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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第3章 死者の回路
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第29話 帰還先のない門

 セナが名札の包みをしまったのは、ミオが二枚目の記録を写し終えたころだった。


 背負い袋の底には入れなかった。内側の小さな袋へ収め、口を結んだ。結び目を指で押さえてから、顔を上げた。


「歩ける」


 ガドは廊下から戻り、彼女を見た。


「道を見るのを代わってほしいなら言え」


「図は見られる。先を確かめるのは、頼んでいい?」


 ガドが隊員へ頷いた。


 レンは杖を取り、石台から立った。膝を伸ばしたまま座っていたためか、最初の一歩が硬かった。ミオが立ち終わるまで待ち、それから箱を持った。


 再生器は机に残った。壁の盤には、応答未了の文字が点いていた。


 セナは扉を出る前に一度振り返ったが、戻らなかった。


 詰所の奥の戸は、細い渡り廊下へ通じていた。


 隊員が先に灯りを入れ、床と手すりを確かめた。下を覗くと太い管が重なり、その間から湿った暖気が上がっていた。油に混じって、錆びた水の臭いがする。


 レンは手すりへ左手を添えた。遠い床下で唸りが続いている。燈杭の炉ほど揃ってはいなかった。途中で細くなり、また戻った。


 ミオも足を止めた。


「音が変わる。あとで計器と合わせる」


 それ以上は近づかず、図へ印をつけた。


 渡り廊下の先に、制御室の標示があった。


 中には傾いた椅子と、壁に沿って並ぶ盤があった。灯のない窓が多かったが、奥の二つだけが弱く光っている。机の縁に積もった粉を、誰かが袖で払ったような筋があった。


 ガドが机の向こうを調べ、隊員を入口へ置いた。


「記録を先に見る。奥の盤はミオが確かめてからだ」


 レンは入口近くの壁へ寄った。椅子には座らず、杖へ体重を預けた。


 ミオが書類棚の戸を開けた。内側は比較的乾いていた。薄い金属の表紙に挟まれた紙を、一冊ずつ机へ並べる。


 旧幹線の配線図。制御器の点検項目。その下から、昇界門の字が見えた。


「これも読めるか」


 レンが言うと、ミオは表紙の留めを外した。


 領域間移送設備、接続記録。


 その下には、細かな欄が並んでいた。日付、接続元、接続先、成立、終了。レンの知る地名はなかった。接続先には長い符号が書かれ、行によって違っていた。


「領域って、灰葬域の別の場所か」


 ミオは答えず、前の頁へ戻った。


 折り込まれた図には、離れた枠がいくつも描かれていた。枠の中にそれぞれ門の記号がある。道や高架の線はなく、枠同士を結ぶ線だけがあった。


「説明がある」


 ミオが読んだ。


「接続可能な他領域の門端へ移送する。移送先は成立した接続による」


 レンは次の行へ目を移した。


 渡界者の出身領域を指定する機能はない。


 その一行だけ、何度読んでも先へ進めなかった。


「出身を、指定できない?」


「そう書いてある」


「俺が来たところへ戻す門じゃないのか」


 ミオは接続記録をもう一度開いた。


「この設備は、別の領域へ渡すもの。使う人がどこから来たかで、その場所へ返す仕組みにはなってない」


 レンは紙の上へ指を置きかけた。汚すと思って止めたのではなかった。手を置けば、その文を隠してしまえる気がした。


「でも、帰還を望むなら開けと出た」


 声が大きくなり、入口のガドがこちらを見た。


 レンは音を落とした。


「最初に。俺は、それを読んで」


「その文と、門が行き先を選べるかは、同じ話じゃない」


 ミオは急いで言い足さなかった。


 レンは兜の内側へ意識を向けた。


〈帰還を望むなら、昇界門を開放せよ〉


 三つの条件も、その下に並んだ。知っている文字だった。今になって書き換えられた箇所はない。


 門の先が駅だとは、どこにも書かれていなかった。


 雨の黄色い線を思い出した。靴底が滑った感覚。振り返る前に呼ばれた名。そこまで戻れば、その先も思い出せると思っていた。


 門を一つ越えればよいのだと。


 レンは杖を握った。指の節が固くなった。二つの炉で得た印は消えていない。それなのに、歩いてきた道の先だけが、急に遠くへ退いたようだった。


「次は、どこなんだ」


「この古い記録だけでは、今つながる先は分からない」


 ミオが言った。


 知らない符号の列を見た。そこにも人がいるのか。水があるのか。また目を開けた場所から始めるのか。


 ガドが椅子の一つを確かめ、レンの後ろへ寄せた。


「座れ」


 レンは腰を下ろした。膝の痛みに気づくまで、少し間があった。


 誰も、いつか必ず帰れるとは言わなかった。


 ミオは接続先の欄と説明文を、同じ紙へ写した。レンはその筆を見ていた。帰ったら説明しなければならないことが、また増えた。


 セナは机の反対側で図を押さえていた。内袋へ手をやることはなかったが、頁が動くたび、指先に力が入った。


 さっきまで彼女に、声の中に兄がいるとは言えなかった。今度は自分が、書かれていない答えを求めていた。


「俺は、帰れると思ってた」


 レンは言った。


「門を抜ければ、元の場所へ戻ると。だから、三つ揃えれば、あとは門だけだと」


 ガドが卓の端へ手を置いた。


「今は、どう考える」


 レンはすぐには答えなかった。


 ここにいれば、燈杭の朝が来る。働けば熱札を得られるかもしれない。トワのところへ届ける荷もある。だがそれを何度繰り返しても、あの駅へ続く道を見つけたことにはならなかった。


「この門だけで帰れるとは、言えない」


 声にすると、胸の奥が沈んだ。


「それでも、先を調べたい。ここで止まれば帰れる、という道も知らないから」


 ミオが筆を置いた。


「戻ったら、それも話そう。確かな帰り道を作るための工事だと、みんなに思わせたままにはできない」


「俺から言う」


 レンは紙を見た。


「分からないところも、そのまま」


 ガドは頷いた。それ以上の約束は求めなかった。


 休んでから、室内の確認へ戻った。


 奥の扉は、第三炉の側面に沿う通路へ開いた。ミオと隊員が先に計器を見た。レンは許可を待ち、ガドと一緒に敷居の内側へ入った。


 太い円筒の表面に、油の筋が幾重にも重なっていた。熱いところと冷えたところがあるのか、滴の乾き方が違っていた。


 その下に、小さな蓋があった。


 見覚えのある幅だった。左手首を収めるための窪みが、その奥にあるはずだった。


〈第三錨炉〉

〈認証未取得〉


 レンは足を止めた。


「第三錨炉。認証未取得と出た。あの蓋の位置だ」


 ミオが帳面へ書いた。ガドはレンの手を見た。


 蓋まで、二歩ほどだった。


 触れれば、三つ目を得られるかもしれない。帰れるか分からなくなった今こそ、確かに進んだと思えるものが欲しかった。


 レンは左手を上げなかった。


「今日は、場所までだ」


 ガドの言葉に頷いた。


 杖を壁の側へ置き直し、ミオが計器を見る場所を空けた。


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