第2話 踏み込んだ足
指が地面を掻いた。
二本の脚に引かれて、平たい胴が車体の下から滑り出した。人の胸ほどの幅がある鉄の箱。その側面から、折り畳まれていた脚がもう二本開く。腹の下には黒ずんだ布のようなものが垂れ、灰を擦っていた。
レンは一歩退いた。
箱の前面に、縦に並んだ穴があった。穴の奥で濡れたものが震えた。
「たす、けて」
声に合わせて、その膜が膨らんだ。中に誰かがいるのかと思った。だが穴の向こうはすぐ金属の壁で、人の頭が入る隙間などなかった。
前脚の一本が浮いた。
指が折り込まれ、手首に当たる部分がこちらを向く。そこから突き出していた細い棒に、レンは初めて気づいた。先端だけが灰に汚れていない。
腰が引けた。
その動きに重なって、膝の裏が強く唸った。
身体が左へ跳んだ。右肩のすぐ脇を棒が抜け、背後の車体に穴が開いた。耳元で金属が裂ける音がして、レンは反対側の車体へ肩をぶつけた。息を呑んだまま、足だけは地面に残っていた。
避けた。
あの距離から、避けられた。
腕も脚も、さっきより軽く感じた。左腰の柄に右手を掛ける。刃を抜き切るまで一度も引っかからなかったことが、不意に心強かった。
敵は刺した棒を抜こうとしていた。脚を縮めるたびに車体が鳴る。二歩ほどの距離に、鉄の胴が斜めに傾いていた。
今なら届く。
レンは右足を出した。
足裏が薄板の中央に載った。灰が小さく跳ね、板が沈んだ。体重を戻すより早く、縁の錆が帯になって剥がれた。
右脚が膝まで落ちた。
足先が下の鉄枠に挟まったまま、身体だけが前へ進んだ。膝の外側を穴の縁が打ち、黒い板が一枚、浮いた。腿の内側で何かが引き絞られた。
痛みが来た瞬間、喉から短い声が漏れた。
右膝を戻そうとした。内側の機械が唸り、脚を伸ばしかけたが、半ばで硬く止まった。痛みがもう一段深くなった。目の前が白く滲み、レンは左手を板について身体を支えた。
さっき、この下が空洞だと分かっていた。
前で金属が外れる音がした。
敵の脚が車体から抜けた。棒の先が低く下がり、レンの顔へ向いた。
抜かなければ。
左手で板を押し、腰を後ろへ引いた。右足が枠から外れるまでのわずかな動きで、胃が縮んだ。脚を引きずり出したときには、敵の前脚が持ち上がっていた。
レンは刀を振った。
棒を払うつもりだった。刃はその付け根の丸い覆いに当たり、甲高い音を立てて滑った。手首が外へ持っていかれ、柄が掌の中でずれた。
止まらない。
敵の脚が胸を突いた。黒い装甲の上で先端が逸れ、レンは背中から左の車体へ叩きつけられた。息が全部押し出された。もう一度吸おうとしても、喉が開かなかった。
胸に刃が入った感触はない。それなのに、胸骨の奥が焼けるように痛んだ。
身体がずり落ちる。左肘で地面を押した。刀を握る右手が震え、刃の中ほどにできた小さな欠けが、灰色の空を透かした。
敵の覆いには、浅い銀色の筋があるだけだった。
「待て」
掠れた声が出た。
四本の脚が、順に地面をつかんだ。
「たす、けて」
同じ高さ、同じ切れ目だった。目の前でレンが倒れていても、その声は変わらなかった。
刀を向けても止まらない。言葉も届かない。
レンは左肘を引いた。肩の後ろに、空間があった。左側の車体は大きな車輪を残したまま傾き、底と地面の間に低い隙間ができている。奥は反対側まで薄く明るかった。
入れるか。
兜が通る高さはある。胸がつかえたら終わる。
棒が振り下ろされた。
レンは左肩から隙間へ倒れ込んだ。すぐ脇の鉄板を棒が貫いた。浮いた板の端が兜を擦り、耳の中に長い音が残った。
左足で地面を押した。右脚が引かれ、膝にまた痛みが走る。止まれば足をつかまれる。歯を食いしばり、腰を捻って鞘を通した。
車体の腹が胸の装甲を削った。
あと少し。もう一度、左足で押す。
右の踵が隙間へ入った直後、指が地面を叩いた。
人の手が、膝の先にあった。皮膚の裂け目に灰が入り込み、折れた爪が鎧の脛を掻いた。レンは左の踵でその手を蹴った。柔らかなものを踏んだ感触の下に、硬い芯があった。
手は引っ込んだ。
敵の胴は入口につかえた。車体が軋み、上から乾いた錆が降ってくる。レンは刀を寝かせて胸の脇へ寄せ、右肘で少しずつ身体を送った。
向こう側に、高架の太い柱が見えた。柱の手前は車体のない地面だった。そこへ出れば立てるかもしれない。
右脚を少し曲げてみた。
膝の裏から、細かな歯が擦れ合うような音がした。曲がり始めたところで止まり、内側に鋭い痛みが残った。
走れない。
ここから出ても、追いつかれる。
後ろで車体が持ち上がった。ほんの指一本分だったが、光の線が太くなった。前脚の棒が、今度は隙間に沿って入ってきた。先端が右の踵を擦り、地面に溝を引いた。
レンは腰の索をつかんだ。
鉤の留めを外そうとして、二度指が滑った。ようやく外れた鉤を引くと、巻かれた索がほどけ、腹の上を冷たく横切った。
何に掛ければいい。
手の届く上に車軸があった。索を回す隙間はない。近くの底板には、配管を留めていたらしい輪が残っていた。
鉤をその輪に押し込んだ。一つの爪が掛かった。軽く引くと輪は動かなかった。残りの索を左手にまとめ、入口を見た。
脚が伸びてくる。棒の先が地面を擦り、次に浮く。
レンは索を持つ手を向こう側へ回そうとしたが、届かなかった。指が棒に触れそうになり、慌てて引いた。車体の下では腕を振る場所さえない。
次の突きを待った。
逃げたいのに、待たなければならなかった。
棒が膝の横へ突き出されたとき、レンは索のたるみをその上へ落とした。引き戻される脚の折れ目に索が掛かる。両手で握って引いた。
鉤から脚を回り、手元まで、索が張った。
肩が前へ持っていかれた。肘を地面へ押しつけ、左足を車輪の内側に突っ張った。膝を庇う余裕はなかった。敵が引くたびに、身体ごと入口へずれた。
上で、輪の根元が鳴った。
止めているのではない。壊れるまでの時間が、少し延びただけだった。
右手を持ち替えようとして、索を落としかけた。掌の金属板が擦れ合う。息が熱い。兜の奥に籠もり、吸っても吸っても足りなかった。
何か言えば、あの文字が助けてくれるだろうか。
視界の端には、門の方角を示す印が残っていた。そちらを向くことさえできなかった。
車体の外で、石を踏む音がした。
一度、間を置いて、もう一度。敵の指が立てる湿った音とは違っていた。
「下にいる。黒いのだ」
知らない声だった。
レンは顔を上げかけた。索がさらに引かれ、肩に痛みが走る。敵の脚の向こうで、靴底が灰を押し分けた。
「こっちを見るな。柱の裏へ退け」
低い声が飛んだ。
入口の光を、幅広い鉄の盾が遮った。




