第3話 生きた荷物
盾の下端が、地面に突き立った。
鉄を擦る音がして、敵の前脚が横へ押しやられた。レンの握る索が一瞬緩んだ。
「手を離せ。今だ」
指が開かなかった。離せばあの棒が戻ってくる。そう思っている間にも、盾はゆっくり押し返されていた。
「そいつを引いていると、出られんぞ」
レンは索を放した。
黒い線が灰の上を走った。敵が脚を引き抜き、入口の外で盾を叩く。レンは胸の脇の刀を拾い、反対側の明かりへ肘を進めた。
右膝を引くたびに息が途切れた。もう少しの距離が縮まらない。肩が外へ出たところで、厚い手袋が左腕をつかんだ。
「刃を下へ向けて」
若い声だった。レンは刀の先を地面へ伏せた。脇へもう一本の腕が入り、身体を引かれた。膝が車体の縁を擦ったとき、声を抑えられなかった。
「脚、悪いんだね。こっちに預けて」
短く切った髪に灰をつけた少女が、レンの左脇を支えていた。首には薄い布を何重にも巻き、腰の小袋には金属片が詰まっている。少女は背後の柱を見て、わずかに位置を変えた。
「その脚で立たないで。左だけ」
レンは左足を踏ん張った。肩を借りると、少女の身体が一度沈んだ。それでも手は離れなかった。柱までの数歩を、ほとんど引きずられて進んだ。
車体の向こうから盾の男が後退してきた。
顎に短い灰色の髭があり、右の頬に古い引き攣れがあった。男は盾を胸の高さに保ち、敵に正面を向けたまま柱の手前を横切った。敵が四本の脚を広げて追う。
柱の反対側にいた別の男が、低く索を投げた。
輪が前脚を越えて地面へ落ちる。盾の男が一歩だけ近づき、敵の棒を斜めに受けた。打ち込んだ脚が地面へ戻った瞬間、輪が締まった。
「回せ」
索を持つ男が柱の背後へ走った。盾の男も同じ側へ退く。柱を回った索が張り、敵の前脚が内側へ引かれた。鉄の胴が傾き、下がった縁に盾が当たった。
人の指が、何もない空を掻いた。
索は柱の根元の金具に留められた。敵が身を捩るたびに金具が鳴ったが、柱は動かなかった。
レンは刀を握り直した。今なら、あの穴を突けるかもしれない。
「置いていくのか」
「そうだ」
盾の男は敵を見ず、後ろの道を確かめていた。
「まだ動いてる」
「だから離れる」
少女が高架の隙間を指した。
「ガド。西の板、閉じた」
レンにも、遠くの柱に白い四角が見えた。次の瞬間、それが細くなって消えた。
「静刻に入る。セナ、下の道だ」
ガドと呼ばれた男が言った。
少女は頷くと、レンを柱にもたせ、車体の方へ走った。反対側から低い隙間に身を滑らせ、すぐに戻ってくる。手には、レンの鉤付きの索があった。
「底の輪から外した。あれの脚からは抜けてたよ」
少女は絡んだ索を肩に掛けた。代わりにガドがレンの前へ屈んだ。盾の縁に新しい傷が走っていた。
「言葉は分かるな。手を上げたら止まれ。伏せろと言ったら伏せろ。できるか」
レンは頷いた。
「刀も預かる」
差し出された掌を見た。刀を渡せば、もう何もできない気がした。ここにいる人間が何者なのか、レンは知らない。
背後で敵が声を出した。
「たす、けて」
レンは柄から目を離せなくなった。
「あれも、しゃべった」
「骸機だ。声につられて近づいたのか」
頷く代わりに、レンは刀を少し持ち上げた。柄を相手へ向けた。ガドは受け取り、腰の鞘へ収めてから、鞘ごと留め具を外した。
「お前は、こちらの言葉を聞いて手を止めた」
刀を自分の帯へ差し、ガドは立った。
「置いてはいかん。勝手に動くな」
柱の陰には、低い二輪の荷車があった。男二人が積んでいた歯車や管を下ろし、背負い袋へ分けている。積み切れない鉄片は、柱際へ寄せられた。
