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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第3章 死者の回路
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第28話 持ち帰る名前

 セナは名札を表へ返した。


 残った汚れを布の端で払う。文字の溝だけが黒く、その周りの金属は鈍く光った。


「兄のだと思う」


 レンは彼女の手から顔へ目を移した。


「探してたのは、兄さんか」


「うん」


 セナは穴の下へ指を置いた。


「私が刻んだ。まだ板を押さえるのが下手で、裏まで傷をつけた。作り直すと言ったけど、これでいいって」


 穴を通った短い紐は、端がほぐれていた。


 レンは、見つかってよかったと言いかけた。名札だけが箱に戻されている。そのことを喜んでいいのか、分からなかった。


 ミオが机の向こうから灯りを寄せた。


「記録も見よう。ここの番号と合うか」


 セナは頷き、包んでいた紙片を差し出した。


 受入帳の端は机に貼りついていた。ミオは無理に持ち上げず、開いている頁の下へ薄い板を差した。隊員が灯りを支え、紙の影を避けた。


 セナが名札の名を読み上げた。


 ミオの指が帳面の行をたどり、同じ名で止まった。返却品の番号も合っていた。その隣には、第三炉東側、回収行携行品、と書かれていた。


「ここへ来たの?」


「この品が、この場所で受け入れられたとは読める」


 ミオはその下の欄を見た。


「人の帰着は記入がない。これだけでは、持ってきた人と、持ち主が同じだったかも分からない」


 セナは帳面を見つめた。


「第三炉の方へ行くって言ってた。戻った人は、途中で分かれたとしか言わなかった」


 指先で紐を伸ばし、また丸める。


「その先の回収に入れるたび、探した」


 レンは石の台に座ったまま聞いた。ここへ来るまで、セナは何度、別の名札を拾ったのだろう。思いついた問いは、口へ出さなかった。


 ガドが廊下へ目を向けた。


 見張りの隊員が手で合図した。近づく音はないらしかった。ガドは戸口を離れず、室内の隊員に休憩の水を回させた。


 セナは容器を受け取ったが、飲まずに机へ置いた。


 ミオが受入帳の次の欄を読んでいた。


「記録片も、同じ組の番号になってる」


 机の奥の再生器に差された板へ灯りを動かす。端についた小さな札に、名札の紙片と同じ番号があった。末尾の印だけが違った。


「聞ける?」


 セナが言った。


 ミオは再生器を見たあと、ガドを見た。


「音は絞る。外の様子が変わったら、すぐ止める」


「机の周りで聞こえるだけにしろ」


 ガドは隊員へ位置を示した。戸口と曲がり角の間で、互いの灯りが見えるようにした。


 ミオは昨日の呼出しを流す壁の盤には触れなかった。机上の小箱の目盛を読み、停止の位置と、音量のつまみを別々に確かめた。


「この枝だけで動いてる。切っても、炉や壁の応答器は止まらない。記録を消す操作でもない」


 セナが頷いた。


 つまみが少しだけ動いた。


 最初は、布を擦るような音だった。


『セナ』


 机のそばへ顔を寄せなければ聞こえないほど、小さかった。


 セナの指が名札を掴んだ。


『セナ、そこにいるか』


 男の声だった。最後の音が掠れ、そのあと短い空白があった。


 レンの背筋に冷たいものが走った。


 妹の名を呼んだ。今ここにいる彼女へ尋ねたように聞こえた。


 セナの唇が動いた。


「いるよ」


 声は返らなかった。


 小さな擦れる音。


『セナ』


 同じ間が空いた。


『セナ、そこにいるか』


 彼女はもう一度返事をしようとして、息を吸ったまま止まった。


 ミオが再生器の小窓を見ていた。細い印が端まで進み、最初へ戻る。誰かの返事を受けた様子はなかった。


「兄の声だ」


 セナが言った。


 ミオはそれを否定しなかった。


「知っている声に聞こえるんだね」


「うん。この、最後に息が切れるところも」


 セナは顔を上げた。


「中にいるの?」


 ミオの手がつまみの脇で止まった。


「私は、そうだとは言えない。声や記憶の一部が残ることはある。でも、お兄さんが今ここで考えているのかは分からない」


 セナは小箱を見た。


「呼んでる」


「同じところを再生してる。あなたの返事が届いたかは、確かめられていない」


 レンは膝の上の手を握った。


 雨の駅で呼ばれた、自分の名を思い出した。あの声をもう一度聞けるなら、同じ言葉でも聞いていたくなるだろうか。


 何度でも返事をしてしまうかもしれなかった。


 セナの代わりに、消さなくていいと言いたくなった。だが、それは自分が失いたくない声の話だった。


 レンは手を開いた。


『セナ』


 彼女は名札の裏を親指でなぞった。


「これ、持って帰れる?」


 ガドに向けた問いだった。


「名札はな。番号と見つけた場所は控える」


 セナは頷いた。


 それから小箱を見た。


「声の方も?」


「記録片を外せるかは、調べないと分からない」


 ミオが答えた。


「今すぐ決めなくても、場所と番号は残せる。ここで壊したりはしない」


 セナは再生器の端へ指を近づけた。差し込まれた板には触れず、机の上へ手を置いた。


 しばらく、同じ声がした。


 戸口のガドは外を見ていた。隊員の灯りが一度、短く応じた。ミオは音量を上げなかった。


「止めるところを、教えて」


 セナが言った。


 ミオは小箱の脇の切替器を指した。再生と停止の文字があった。


「こっちへ戻せば止まる。板はそのまま残る」


「声だけ?」


「この箱の再生だけ」


 セナはガドを見た。男が頷くと、指を切替器へ掛けた。


 すぐには動かさなかった。


『セナ、そこにいるか』


 彼女の指が、ゆっくり押した。


 印が止まった。


 レンには、声のあった間隔がまだ聞こえる気がした。次の擦れる音を待ったが、小箱は静かだった。


 セナは名札を机の布へ置いた。角を合わせようとして、一度ずれた。もう一度広げ、端から包んだ。


「傷、直さないで持って帰る」


 誰にともなく言った。


 ミオは記録に番号を書き、再生を止めたことも添えた。名札の名をセナに確かめ、持ち帰る物の欄へ移す。


 レンは卓の水を指した。


「そこへ置いておくか」


 セナが頷いたので、容器を動かさなかった。


 彼女は低い棚の縁へ腰を下ろした。包んだ名札を両手で持ち、膝の上へ載せた。


 戻れるかと聞く者はいなかった。


 ガドが見張りの隊員と交替した。ミオは帳面を閉じず、ほかの記録へ灯りを寄せた。


 セナは水を一口飲んだ。それでも、まだ立ち上がらなかった。


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