第27話 呼び出しの残る部屋
足跡は、次の分かれ道で薄くなった。
床に埃の少ないところがあり、そこから先は形を追えなかった。セナは灯りを壁へ寄せた。右手の扉の脇に、保守員詰所と書かれた板があった。
ガドが隊員を一人、分かれ道に残した。
扉は閉まり切っていなかった。盾の縁で少し押すと、下端が床を擦った。全員が止まる。奥から返る音はなかった。
隙間を広げ、灯りを入れた。
机が二つと、背の低い棚。壁には外套を掛ける鉤が並び、一つに布の塊が残っていた。床の浅い皿は干上がり、縁に白い筋がついている。
ガドと隊員が先に入った。机の下と、奥の戸を確かめてから、手で呼んだ。
レンは敷居を越えた。
鼻の奥に、古い油とは違う臭いが残った。湿った紙と、長く閉じられた布の臭いだった。ここでは人が座り、服を脱いで、何かを飲んでいた。
椅子が一脚、机から引かれたままになっていた。
座りかける前に脚を見た。一本の付け根が割れている。レンは椅子を動かさず、壁際の低い石の台を指した。
「そこへ座ってもいいか」
ガドが下を照らし、頷いた。
膝を伸ばすと、帯の内側の熱が少し引いた。杖を手の届くところへ置く。巻いた布は、乾き始めて硬くなっていた。
ミオは壁の盤を見ていた。
入口の案内箱より大きく、受話器と小さな窓がついている。窓の一つに、細い光が残っていた。
「点検応答器」
ミオが刻印を読んだ。
すぐには受話器を取らず、脇に留められた図を照らす。紙ではなく、薄い金属板へ線を刻んだものだった。そこから実際の線を目で追った。
「これが外へ出てる。燈杭で開けた点検器と、符号が合う」
「声は、ここから来たのか」
レンは聞いた。
「通り道にはなってそう。でも、ここで作った声か、別のところから受けたのかは、まだ分からない」
ミオは帳面を出した。
ガドは戸口へ戻り、外の隊員と目を合わせた。廊下は静かだった。それでも、室内へ大きく音を出してよいとは言わなかった。
「耳元だけで聞けるか」
「外向きの発声は切ってある。まず窓を読む」
ミオが灯りを傾けた。
レンからは机が邪魔で、窓の下半分が見えなかった。
「近づいて、文字を見たい。触らない」
「ミオの横までだ」
ガドの返事を聞いて立った。杖の先を滑らせず、二歩だけ寄る。
窓に浮かんでいるのは、三行だった。
呼出先、保守員エダ。
第三照合、待機。
応答、未了。
レンは順に読み上げた。兜の内側の表示ではない。ミオも同じ文字を紙へ写していた。
「昨日の声と、合ってる」
「うん。完了していない呼び出しが残ってる」
窓の脇には、丸い押し金があった。応答確認と小さく刻まれている。
レンは手を後ろへ引いた。
押せば、待っているものに返事ができるのかもしれない。だが自分はエダではなかった。何を終えたと知らせることになるのかも分からなかった。
ミオは押し金には触れず、受話器の線を確かめた。
「受ける側だけ聞く。返事は送らない」
ガドが頷いた。
受話器を耳へ当てると、ミオの筆が止まった。少し待ってから、レンへ差し出した。右手で受け取る。兜の横へ寄せると、硬い殻を通して小さな音が伝わった。
『……保守員、エダ。応答を』
昨日と同じ欠け方だった。
『第三……照合、待機。エダ、応答を』
最後に、息とも雑音ともつかない音が入った。
レンは受話器を離した。
「そのままだ」
ミオへ返した。彼女はもう一巡だけ聞き、元の掛け金へ戻した。
「同じところを、同じ間で繰り返してる」
「ずっと待ってたのか」
「止まっていた手順が、点検でまた動いた可能性もある。これだけじゃ、いつからかは決められない」
ミオは応答未了という文字を写し終えた。完了させる操作はしなかった。
レンは石の台へ戻った。
死んだ人を呼ぶ手順が、終わらずに残る。その声を聞いた自分まで、返事をしなければならない気がしていた。
壁の鉤から垂れた布は、少しも動かなかった。
セナが机の脇に屈んでいた。下の棚には蓋付きの箱があり、上に返却品と書かれていた。
「これ、調べてもいい?」
ガドは箱と周りを見てから、ミオへ目を向けた。線の繋がっていない物入れだと確かめ、開けるよう告げた。
セナは机へ布を敷いた。箱を傾けずに載せ、留めを外す。
中には金具、折れた筆、細い紐があった。それぞれ紙片で包まれ、番号がついていた。底に小さな金属板が重なっている。
レンには、まだ名前が読めなかった。
セナは一度に取り出さず、箱の中の並びをミオに見せた。ミオが番号を控えるあいだ、手を待たせた。
もう一人の隊員が隣の机から帳面を見つけた。端が机に貼りついていたので、剥がさず灯りだけを寄せた。
「受け入れの記録がある。回収物と、人の名前だ」
ガドが頁を覗いた。
セナはそちらを見た。すぐには席を離れず、取り出した紙片を箱の手前へ揃えた。
机の奥には、掌ほどの箱がもう一つあった。
小さな格子と、差し込まれた薄い板。線は壁の応答器へは行かず、机の下の細い配電部へ入っていた。
「こっちも声が出る物か」
レンが聞くと、ミオは箱の文字を読んだ。
「音声再生器。記録を入れて聞くためのものみたい」
脇の小窓には待機の字があった。つまみは一番低い位置で止まっていた。
ミオは線の両端を確認し、図の枝と合わせた。
「応答器とは別の枝になってる。今は鳴らさない。中の記録が何か、札を先に見る」
ガドが入口の隊員へ振り返った。異常なしの合図が返った。
レンは、足跡の主もここを見たのだろうかと思った。机の埃には空いた場所があったが、いつ物が移されたかは分からなかった。声の主も、歩いた者も、まだ顔のないままだった。
箱の底で、金属が一度鳴った。
セナの指が止まっていた。
薄い板を一枚、布の上へ置く。端の穴には短い紐が残り、片側の角だけ丸く削られていた。
彼女は汚れを強く擦らなかった。乾いた布を折り、名前の脇から少しずつ払った。
レンは立たずに見ていた。
セナの爪が、板の裏へ回った。指で一か所を探り、それからもう一度、同じ場所をなぞった。
「傷があるのか」
レンが尋ねた。
セナは頷いた。板を裏返すと、穴の下に短い線が二本あった。並行にはなっていなかった。片方が途中で折れ、浅くなっている。
「刃が滑ったの」
その言い方で、レンは彼女が今ついた傷を見ているのではないと分かった。
セナは板を掌へ移した。握り込まず、指を開いたまま載せていた。
「私、この傷を知ってる」
机に置いた灯りが、彼女の手の震えを照らしていた。