「待ってくれ。歩ける」
レンは左足で身体を起こした。右の足裏をつけた途端、膝が抜けかけた。ガドに腕をつかまれなければ、そのまま倒れていた。
「歩けない荷物を歩かせるほど暇じゃない」
敷かれた布の上へ座らされた。ガドは丸めた袋を右脚の下に挟み、膝が揺れない位置を探した。触れる前に「上げるぞ」と言った。レンは唇を噛んで頷いた。
セナが索をまとめ、刀と同じくガドに渡した。さらに工具の束を布で包み、荷車の留め具の間にも小さな布を詰めた。
「静刻って、何だ」
「骸機が音を拾いやすくなる時間」
答えたセナは、もう口を布で覆っていた。
「さっきみたいに鉄を鳴らすと、あれだけじゃ済まない。話すなら小さくね」
彼女は下ろした荷のそばで足を止めた。灰に埋もれた、細長い板を拾う。親指で表面を拭い、工具とは別の袋へ入れた。レンが見ているのに気づくと、袋の口を押さえた。
「これは軽いから」
何の板か聞く前に、荷車が動き出した。
車輪の下で灰が潰れる音がした。引く男と後ろを支える男が、段差のたびに速度を落とす。セナは先へ行き、手のひらを下へ向けて道を示した。ガドが最後尾についた。
柱の向こうで索の金具が鳴った。
誰も振り返らなかった。
高架の下には、上からは見えなかった細い道があった。崩れた床の縁を回り、支柱の根元を抜けていく。ところどころに掘られた穴の入口には、擦れた布が垂れていた。
セナが手を上げた。
荷車が止まる。レンも身体を固くした。前にいる男の背中越しに、少女がゆっくり膝を折るのが見えた。
上で何かが歩いていた。
軽い爪音が二つ、少し離れてもう二つ。時々止まり、同じ場所を擦る。レンは息を細く吐いた。兜の内側では、その音さえ大きかった。
ガドの手が肩に触れた。押さえつけるほど強くはない。レンが見上げかけると、指に少し力が入った。
動くなという意味だった。
右膝が脈打った。位置を変えたかった。喉も渇いていた。レンは左の掌を布へ押しつけたまま、爪音が遠のくのを待った。
長い間を置いて、セナが手を下ろした。
荷車がまた動いたとき、レンはようやく肩の力を抜いた。
歩けると言わなければよかった、と思った。あの場で立ち続けていたら、まだ車体のそばにいた。上のものも、そこへ来たのだろうか。
前の男の襟は汗で濡れていた。荷車へ場所を空けるために増えた荷が、背中で膨らんでいる。
礼を言おうとして、口を閉じた。今は黙っている方がいい。代わりに、荷台が傾いても腕を伸ばさず、渡された布の端を握った。
何度か止まり、暗い切通しを抜けると、油とは違う臭いがした。
湿った土と、何かを煮た匂いだった。
細い蒸気が壁の継ぎ目から流れていた。見上げると、積み重ねた鉄板と石の上に灯りがあり、その前を黒い板が横切った。セナが道端の紐を二度引く。近くの小さな遮光板が開閉し、上の灯りが短く応じた。
壁の中で、重いものが動いた。
「燈杭だ」
ガドが低く言った。
「着くまで寝なかったな」
レンは返事をしようとして、うまく声が出なかった。誰かが火を使っている。その近くまで来たのだと分かった途端、身体がひどく重くなった。
開きかけた門から、暖かな空気が流れてきた。
男が二人、槍を持って立っていた。一人が荷車を覗き、レンの兜を見た。視線が肩へ、黒い指へ移った。
「ガド。その荷は何だ」
「生きてる」
ガドが荷車の脇へ出た。
「自分で話せる。槍を引け」
レンは両手を布から離し、相手に見えるところへ置いた。
門は人ひとりが通れる幅まで開いていた。
槍の先は、まだ彼の胸を向いていた。




