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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第1章 黒い目覚め
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第2話 踏み込んだ足

 指が地面を掻いた。


 二本の脚に引かれて、平たい胴が車体の下から滑り出した。人の胸ほどの幅がある鉄の箱。その側面から、折り畳まれていた脚がもう二本開く。腹の下には黒ずんだ布のようなものが垂れ、灰を擦っていた。


 レンは一歩退いた。


 箱の前面に、縦に並んだ穴があった。穴の奥で濡れたものが震えた。


「たす、けて」


 声に合わせて、その膜が膨らんだ。中に誰かがいるのかと思った。だが穴の向こうはすぐ金属の壁で、人の頭が入る隙間などなかった。


 前脚の一本が浮いた。


 指が折り込まれ、手首に当たる部分がこちらを向く。そこから突き出していた細い棒に、レンは初めて気づいた。先端だけが灰に汚れていない。


 腰が引けた。


 その動きに重なって、膝の裏が強く唸った。


 身体が左へ跳んだ。右肩のすぐ脇を棒が抜け、背後の車体に穴が開いた。耳元で金属が裂ける音がして、レンは反対側の車体へ肩をぶつけた。息を呑んだまま、足だけは地面に残っていた。


 避けた。


 あの距離から、避けられた。


 腕も脚も、さっきより軽く感じた。左腰の柄に右手を掛ける。刃を抜き切るまで一度も引っかからなかったことが、不意に心強かった。


 敵は刺した棒を抜こうとしていた。脚を縮めるたびに車体が鳴る。二歩ほどの距離に、鉄の胴が斜めに傾いていた。


 今なら届く。


 レンは右足を出した。


 足裏が薄板の中央に載った。灰が小さく跳ね、板が沈んだ。体重を戻すより早く、縁の錆が帯になって剥がれた。


 右脚が膝まで落ちた。


 足先が下の鉄枠に挟まったまま、身体だけが前へ進んだ。膝の外側を穴の縁が打ち、黒い板が一枚、浮いた。腿の内側で何かが引き絞られた。


 痛みが来た瞬間、喉から短い声が漏れた。


 右膝を戻そうとした。内側の機械が唸り、脚を伸ばしかけたが、半ばで硬く止まった。痛みがもう一段深くなった。目の前が白く滲み、レンは左手を板について身体を支えた。


 さっき、この下が空洞だと分かっていた。


 前で金属が外れる音がした。


 敵の脚が車体から抜けた。棒の先が低く下がり、レンの顔へ向いた。


 抜かなければ。


 左手で板を押し、腰を後ろへ引いた。右足が枠から外れるまでのわずかな動きで、胃が縮んだ。脚を引きずり出したときには、敵の前脚が持ち上がっていた。


 レンは刀を振った。


 棒を払うつもりだった。刃はその付け根の丸い覆いに当たり、甲高い音を立てて滑った。手首が外へ持っていかれ、柄が掌の中でずれた。


 止まらない。


 敵の脚が胸を突いた。黒い装甲の上で先端が逸れ、レンは背中から左の車体へ叩きつけられた。息が全部押し出された。もう一度吸おうとしても、喉が開かなかった。


 胸に刃が入った感触はない。それなのに、胸骨の奥が焼けるように痛んだ。


 身体がずり落ちる。左肘で地面を押した。刀を握る右手が震え、刃の中ほどにできた小さな欠けが、灰色の空を透かした。


 敵の覆いには、浅い銀色の筋があるだけだった。


「待て」


 掠れた声が出た。


 四本の脚が、順に地面をつかんだ。


「たす、けて」


 同じ高さ、同じ切れ目だった。目の前でレンが倒れていても、その声は変わらなかった。


 刀を向けても止まらない。言葉も届かない。


 レンは左肘を引いた。肩の後ろに、空間があった。左側の車体は大きな車輪を残したまま傾き、底と地面の間に低い隙間ができている。奥は反対側まで薄く明るかった。


 入れるか。


 兜が通る高さはある。胸がつかえたら終わる。


 棒が振り下ろされた。


 レンは左肩から隙間へ倒れ込んだ。すぐ脇の鉄板を棒が貫いた。浮いた板の端が兜を擦り、耳の中に長い音が残った。


 左足で地面を押した。右脚が引かれ、膝にまた痛みが走る。止まれば足をつかまれる。歯を食いしばり、腰を捻って鞘を通した。


 車体の腹が胸の装甲を削った。


 あと少し。もう一度、左足で押す。


 右の踵が隙間へ入った直後、指が地面を叩いた。


 人の手が、膝の先にあった。皮膚の裂け目に灰が入り込み、折れた爪が鎧の脛を掻いた。レンは左の踵でその手を蹴った。柔らかなものを踏んだ感触の下に、硬い芯があった。


 手は引っ込んだ。


 敵の胴は入口につかえた。車体が軋み、上から乾いた錆が降ってくる。レンは刀を寝かせて胸の脇へ寄せ、右肘で少しずつ身体を送った。


 向こう側に、高架の太い柱が見えた。柱の手前は車体のない地面だった。そこへ出れば立てるかもしれない。


 右脚を少し曲げてみた。


 膝の裏から、細かな歯が擦れ合うような音がした。曲がり始めたところで止まり、内側に鋭い痛みが残った。


 走れない。


 ここから出ても、追いつかれる。


 後ろで車体が持ち上がった。ほんの指一本分だったが、光の線が太くなった。前脚の棒が、今度は隙間に沿って入ってきた。先端が右の踵を擦り、地面に溝を引いた。


 レンは腰の索をつかんだ。


 鉤の留めを外そうとして、二度指が滑った。ようやく外れた鉤を引くと、巻かれた索がほどけ、腹の上を冷たく横切った。


 何に掛ければいい。


 手の届く上に車軸があった。索を回す隙間はない。近くの底板には、配管を留めていたらしい輪が残っていた。


 鉤をその輪に押し込んだ。一つの爪が掛かった。軽く引くと輪は動かなかった。残りの索を左手にまとめ、入口を見た。


 脚が伸びてくる。棒の先が地面を擦り、次に浮く。


 レンは索を持つ手を向こう側へ回そうとしたが、届かなかった。指が棒に触れそうになり、慌てて引いた。車体の下では腕を振る場所さえない。


 次の突きを待った。


 逃げたいのに、待たなければならなかった。


 棒が膝の横へ突き出されたとき、レンは索のたるみをその上へ落とした。引き戻される脚の折れ目に索が掛かる。両手で握って引いた。


 鉤から脚を回り、手元まで、索が張った。


 肩が前へ持っていかれた。肘を地面へ押しつけ、左足を車輪の内側に突っ張った。膝を庇う余裕はなかった。敵が引くたびに、身体ごと入口へずれた。


 上で、輪の根元が鳴った。


 止めているのではない。壊れるまでの時間が、少し延びただけだった。


 右手を持ち替えようとして、索を落としかけた。掌の金属板が擦れ合う。息が熱い。兜の奥に籠もり、吸っても吸っても足りなかった。


 何か言えば、あの文字が助けてくれるだろうか。


 視界の端には、門の方角を示す印が残っていた。そちらを向くことさえできなかった。


 車体の外で、石を踏む音がした。


 一度、間を置いて、もう一度。敵の指が立てる湿った音とは違っていた。


「下にいる。黒いのだ」


 知らない声だった。


 レンは顔を上げかけた。索がさらに引かれ、肩に痛みが走る。敵の脚の向こうで、靴底が灰を押し分けた。


「こっちを見るな。柱の裏へ退け」


 低い声が飛んだ。


 入口の光を、幅広い鉄の盾が遮った。

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