた。暗くて読めないのかと思った。灯りの下へ出ても同じだった。そのあと、通ったことのある照合盤にも弾かれた」
レンは自分の左手首を見た。先ほどまで嵌めていた端子に、水気は残っていなかった。
「怪我で、なくなるのか」
「俺にはそうとしか分からん」
シグの声が硬くなった。
「傷を塞いで、動くように継いだ。それでも戻らなかった。何が切れたのか、誰も言えなかった」
ミオが顔を上げた。記録板を抱えたまま、二人から少し離れたところにいた。
「今の表示で分かるのは、今は有効な認証がないことだけ。中のどこが原因かは、私にも分からない」
「知っている」
シグは即座に言った。
レンの膝の中で、細い痛みが脈を打った。外から締め直してもらった場所より奥だった。シグも、こんなふうに痛む場所を指して、何度も説明したのかもしれない。
「それで、俺を第一炉へ連れていったのか」
「ああ」
答えは短かった。
「お前ならまだ読める。錨核も受け付ける。新しい渡界者が落ちてきたと聞いた時から、確かめるつもりだった」
レンは杖の柄を握り直した。
教わった足場も、敵の避け方も役に立った。最初の炉へ一人で辿り着けたとは思わない。その道の先でシグが見ていたものを、今になってようやく聞いていた。
「俺が門を開けたら」
「続いて通る」
「お前の資格はないんだろう」
「門が開いている間に、お前と一緒に入る。そこでもう一度照合されるかどうか、試した者の記録はない」
「通れるという記録もない」
ミオが言った。
「そうだ」
シグは否定しなかった。
ガドが入口の隊員へ片手を上げた。隊員は廊下を確かめてから元の位置に戻った。炉の音の下に、遠い金属音が一つ混じった。レンたちは黙って、その次を待った。二度目は来なかった。
「俺が先に消えたら、どうする」
レンは声を落とした。
「閉じる門に残されたら。お前だけ弾かれたら」
「だから離れずに行く」
「答えになっていない」
「他にあるか」
シグの右手が段を叩いた。強い音にはならなかった。指が揃わず、手の縁だけが石に当たった。
シグはその手を見下ろした。
「昨日は、水場から戻る途中で脚が動かなかった。壁があるところだったから待てた。次も壁があるとは限らん」
レンは口を開きかけたが、言葉を選べなかった。
「指もだ。握ったつもりで落とす。お前たちが帰ったあと、袋の口を縛るだけで腹が立った。腹を立てても閉まらん」
膝の上の右手は、親指だけを人差し指へ寄せようとしていた。間に細い隙間が残った。シグは途中でやめて、拳の形を左手で作った。
「燈杭へ戻れば、休ませる場所はある」
ガドが言った。
「診せてから次を決めろ」
「また待てと言われる」
「歩けなくなるまでここにいるよりはいい」
「休んでいる間に動かなくなるものもある」
声は荒くなかった。それがレンには、怒鳴られるより近く聞こえた。
ミオが記録板を下ろした。
「外から分かるところは調べられる。こすれている所や、緩んだ継ぎ目なら」
「それは何度もやった」
「直るとは言っていない。でも、今どこまで動くかを見ずに歩かせるつもりもない」
シグは答えなかった。腰の水筒を取り、留め紐を左手で解いた。右手へ持ち替えようとしてやめ、そのまま左手で持ち上げた。
レンはその動きを最後まで見ていた。
「向こうなら直せると思っているのか」
「この鎧を作った場所が、どこかにある」
「門はそこへ行くとは書いてなかった」
「ここへ落ちてきた物だ。ここにない道具も、向こうにはあるかもしれん」
水筒の底が石に当たった。
「次の場所になければ、その次へ行く」
レンには、雨に濡れたホームが浮かびかけた。雨の音だけが先に戻り、顔も道も続かなかった。自分も、あるかどうか分からない帰り道を追ってここまで来た。
だからこそ、あると言ってやれなかった。
「俺も帰れるか分からない」
「分からなくても開けるんだろう」
シグが顔を向けた。
レンは頷くまでに息を一つ使った。
「開けるつもりだ」
「なら、同じだ」
シグが立とうとした。右足だけが先に踏ん張り、腰が傾いた。レンは杖を持たない左手を出したが、その腕に体重を受ける前にガドがシグの肩を支えた。
「座っていろ」
シグはガドの手を払わず、段へ戻った。
ミオが計器へ向かった。隊員の紙を受け取り、直前の数値と指で比べた。工具包みの横には、使わずに済んだ予備の座面が布に包まれていた。あれも持ち帰らなければならない。
シグは床溝を見ていた。
切れた線の端は覆われたままだった。先まで交換する線材は、ここにはなかった。
「これを直すのに、あと何度往復する」
レンはミオの背を見た。
「確かめる場所が残っている」
「そのたびに今日のように冷めるのを待ち、測って、戻るのか」
レンが返す前に、シグは水筒を袋へ押し込んだ。紐は結ばなかった。
「俺は工事が終わるまで待てない」
顔を上げる。兜の奥の目は、レンから動かなかった。
「第二炉へ戻るぞ。あそこの錨核を運ぶ準備をしろ」




