第28話 持ち帰る名前
セナは名札を表へ返した。
残った汚れを布の端で払う。文字の溝だけが黒く、その周りの金属は鈍く光った。
「兄のだと思う」
レンは彼女の手から顔へ目を移した。
「探してたのは、兄さんか」
「うん」
セナは穴の下へ指を置いた。
「私が刻んだ。まだ板を押さえるのが下手で、裏まで傷をつけた。作り直すと言ったけど、これでいいって」
穴を通った短い紐は、端がほぐれていた。
レンは、見つかってよかったと言いかけた。名札だけが箱に戻されている。そのことを喜んでいいのか、分からなかった。
ミオが机の向こうから灯りを寄せた。
「記録も見よう。ここの番号と合うか」
セナは頷き、包んでいた紙片を差し出した。
受入帳の端は机に貼りついていた。ミオは無理に持ち上げず、開いている頁の下へ薄い板を差した。隊員が灯りを支え、紙の影を避けた。
セナが名札の名を読み上げた。
ミオの指が帳面の行をたどり、同じ名で止まった。返却品の番号も合っていた。その隣には、第三炉東側、回収行携行品、と書かれていた。
「ここへ来たの?」
「この品が、この場所で受け入れられたとは読める」
ミオはその下の欄を見た。
「人の帰着は記入がない。これだけでは、持ってきた人と、持ち主が同じだったかも分からない」
セナは帳面を見つめた。
「第三炉の方へ行くって言ってた。戻った人は、途中で分かれたとしか言わなかった」
指先で紐を伸ばし、また丸める。
「その先の回収に入れるたび、探した」
レンは石の台に座ったまま聞いた。ここへ来るまで、セナは何度、別の名札を拾ったのだろう。思いついた問いは、口へ出さなかった。
ガドが廊下へ目を向けた。
見張りの隊員が手で合図した。近づく音はないらしかった。ガドは戸口を離れず、室内の隊員に休憩の水を回させた。
セナは容器を受け取ったが、飲まずに机へ置いた。
ミオが受入帳の次の欄を読んでいた。
「記録片も、同じ組の番号になってる」
机の奥の再生器に差された板へ灯りを動かす。端についた小さな札に、名札の紙片と同じ番号があった。末尾の印だけが違った。
「聞ける?」
セナが言った。
ミオは再生器を見たあと、ガドを見た。
「音は絞る。外の様子が変わったら、すぐ止める」
「机の周りで聞こえるだけにしろ」
ガドは隊員へ位置を示した。戸口と曲がり角の間で、互いの灯りが見えるようにした。
ミオは昨日の呼出しを流す壁の盤には触れなかった。机上の小箱の目盛を読み、停止の位置と、音量のつまみを別々に確かめた。
「この枝だけで動いてる。切っても、炉や壁の応答器は止まらない。記録を消す操作でもない」
セナが頷いた。
つまみが少しだけ動いた。
最初は、布を擦るような音だった。
『セナ』
机のそばへ顔を寄せなければ聞こえないほど、小さかった。
セナの指が名札を掴んだ。
『セナ、そこにいるか』
男の声だった。最後の音が掠れ、そのあと短い空白があった。
レンの背筋に冷たいものが走った。
妹の名を呼んだ。今ここにいる彼女へ尋ねたように聞こえた。
セナの唇が動いた。
「いるよ」
声は返らなかった。
小さな擦れる音。
『セナ』
同じ間が空いた。
『セナ、そこにいるか』
彼女はもう一度返事をしようとして、息を吸ったまま止まった。
ミオが再生器の小窓を見ていた。細い印が端まで進み、最初へ戻る。誰かの返事を受けた様子はなかった。
「兄の声だ」
セナが言った。
ミオはそれを否定しなかった。
「知っている声に聞こえるんだね」
「うん。この、最後に息が切れるところも」
セナは顔を上げた。
「中にいるの?」
ミオの手がつまみの脇で止まった。
「私は、そうだとは言えない。声や記憶の一部が残ることはある。でも、お兄さんが今ここで考えているのかは分からない」
セナは小箱を見た。
「呼んでる」
「同じところを再生してる。あなたの返事が届いたかは、確かめられていない」
レンは膝の上の手を握った。
雨の駅で呼ばれた、自分の名を思い出した。あの声をもう一度聞けるなら、同じ言葉でも聞いていたくなるだろうか。
何度でも返事をしてしまうかもしれなかった。
セナの代わりに、消さなくていいと言いたくなった。だが、それは自分が失いたくない声の話だった。
レンは手を開いた。
『セナ』
彼女は名札の裏を親指でなぞった。
「これ、持って帰れる?」
ガドに向けた問いだった。
「名札はな。番号と見つけた場所は控える」
セナは頷いた。
それから小箱を見た。
「声の方も?」
「記録片を外せるかは、調べないと分からない」
ミオが答えた。
「今すぐ決めなくても、場所と番号は残せる。ここで壊したりはしない」
セナは再生器の端へ指を近づけた。差し込まれた板には触れず、机の上へ手を置いた。
しばらく、同じ声がした。
戸口のガドは外を見ていた。隊員の灯りが一度、短く応じた。ミオは音量を上げなかった。
「止めるところを、教えて」
セナが言った。
ミオは小箱の脇の切替器を指した。再生と停止の文字があった。
「こっちへ戻せば止まる。板はそのまま残る」
「声だけ?」
「この箱の再生だけ」
セナはガドを見た。男が頷くと、指を切替器へ掛けた。
すぐには動かさなかった。
『セナ、そこにいるか』
彼女の指が、ゆっくり押した。
印が止まった。
レンには、声のあった間隔がまだ聞こえる気がした。次の擦れる音を待ったが、小箱は静かだった。
セナは名札を机の布へ置いた。角を合わせようとして、一度ずれた。もう一度広げ、端から包んだ。
「傷、直さないで持って帰る」
誰にともなく言った。
ミオは記録に番号を書き、再生を止めたことも添えた。名札の名をセナに確かめ、持ち帰る物の欄へ移す。
レンは卓の水を指した。
「そこへ置いておくか」
セナが頷いたので、容器を動かさなかった。
彼女は低い棚の縁へ腰を下ろした。包んだ名札を両手で持ち、膝の上へ載せた。
戻れるかと聞く者はいなかった。
ガドが見張りの隊員と交替した。ミオは帳面を閉じず、ほかの記録へ灯りを寄せた。
セナは水を一口飲んだ。それでも、まだ立ち上がらなかった。




