第29話 帰還先のない門
セナが名札の包みをしまったのは、ミオが二枚目の記録を写し終えたころだった。
背負い袋の底には入れなかった。内側の小さな袋へ収め、口を結んだ。結び目を指で押さえてから、顔を上げた。
「歩ける」
ガドは廊下から戻り、彼女を見た。
「道を見るのを代わってほしいなら言え」
「図は見られる。先を確かめるのは、頼んでいい?」
ガドが隊員へ頷いた。
レンは杖を取り、石台から立った。膝を伸ばしたまま座っていたためか、最初の一歩が硬かった。ミオが立ち終わるまで待ち、それから箱を持った。
再生器は机に残った。壁の盤には、応答未了の文字が点いていた。
セナは扉を出る前に一度振り返ったが、戻らなかった。
詰所の奥の戸は、細い渡り廊下へ通じていた。
隊員が先に灯りを入れ、床と手すりを確かめた。下を覗くと太い管が重なり、その間から湿った暖気が上がっていた。油に混じって、錆びた水の臭いがする。
レンは手すりへ左手を添えた。遠い床下で唸りが続いている。燈杭の炉ほど揃ってはいなかった。途中で細くなり、また戻った。
ミオも足を止めた。
「音が変わる。あとで計器と合わせる」
それ以上は近づかず、図へ印をつけた。
渡り廊下の先に、制御室の標示があった。
中には傾いた椅子と、壁に沿って並ぶ盤があった。灯のない窓が多かったが、奥の二つだけが弱く光っている。机の縁に積もった粉を、誰かが袖で払ったような筋があった。
ガドが机の向こうを調べ、隊員を入口へ置いた。
「記録を先に見る。奥の盤はミオが確かめてからだ」
レンは入口近くの壁へ寄った。椅子には座らず、杖へ体重を預けた。
ミオが書類棚の戸を開けた。内側は比較的乾いていた。薄い金属の表紙に挟まれた紙を、一冊ずつ机へ並べる。
旧幹線の配線図。制御器の点検項目。その下から、昇界門の字が見えた。
「これも読めるか」
レンが言うと、ミオは表紙の留めを外した。
領域間移送設備、接続記録。
その下には、細かな欄が並んでいた。日付、接続元、接続先、成立、終了。レンの知る地名はなかった。接続先には長い符号が書かれ、行によって違っていた。
「領域って、灰葬域の別の場所か」
ミオは答えず、前の頁へ戻った。
折り込まれた図には、離れた枠がいくつも描かれていた。枠の中にそれぞれ門の記号がある。道や高架の線はなく、枠同士を結ぶ線だけがあった。
「説明がある」
ミオが読んだ。
「接続可能な他領域の門端へ移送する。移送先は成立した接続による」
レンは次の行へ目を移した。
渡界者の出身領域を指定する機能はない。
その一行だけ、何度読んでも先へ進めなかった。
「出身を、指定できない?」
「そう書いてある」
「俺が来たところへ戻す門じゃないのか」
ミオは接続記録をもう一度開いた。
「この設備は、別の領域へ渡すもの。使う人がどこから来たかで、その場所へ返す仕組みにはなってない」
レンは紙の上へ指を置きかけた。汚すと思って止めたのではなかった。手を置けば、その文を隠してしまえる気がした。
「でも、帰還を望むなら開けと出た」
声が大きくなり、入口のガドがこちらを見た。
レンは音を落とした。
「最初に。俺は、それを読んで」
「その文と、門が行き先を選べるかは、同じ話じゃない」
ミオは急いで言い足さなかった。
レンは兜の内側へ意識を向けた。
〈帰還を望むなら、昇界門を開放せよ〉
三つの条件も、その下に並んだ。知っている文字だった。今になって書き換えられた箇所はない。
門の先が駅だとは、どこにも書かれていなかった。
雨の黄色い線を思い出した。靴底が滑った感覚。振り返る前に呼ばれた名。そこまで戻れば、その先も思い出せると思っていた。
門を一つ越えればよいのだと。
レンは杖を握った。指の節が固くなった。二つの炉で得た印は消えていない。それなのに、歩いてきた道の先だけが、急に遠くへ退いたようだった。
「次は、どこなんだ」
「この古い記録だけでは、今つながる先は分からない」
ミオが言った。
知らない符号の列を見た。そこにも人がいるのか。水があるのか。また目を開けた場所から始めるのか。
ガドが椅子の一つを確かめ、レンの後ろへ寄せた。
「座れ」
レンは腰を下ろした。膝の痛みに気づくまで、少し間があった。
誰も、いつか必ず帰れるとは言わなかった。
ミオは接続先の欄と説明文を、同じ紙へ写した。レンはその筆を見ていた。帰ったら説明しなければならないことが、また増えた。
セナは机の反対側で図を押さえていた。内袋へ手をやることはなかったが、頁が動くたび、指先に力が入った。
さっきまで彼女に、声の中に兄がいるとは言えなかった。今度は自分が、書かれていない答えを求めていた。
「俺は、帰れると思ってた」
レンは言った。
「門を抜ければ、元の場所へ戻ると。だから、三つ揃えれば、あとは門だけだと」
ガドが卓の端へ手を置いた。
「今は、どう考える」
レンはすぐには答えなかった。
ここにいれば、燈杭の朝が来る。働けば熱札を得られるかもしれない。トワのところへ届ける荷もある。だがそれを何度繰り返しても、あの駅へ続く道を見つけたことにはならなかった。
「この門だけで帰れるとは、言えない」
声にすると、胸の奥が沈んだ。
「それでも、先を調べたい。ここで止まれば帰れる、という道も知らないから」
ミオが筆を置いた。
「戻ったら、それも話そう。確かな帰り道を作るための工事だと、みんなに思わせたままにはできない」
「俺から言う」
レンは紙を見た。
「分からないところも、そのまま」
ガドは頷いた。それ以上の約束は求めなかった。
休んでから、室内の確認へ戻った。
奥の扉は、第三炉の側面に沿う通路へ開いた。ミオと隊員が先に計器を見た。レンは許可を待ち、ガドと一緒に敷居の内側へ入った。
太い円筒の表面に、油の筋が幾重にも重なっていた。熱いところと冷えたところがあるのか、滴の乾き方が違っていた。
その下に、小さな蓋があった。
見覚えのある幅だった。左手首を収めるための窪みが、その奥にあるはずだった。
〈第三錨炉〉
〈認証未取得〉
レンは足を止めた。
「第三錨炉。認証未取得と出た。あの蓋の位置だ」
ミオが帳面へ書いた。ガドはレンの手を見た。
蓋まで、二歩ほどだった。
触れれば、三つ目を得られるかもしれない。帰れるか分からなくなった今こそ、確かに進んだと思えるものが欲しかった。
レンは左手を上げなかった。
「今日は、場所までだ」
ガドの言葉に頷いた。
杖を壁の側へ置き直し、ミオが計器を見る場所を空けた。




