第26話 昨日までの案内
ガドは階段の縁へ足を出さなかった。
灯りだけを前へ寄せ、側桁の残るところを見た。曲がった鉄に、薄い板が一枚引っ掛かっている。その下へ落ちた滴の音は、しばらくしてから返ってきた。
「戻っても、ここは使わない」
ミオが図に短い線を引いた。
箱は右へ行けと繰り返していた。明るい声には、困ったような間も、言い直しもなかった。
セナが反対側へ灯りを動かした。
左の通路には、細い棒を渡した柵があった。赤かったらしい布が垂れ、その後ろに道具箱と足場板が積んである。
「点検作業中って言ってる方だ」
レンが言うと、セナは図を覗いた。
「こっちも下へ回ってる。実際に通れるか見よう」
ガドは隊員の一人を伴い、柵の前へ行った。レンたちは低い扉の脇に残った。戻ってきたとき、男の手袋には白い粉がついていた。
「作業している者はいない。床は奥まである。積んだ板の横を通れる」
セナが柵の留めを見た。紐は乾いて裂け、結び目だけが硬く残っていた。
「いつの作業なんだろう」
「終わったと知らせる人が、戻らなかったのかもしれない」
ミオは箱を見た。
「右が壊れたことも、これには入っていないんだと思う」
レンは声の出る格子を見た。誰かが話しているように聞こえる。それだけで、今の場所を見ている相手だと思いかけていた。
隊員が柵を持ち上げ、壁に沿わせて置いた。
左の通路は緩く下っていた。レンは杖を置き、床の継ぎ目を越えた。痛む膝を深く曲げずに歩ける幅があった。
曲がり角の向こうにも、同じ形の箱があった。
『頭上の配管に注意してください』
今度は、ガドが灯りを上げた先に管があった。天井から外れかけ、通路を斜めに横切っていた。
隊員が荷を下ろし、先にくぐらせた。レンは腰を落とす代わりに身体を横にして通った。兜の頂が管の布へ触れ、乾いた粉が肩へ落ちた。
案内は、この場所には合っていた。
ミオは箱の下の符号を書き留めた。正しい声と間違った声が、同じ口から出ていた。
先頭のセナが止まった。
灯りの覆いが閉じ、足元だけが細く照らされた。ガドも歩みを止める。
レンには、何があったのか見えなかった。やがて下の横穴から、鉄を擦る音がした。
一度。間が空いて、もう一度。
『頭上の配管に注意してください』
箱が告げると、擦る音が急に近づいた。
横穴の縁に、細い脚が現れた。
ガドは盾を身体の前へ寄せ、掌を下へ向けた。声を出すなという意味は分かった。レンは息を細く吐いた。
セナが戻り、ガドの耳元へ顔を寄せた。
「反応が早い。静刻に近いかも」
声はレンのところへ辛うじて届いた。
ミオが箱の脇を見た。小さなつまみと、その下の文字を灯りで確かめる。
「発声だけ落とす」
ガドの頷きを待って、つまみを回した。
次の言葉は、最初の一音で切れた。箱の灯は点いたままだった。
六人とも動かなかった。
横穴の縁を掴んだ脚が、少しずつ先へ伸びた。胴はレンの膝ほどの高さしかなく、覆いの間から濡れたものが垂れていた。もう一本の脚が床を叩く。頭に見える部分が左右へ振れた。
隊員が荷の留め金を掌で押さえていた。
レンも杖を持ち上げた。鉄の床へつく音を出したくなかった。支えがなくなると、右膝へ重さが寄った。
ガドが背後を指した。先ほど通った配管の手前に、道具を置く浅い窪みがあった。そこまで下がれという合図だった。
ミオが先に戻り、レンへ手を伸ばした。
レンは肩を借りた。足裏を床からわずかに離し、擦らずに置く。膝が熱くなった。二歩下がるだけで、息が詰まった。
窪みの壁へ背をつけたとき、ようやく左足へ重さを逃がせた。
セナが布を差し出した。レンは受け取る前に杖の先を見た。彼女が頷く。右手で先端を持ち上げ、左手で巻こうとしたが、布が緩んだ。
セナが結び目を締めた。
灯りの覆いが一度、細く開いた。先頭から後ろへ、同じ光が渡った。ガドは盾を構えたまま、列の横へ寄った。
骸機は箱の下まで来ていた。
小さな脚が壁を探り、格子の下へ掛かった。胴が持ち上がる。箱へぶつかると乾いた音がして、機体はその音にも首を振った。
刀を抜けば届く距離ではなかった。近づいて一度で止められるかも分からなかった。
レンは鞘を左の肘で押さえ、壁へ当てないようにした。
先へ進む光は、まだ来なかった。
額の内側に汗が溜まった。兜を拭えず、目を細めた。ガドは一度も後ろを振り向かなかった。盾の脇から、横穴とこちらの間を見続けていた。
機体が箱から降りた。
着地の音が通路へ響いた。遠くで別の薄板が鳴り、機体はそちらへ向きを変えた。六人の前を横切らず、元の横穴の奥へ戻っていった。
音が遠ざかっても、ガドは待った。
やがて灯りが短く二度開いた。セナが頷き、先へ出た。
レンは布を巻いた杖を置いた。音は鈍くなったが、先が少し滑った。大きく預けず、壁へ手を添えた。
横穴を通り過ぎるとき、奥を見たい気持ちがあった。戻ってこないと確かめたかった。
だが、ガドの盾の外へ顔を出すのはやめた。
隊員二人が最後に通り、先に延びる扉の前まで来た。セナが開き具合を確かめる。蝶番は動いたが、閉める直前に金属が擦れそうだった。
彼女は布を隙間へ挟み、戸を寄せた。施錠はしなかった。
ガドが閉じた戸を見てから、全員の顔を順に確かめた。
「ここで休む。灯りは低く」
声はまだ小さかった。
レンは壁沿いの石へ座り、杖の先の布を見た。湿って黒くなっている。
「帰りも、あの箱は黙らせたままか」
「この先の箱も、音が出るなら先に見る」
ミオが答えた。
「何を変えたかは記録する。戻すかどうかは、帰りの状況を見て決める」
彼女は発声を落とした箱の符号へ印をつけた。
休憩を終えて進むと、床が乾いてきた。靴底に貼りついた湿った粉が、薄い塊になって剥がれた。
セナの灯りが止まった。
今度は隊員より先に、レンにも理由が見えた。
埃の上に靴の跡があった。
自分たちの足元から続くものではなかった。横の細い整備口から出て、奥へ向かっていた。縁はまだ崩れず、細い溝まで残っている。
ガドが誰も踏まないよう手で示した。
壁の角には、埃の剥がれた筋があった。肩より低い位置から、斜めに伸びている。筋の端で、薄い塗膜がめくれていた。
レンはそこへ自分の肩を近づけず、離れたまま見た。
「誰か、通ってる」
セナが言った。
跡の先には、まだ灯りが届かなかった。




