第1話 灰の底で目を開く
雨が、黄色い線を叩いていた。
ホームの端で振り返った。誰かが廉、と呼んだからだ。濡れた靴底がわずかに滑った。その先を思い出そうとすると、名前の最後の一音だけが耳に残った。
次に頬を押していたのは、硬いものだった。
レンは息を吸い、咳き込んだ。腐った油の臭いが鼻の奥へ入り込む。舌に酸っぱい味がした。吐き出そうと口を動かすと、唇のすぐ前で息が跳ね返った。
目を開けた。
横倒しの車輪があった。輪の半分は灰に埋まり、軸から垂れた黒い滴が、一定の間隔で地面を打っている。その向こうに別の車輪、その先に窓のない車体。積み重なった鉄の隙間から、空が細く見えた。朝とも夕方ともつかない、汚れた灰色だった。
起き上がろうとして手をついた。
指が黒かった。
五本とも、節ごとに細い金属板で覆われている。握ると板が重なり、開くと隙間が伸びた。掌の下の鉄板が冷たい。手袋越しに触れているはずなのに、裏側の錆のざらつきまで分かる。
レンは片手でもう片方の手首をつかんだ。外せる縁を探し、爪のあるはずの指先を差し込もうとした。継ぎ目はあっても、指は入らなかった。
肘、胸、腹にも同じ黒い板が続いていた。肩から垂れる幾重もの装甲。その下で、脇腹に沿った細い部材が呼吸に合わせて動く。
「なんだ、これ」
声が低く籠もった。
両手を顔へ持っていった。額も頬も硬い。顎の下を探り、首の後ろへ手を回しても、紐も留め金もない。頭をすっぽり包んだ何かが、首の装甲につながっていた。
引いた。首に痛みが走った。
もう一度引くと、喉の奥が詰まった。レンは手を離し、息を継いだ。外れない。外そうとする力が、そのまま自分の身体へ返ってくる。
どこかで薄板が鳴った。
顔を上げる。斜面に積まれた車体の上を、細かな灰が流れていた。風に押された板が端を持ち上げ、落ちた。ほかに動くものは見えない。
「誰か」
声は近くの車体にぶつかって戻った。
レンは片膝を立てた。足を踏ん張るより先に、膝の裏で小さく何かが唸った。腰が持ち上がり、予想したより容易に立ててしまう。身体が前へ流れ、慌てて車輪につかまった。
腕の内側でも同じ音がした。
しばらく待ってから、手を離した。動かなければ音もしない。膝を少し曲げると、今度は低い振動が腿を伝わった。誰かに内側から脚を押されているようだった。
左腰に鞘があった。
柄を握って指一本分だけ抜く。片側に刃のついた、鈍い銀色が現れた。すぐに戻した。右腰には細い黒い索が巻かれ、その端を三つに分かれた鉤が留めていた。
こんなものを身につけた覚えはない。
携帯を探そうとして、胸から腰までを撫でた。ポケットはなかった。財布も、鍵もない。指先に当たるのは金属ばかりだった。
足元に水が溜まっていた。ひしゃげた車体の屋根が皿になり、油膜の縁に灰が固まっている。
レンはそこへ屈んだ。
黒い武者が、下から覗き返してきた。
兜は額から鼻先へ鋭く張り出し、頬を覆う板は顎に向かって細く重なっていた。人の顔と呼べる部分はどこにもない。目の位置だけが横に切れ、奥に二つ、白い光があった。
レンが顔を傾けると、光も傾いた。
水面へ手を伸ばしかけ、止めた。触れたところで顔が戻るわけではない。それでも指を引くまでに時間がかかった。
雨の駅を思い浮かべた。自分は何を着ていた。どこへ行くつもりだった。名前を呼んだのは誰だった。
雨粒が線の上で弾けるところは思い出せた。声に返事をしようとしたことも。だが、その次がない。轢かれた記憶も、落ちた記憶もなかった。
そのとき、水面に白い文字が重なった。
〈渡界者:レン〉 〈落着先:奈落・第九環 灰葬域〉
レンは立ち上がった。
文字はついてきた。車輪を見ても、空を見ても、同じ位置にあった。右手で払う。黒い指の上にも文字が残った。
「誰だ」
新しい行が現れた。
〈帰還を望むなら、昇界門を開放せよ〉
帰還。
レンは次の文字を待った。息をしていなかったことに気づき、ゆっくり吐いた。
〈開放条件〉 〈一:三基の錨炉において、生存する渡界者が錨核へ直接接続し、証印を取得する〉 〈二:三基から昇界門への接続を同時に成立させる〉 〈三:門衛を停止させ、開放中に門を通過する〉
読み終えても、文字は消えなかった。
「錨炉って、どこにある。証印は、何をすればもらえる」
答えはなかった。
さらに待つと、条件の下に細い線が引かれた。
〈推奨経路:各錨核を回収し、昇界門へ搬送〉
「これをやれば帰れるのか」
レンは空を見た。誰かが見ているなら、聞こえているはずだった。
「俺をここへ連れてきたのも、お前なのか。戻せよ」
風が車体の穴を抜けた。文字は何も変わらなかった。
頭の中で、もう一度、廉、と声がした。思い出そうと強く目を閉じると、かえって声の高さが分からなくなった。
レンは目を開けた。
白い表示の端に、小さな印があった。頭を動かすと横へ滑り、ある方角を向いたところで止まる。その下に〈昇界門〉と出ていた。
車体の山が低くなった先に、折れた高架が延びている。さらに奥は煤けた靄に沈み、門らしいものは見えなかった。
そこまで歩けるだろうか。
食べ物も水も持っていない。今いる場所が町なのか、廃棄場なのかさえ分からない。足元の水に視線を落とすと、油膜がゆっくり虹色に割れた。喉が一度鳴った。
ここに座って待つ理由は、何もなかった。
レンは斜面を下り始めた。最初の一歩は大きすぎた。足裏が灰を押し滑らせ、身体が傾く。車体に手を添え、次は歩幅を半分にした。膝の裏で、あの音が短く鳴った。
下へ行くほど空が狭くなった。錆びた車体が両側から迫り、窓枠に残った細いガラスが肩の高さで光っている。足元には何枚もの薄板が重なり、その一枚を踏むと、下の空洞からぼうんと音が返った。
レンは足を引き、枠の太い部分へ載せ直した。
その先で、声がした。
「……けて」
動きを止めた。
風が収まるのを待った。耳を澄ますと、自分の呼吸の向こうで、何かを引きずる音がする。
「誰かいるのか」
返事はすぐには来なかった。
通路の右側で、車体が一つ、斜めに潰れていた。地面との間に暗い隙間がある。人が閉じ込められているなら、あそこだった。
「動けないのか」
近づきながら呼びかけた。自分と同じように、ここで目を覚ました人間かもしれない。何が起きたのか知っているかもしれない。
あと三歩ほどのところで、また声がした。
「たす、けて」
言葉の途中に、小さな金属音が挟まった。
レンは膝を曲げかけた姿勢で止まった。暗がりから何かが伸びてきた。細い腕に見えたが、肘のあるはずの場所で二度折れ曲がり、その先は油に濡れた金属棒になっていた。
棒の端に、人の指が五本ついていた。
爪の剥がれた指が一本ずつ開き、地面をつかんだ。車体の下で重いものが動く。もう一本、同じ脚が出てきた。
「たす、けて」
声は、その二本の間から聞こえた。




