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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第3章 死者の回路
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第34話 印を失った男

「一度だ」


 ガドが言った。


 シグは掌を引いた。縁に残った指先だけが二度、小さく滑った。盤の文字が消えても、レンの目には最後の一行が残っていた。


 有効な通過認証なし。


 ミオが盤の覆いを戻した。流量を読んでいた隊員へ目を向け、変わらないと聞いてから記録に短い線を引いた。


「燈杭でも、分かっていたのか」


 レンは尋ねた。


 シグは右手を左の掌で包んだ。


「あの盤は古かった」


「お前が触っても反応しなかった。俺には返事をした。接点のせいだと言った」


 炉の低い音が続いていた。シグが手を強く挟むと、今度は左右の手が一緒に震えた。


「ここなら戻るかもしれんと思った」


「何が」


「俺の資格だ」


 ガドが計器の前からシグを退かせた。出口側の壁に腰を下ろせる段があった。そこまでの数歩で左の爪先が床に引っかかり、シグは壁へ肘をついた。


 誰も手を貸す前に、自分で脚を引き寄せた。


 レンも杖をついて近づいた。立ったままでは右膝が熱くなる。通路を塞がないところで段に座ると、シグとの間には一人分ほどの隙間が残った。


「前は見えた。お前に見えている文字が」


 シグはレンの顔ではなく、兜の縁を見た。


「錨炉へ触れろ。門を開けろ。まだ取っていない印の数も出た。途中から、何も出なくなった」


「いつから」


「怪我をしたあとだ」


 淡い装甲の腹に、色の違う継ぎ板があった。シグはそこへ触れかけ、右手を膝に戻した。


「目が覚めた時には消えていた。暗くて読めないのかと思った。灯りの下へ出ても同じだった。そのあと、通ったことのある照合盤にも弾かれた」


 レンは自分の左手首を見た。先ほどまで嵌めていた端子に、水気は残っていなかった。


「怪我で、なくなるのか」


「俺にはそうとしか分からん」


 シグの声が硬くなった。


「傷を塞いで、動くように継いだ。それでも戻らなかった。何が切れたのか、誰も言えなかった」


 ミオが顔を上げた。記録板を抱えたまま、二人から少し離れたところにいた。


「今の表示で分かるのは、今は有効な認証がないことだけ。中のどこが原因かは、私にも分からない」


「知っている」


 シグは即座に言った。


 レンの膝の中で、細い痛みが脈を打った。外から締め直してもらった場所より奥だった。シグも、こんなふうに痛む場所を指して、何度も説明したのかもしれない。


「それで、俺を第一炉へ連れていったのか」


「ああ」


 答えは短かった。


「お前ならまだ読める。錨核も受け付ける。新しい渡界者が落ちてきたと聞いた時から、確かめるつもりだった」


 レンは杖の柄を握り直した。


 教わった足場も、敵の避け方も役に立った。最初の炉へ一人で辿り着けたとは思わない。その道の先でシグが見ていたものを、今になってようやく聞いていた。


「俺が門を開けたら」


「続いて通る」


「お前の資格はないんだろう」


「門が開いている間に、お前と一緒に入る。そこでもう一度照合されるかどうか、試した者の記録はない」


「通れるという記録もない」


 ミオが言った。


「そうだ」


 シグは否定しなかった。


 ガドが入口の隊員へ片手を上げた。隊員は廊下を確かめてから元の位置に戻った。炉の音の下に、遠い金属音が一つ混じった。レンたちは黙って、その次を待った。二度目は来なかった。


「俺が先に消えたら、どうする」


 レンは声を落とした。


「閉じる門に残されたら。お前だけ弾かれたら」


「だから離れずに行く」


「答えになっていない」


「他にあるか」


 シグの右手が段を叩いた。強い音にはならなかった。指が揃わず、手の縁だけが石に当たった。


 シグはその手を見下ろした。


「昨日は、水場から戻る途中で脚が動かなかった。壁があるところだったから待てた。次も壁があるとは限らん」


 レンは口を開きかけたが、言葉を選べなかった。


「指もだ。握ったつもりで落とす。お前たちが帰ったあと、袋の口を縛るだけで腹が立った。腹を立てても閉まらん」


 膝の上の右手は、親指だけを人差し指へ寄せようとしていた。間に細い隙間が残った。シグは途中でやめて、拳の形を左手で作った。


「燈杭へ戻れば、休ませる場所はある」


 ガドが言った。


「診せてから次を決めろ」


「また待てと言われる」


「歩けなくなるまでここにいるよりはいい」


「休んでいる間に動かなくなるものもある」


 声は荒くなかった。それがレンには、怒鳴られるより近く聞こえた。


 ミオが記録板を下ろした。


「外から分かるところは調べられる。こすれている所や、緩んだ継ぎ目なら」


「それは何度もやった」


「直るとは言っていない。でも、今どこまで動くかを見ずに歩かせるつもりもない」


 シグは答えなかった。腰の水筒を取り、留め紐を左手で解いた。右手へ持ち替えようとしてやめ、そのまま左手で持ち上げた。


 レンはその動きを最後まで見ていた。


「向こうなら直せると思っているのか」


「この鎧を作った場所が、どこかにある」


「門はそこへ行くとは書いてなかった」


「ここへ落ちてきた物だ。ここにない道具も、向こうにはあるかもしれん」


 水筒の底が石に当たった。


「次の場所になければ、その次へ行く」


 レンには、雨に濡れたホームが浮かびかけた。雨の音だけが先に戻り、顔も道も続かなかった。自分も、あるかどうか分からない帰り道を追ってここまで来た。


 だからこそ、あると言ってやれなかった。


「俺も帰れるか分からない」


「分からなくても開けるんだろう」


 シグが顔を向けた。


 レンは頷くまでに息を一つ使った。


「開けるつもりだ」


「なら、同じだ」


 シグが立とうとした。右足だけが先に踏ん張り、腰が傾いた。レンは杖を持たない左手を出したが、その腕に体重を受ける前にガドがシグの肩を支えた。


「座っていろ」


 シグはガドの手を払わず、段へ戻った。


 ミオが計器へ向かった。隊員の紙を受け取り、直前の数値と指で比べた。工具包みの横には、使わずに済んだ予備の座面が布に包まれていた。あれも持ち帰らなければならない。


 シグは床溝を見ていた。


 切れた線の端は覆われたままだった。先まで交換する線材は、ここにはなかった。


「これを直すのに、あと何度往復する」


 レンはミオの背を見た。


「確かめる場所が残っている」


「そのたびに今日のように冷めるのを待ち、測って、戻るのか」


 レンが返す前に、シグは水筒を袋へ押し込んだ。紐は結ばなかった。


「俺は工事が終わるまで待てない」


 顔を上げる。兜の奥の目は、レンから動かなかった。


「第二炉へ戻るぞ。あそこの錨核を運ぶ準備をしろ」


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