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奈落の帰還者 ― 黒鎧の門  作者: 山本田38ページ
第3章 死者の回路
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第27話 呼び出しの残る部屋

 足跡は、次の分かれ道で薄くなった。


 床に埃の少ないところがあり、そこから先は形を追えなかった。セナは灯りを壁へ寄せた。右手の扉の脇に、保守員詰所と書かれた板があった。


 ガドが隊員を一人、分かれ道に残した。


 扉は閉まり切っていなかった。盾の縁で少し押すと、下端が床を擦った。全員が止まる。奥から返る音はなかった。


 隙間を広げ、灯りを入れた。


 机が二つと、背の低い棚。壁には外套を掛ける鉤が並び、一つに布の塊が残っていた。床の浅い皿は干上がり、縁に白い筋がついている。


 ガドと隊員が先に入った。机の下と、奥の戸を確かめてから、手で呼んだ。


 レンは敷居を越えた。


 鼻の奥に、古い油とは違う臭いが残った。湿った紙と、長く閉じられた布の臭いだった。ここでは人が座り、服を脱いで、何かを飲んでいた。


 椅子が一脚、机から引かれたままになっていた。


 座りかける前に脚を見た。一本の付け根が割れている。レンは椅子を動かさず、壁際の低い石の台を指した。


「そこへ座ってもいいか」


 ガドが下を照らし、頷いた。


 膝を伸ばすと、帯の内側の熱が少し引いた。杖を手の届くところへ置く。巻いた布は、乾き始めて硬くなっていた。


 ミオは壁の盤を見ていた。


 入口の案内箱より大きく、受話器と小さな窓がついている。窓の一つに、細い光が残っていた。


「点検応答器」


 ミオが刻印を読んだ。


 すぐには受話器を取らず、脇に留められた図を照らす。紙ではなく、薄い金属板へ線を刻んだものだった。そこから実際の線を目で追った。


「これが外へ出てる。燈杭で開けた点検器と、符号が合う」


「声は、ここから来たのか」


 レンは聞いた。


「通り道にはなってそう。でも、ここで作った声か、別のところから受けたのかは、まだ分からない」


 ミオは帳面を出した。


 ガドは戸口へ戻り、外の隊員と目を合わせた。廊下は静かだった。それでも、室内へ大きく音を出してよいとは言わなかった。


「耳元だけで聞けるか」


「外向きの発声は切ってある。まず窓を読む」


 ミオが灯りを傾けた。


 レンからは机が邪魔で、窓の下半分が見えなかった。


「近づいて、文字を見たい。触らない」


「ミオの横までだ」


 ガドの返事を聞いて立った。杖の先を滑らせず、二歩だけ寄る。


 窓に浮かんでいるのは、三行だった。


 呼出先、保守員エダ。


 第三照合、待機。


 応答、未了。


 レンは順に読み上げた。兜の内側の表示ではない。ミオも同じ文字を紙へ写していた。


「昨日の声と、合ってる」


「うん。完了していない呼び出しが残ってる」


 窓の脇には、丸い押し金があった。応答確認と小さく刻まれている。


 レンは手を後ろへ引いた。


 押せば、待っているものに返事ができるのかもしれない。だが自分はエダではなかった。何を終えたと知らせることになるのかも分からなかった。


 ミオは押し金には触れず、受話器の線を確かめた。


「受ける側だけ聞く。返事は送らない」


 ガドが頷いた。


 受話器を耳へ当てると、ミオの筆が止まった。少し待ってから、レンへ差し出した。右手で受け取る。兜の横へ寄せると、硬い殻を通して小さな音が伝わった。


『……保守員、エダ。応答を』


 昨日と同じ欠け方だった。


『第三……照合、待機。エダ、応答を』


 最後に、息とも雑音ともつかない音が入った。


 レンは受話器を離した。


「そのままだ」


 ミオへ返した。彼女はもう一巡だけ聞き、元の掛け金へ戻した。


「同じところを、同じ間で繰り返してる」


「ずっと待ってたのか」


「止まっていた手順が、点検でまた動いた可能性もある。これだけじゃ、いつからかは決められない」


 ミオは応答未了という文字を写し終えた。完了させる操作はしなかった。


 レンは石の台へ戻った。


 死んだ人を呼ぶ手順が、終わらずに残る。その声を聞いた自分まで、返事をしなければならない気がしていた。


 壁の鉤から垂れた布は、少しも動かなかった。


 セナが机の脇に屈んでいた。下の棚には蓋付きの箱があり、上に返却品と書かれていた。


「これ、調べてもいい?」


 ガドは箱と周りを見てから、ミオへ目を向けた。線の繋がっていない物入れだと確かめ、開けるよう告げた。


 セナは机へ布を敷いた。箱を傾けずに載せ、留めを外す。


 中には金具、折れた筆、細い紐があった。それぞれ紙片で包まれ、番号がついていた。底に小さな金属板が重なっている。


 レンには、まだ名前が読めなかった。


 セナは一度に取り出さず、箱の中の並びをミオに見せた。ミオが番号を控えるあいだ、手を待たせた。


 もう一人の隊員が隣の机から帳面を見つけた。端が机に貼りついていたので、剥がさず灯りだけを寄せた。


「受け入れの記録がある。回収物と、人の名前だ」


 ガドが頁を覗いた。


 セナはそちらを見た。すぐには席を離れず、取り出した紙片を箱の手前へ揃えた。


 机の奥には、掌ほどの箱がもう一つあった。


 小さな格子と、差し込まれた薄い板。線は壁の応答器へは行かず、机の下の細い配電部へ入っていた。


「こっちも声が出る物か」


 レンが聞くと、ミオは箱の文字を読んだ。


「音声再生器。記録を入れて聞くためのものみたい」


 脇の小窓には待機の字があった。つまみは一番低い位置で止まっていた。


 ミオは線の両端を確認し、図の枝と合わせた。


「応答器とは別の枝になってる。今は鳴らさない。中の記録が何か、札を先に見る」


 ガドが入口の隊員へ振り返った。異常なしの合図が返った。


 レンは、足跡の主もここを見たのだろうかと思った。机の埃には空いた場所があったが、いつ物が移されたかは分からなかった。声の主も、歩いた者も、まだ顔のないままだった。


 箱の底で、金属が一度鳴った。


 セナの指が止まっていた。


 薄い板を一枚、布の上へ置く。端の穴には短い紐が残り、片側の角だけ丸く削られていた。


 彼女は汚れを強く擦らなかった。乾いた布を折り、名前の脇から少しずつ払った。


 レンは立たずに見ていた。


 セナの爪が、板の裏へ回った。指で一か所を探り、それからもう一度、同じ場所をなぞった。


「傷があるのか」


 レンが尋ねた。


 セナは頷いた。板を裏返すと、穴の下に短い線が二本あった。並行にはなっていなかった。片方が途中で折れ、浅くなっている。


「刃が滑ったの」


 その言い方で、レンは彼女が今ついた傷を見ているのではないと分かった。


 セナは板を掌へ移した。握り込まず、指を開いたまま載せていた。


「私、この傷を知ってる」


 机に置いた灯りが、彼女の手の震えを照らしていた。


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