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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第1章 黒い目覚め
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第1話 灰の底で目を開く

 雨が、黄色い線を叩いていた。


 ホームの端で振り返った。誰かが廉、と呼んだからだ。濡れた靴底がわずかに滑った。その先を思い出そうとすると、名前の最後の一音だけが耳に残った。


 次に頬を押していたのは、硬いものだった。


 レンは息を吸い、咳き込んだ。腐った油の臭いが鼻の奥へ入り込む。舌に酸っぱい味がした。吐き出そうと口を動かすと、唇のすぐ前で息が跳ね返った。


 目を開けた。


 横倒しの車輪があった。輪の半分は灰に埋まり、軸から垂れた黒い滴が、一定の間隔で地面を打っている。その向こうに別の車輪、その先に窓のない車体。積み重なった鉄の隙間から、空が細く見えた。朝とも夕方ともつかない、汚れた灰色だった。


 起き上がろうとして手をついた。


 指が黒かった。


 五本とも、節ごとに細い金属板で覆われている。握ると板が重なり、開くと隙間が伸びた。掌の下の鉄板が冷たい。手袋越しに触れているはずなのに、裏側の錆のざらつきまで分かる。


 レンは片手でもう片方の手首をつかんだ。外せる縁を探し、爪のあるはずの指先を差し込もうとした。継ぎ目はあっても、指は入らなかった。


 肘、胸、腹にも同じ黒い板が続いていた。肩から垂れる幾重もの装甲。その下で、脇腹に沿った細い部材が呼吸に合わせて動く。


「なんだ、これ」


 声が低く籠もった。


 両手を顔へ持っていった。額も頬も硬い。顎の下を探り、首の後ろへ手を回しても、紐も留め金もない。頭をすっぽり包んだ何かが、首の装甲につながっていた。


 引いた。首に痛みが走った。


 もう一度引くと、喉の奥が詰まった。レンは手を離し、息を継いだ。外れない。外そうとする力が、そのまま自分の身体へ返ってくる。


 どこかで薄板が鳴った。


 顔を上げる。斜面に積まれた車体の上を、細かな灰が流れていた。風に押された板が端を持ち上げ、落ちた。ほかに動くものは見えない。


「誰か」


 声は近くの車体にぶつかって戻った。


 レンは片膝を立てた。足を踏ん張るより先に、膝の裏で小さく何かが唸った。腰が持ち上がり、予想したより容易に立ててしまう。身体が前へ流れ、慌てて車輪につかまった。


 腕の内側でも同じ音がした。


 しばらく待ってから、手を離した。動かなければ音もしない。膝を少し曲げると、今度は低い振動が腿を伝わった。誰かに内側から脚を押されているようだった。


 左腰に鞘があった。


 柄を握って指一本分だけ抜く。片側に刃のついた、鈍い銀色が現れた。すぐに戻した。右腰には細い黒い索が巻かれ、その端を三つに分かれた鉤が留めていた。


 こんなものを身につけた覚えはない。


 携帯を探そうとして、胸から腰までを撫でた。ポケットはなかった。財布も、鍵もない。指先に当たるのは金属ばかりだった。


 足元に水が溜まっていた。ひしゃげた車体の屋根が皿になり、油膜の縁に灰が固まっている。


 レンはそこへ屈んだ。


 黒い武者が、下から覗き返してきた。


 兜は額から鼻先へ鋭く張り出し、頬を覆う板は顎に向かって細く重なっていた。人の顔と呼べる部分はどこにもない。目の位置だけが横に切れ、奥に二つ、白い光があった。


 レンが顔を傾けると、光も傾いた。


 水面へ手を伸ばしかけ、止めた。触れたところで顔が戻るわけではない。それでも指を引くまでに時間がかかった。


 雨の駅を思い浮かべた。自分は何を着ていた。どこへ行くつもりだった。名前を呼んだのは誰だった。


 雨粒が線の上で弾けるところは思い出せた。声に返事をしようとしたことも。だが、その次がない。轢かれた記憶も、落ちた記憶もなかった。


 そのとき、水面に白い文字が重なった。


〈渡界者:レン〉 〈落着先:奈落・第九環 灰葬域〉


 レンは立ち上がった。


 文字はついてきた。車輪を見ても、空を見ても、同じ位置にあった。右手で払う。黒い指の上にも文字が残った。


「誰だ」


 新しい行が現れた。


〈帰還を望むなら、昇界門を開放せよ〉


 帰還。


 レンは次の文字を待った。息をしていなかったことに気づき、ゆっくり吐いた。


〈開放条件〉 〈一:三基の錨炉において、生存する渡界者が錨核へ直接接続し、証印を取得する〉 〈二:三基から昇界門への接続を同時に成立させる〉 〈三:門衛を停止させ、開放中に門を通過する〉


 読み終えても、文字は消えなかった。


「錨炉って、どこにある。証印は、何をすればもらえる」


 答えはなかった。


 さらに待つと、条件の下に細い線が引かれた。


〈推奨経路:各錨核を回収し、昇界門へ搬送〉


「これをやれば帰れるのか」


 レンは空を見た。誰かが見ているなら、聞こえているはずだった。


「俺をここへ連れてきたのも、お前なのか。戻せよ」


 風が車体の穴を抜けた。文字は何も変わらなかった。


 頭の中で、もう一度、廉、と声がした。思い出そうと強く目を閉じると、かえって声の高さが分からなくなった。


 レンは目を開けた。


 白い表示の端に、小さな印があった。頭を動かすと横へ滑り、ある方角を向いたところで止まる。その下に〈昇界門〉と出ていた。


 車体の山が低くなった先に、折れた高架が延びている。さらに奥は煤けた靄に沈み、門らしいものは見えなかった。


 そこまで歩けるだろうか。


 食べ物も水も持っていない。今いる場所が町なのか、廃棄場なのかさえ分からない。足元の水に視線を落とすと、油膜がゆっくり虹色に割れた。喉が一度鳴った。


 ここに座って待つ理由は、何もなかった。


 レンは斜面を下り始めた。最初の一歩は大きすぎた。足裏が灰を押し滑らせ、身体が傾く。車体に手を添え、次は歩幅を半分にした。膝の裏で、あの音が短く鳴った。


 下へ行くほど空が狭くなった。錆びた車体が両側から迫り、窓枠に残った細いガラスが肩の高さで光っている。足元には何枚もの薄板が重なり、その一枚を踏むと、下の空洞からぼうんと音が返った。


 レンは足を引き、枠の太い部分へ載せ直した。


 その先で、声がした。


「……けて」


 動きを止めた。


 風が収まるのを待った。耳を澄ますと、自分の呼吸の向こうで、何かを引きずる音がする。


「誰かいるのか」


 返事はすぐには来なかった。


 通路の右側で、車体が一つ、斜めに潰れていた。地面との間に暗い隙間がある。人が閉じ込められているなら、あそこだった。


「動けないのか」


 近づきながら呼びかけた。自分と同じように、ここで目を覚ました人間かもしれない。何が起きたのか知っているかもしれない。


 あと三歩ほどのところで、また声がした。


「たす、けて」


 言葉の途中に、小さな金属音が挟まった。


 レンは膝を曲げかけた姿勢で止まった。暗がりから何かが伸びてきた。細い腕に見えたが、肘のあるはずの場所で二度折れ曲がり、その先は油に濡れた金属棒になっていた。


 棒の端に、人の指が五本ついていた。


 爪の剥がれた指が一本ずつ開き、地面をつかんだ。車体の下で重いものが動く。もう一本、同じ脚が出てきた。


「たす、けて」


 声は、その二本の間から聞こえた。

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