第16話 返事をしない盤
夕食の器を返したあと、レンは修繕場の床に散った削り屑を集めた。
椅子に座り、長い刷毛で足元へ寄せる。鉄の細い切れ端が穂先に絡んだ。指で取らず、木片で落とす。ミオに教わったとおりにした。
最後の屑を箱へ入れると、壁際の鉄板が見えた。明朝には旧保守口を塞ぐ二枚だった。留め具の袋も、その前に置かれていた。
「今日はもういい。膝を休めて」
ミオは机に向かったまま言った。灯りの下で、古い図面と書きかけの紙が重なっている。
「記録は」
「まだ。朝、もう一度聞く」
レンは刷毛を戻した。
「少し、外の空気を吸ってくる」
「遠くまで歩かないでよ」
返事をすると、行く場所まで聞かれる気がした。レンは杖を取り、戸口で一度だけ頷いた。
寝床へ寄って水の容器を持った。帯を締め直し、刀の鞘が脚に当たらない位置へずらす。腰の索を指でたどった。修理された鉤の先は、布越しにも硬かった。
炉へ入る許可を得たわけではない。昼の仕事に同行した許可が、夜まで続くわけでもなかった。
それでも、行き先を書き残す物を探しはしなかった。
外門の脇では、最後の荷車が空箱を積んでいた。レンはその横を通った。受け渡し場の庇には灯りが一つ残り、係が床を掃いている。柱から伸びる防護線の低い響きが、杖の音に重なった。
低い壁は柱の間から内側へ折れ、排水溝に沿って続いていた。レンは瓦礫の斜面へは出ず、壁の陰へ回った。
シグが座っていた。水の容器を袋へ収めると、問いもせず立ち上がる。左脚が伸び切るのを待ってから、歩き始めた。
「証印を取るだけだ」
レンはその背へ言った。
「まずはな」
「核は外さない」
シグは振り返った。
「今の二人で、何を運べると思う」
その答えでよいことにした。
排水口の横に、人の肩ほどの幅の窪みがあった。奥の格子は壁へ寄せられ、下に折れた蝶番が落ちていた。シグが袋から小さな灯りを出す。覆いをずらすと、下り階段の片側だけが照らされた。
最初の段には白い線が引かれていた。壁の札に、立ち入りを禁じる文字があった。
シグは札を避けて入った。
レンは白線の手前で杖を止めた。まだ、外の空気を吸って戻ったと言える場所だった。
奥から灯りが上がった。
「来るのか」
レンは右足を一段下ろした。
階段の底には水が薄く溜まっていた。湿った灰の臭いが、兜の隙間へ入り込む。低い天井から落ちる滴は冷たかったが、左の壁は暖かい。燈杭の炉へ近づいているのだと分かった。
通路の中央が、途中から緩く沈んでいた。
シグは壁際の狭い縁を照らした。
「真ん中には乗るな。下の支えが抜けてる」
灯りを下げると、床板の継ぎ目に黒い隙間が見えた。錆びた梁が、その下で斜めになっていた。
封鎖の理由は、本当にあった。
レンは左手を壁に添え、右手の杖を前へ置いた。足を揃えるたびに、膝の内側が引かれる。身体を捻らず、短く進んだ。シグも急がなかった。二人分の足音は揃わず、その間を水滴が埋めた。
扉の前で通路が広くなった。
壁に埋まった盤の上には、門回路照合と刻まれていた。下半分を覆う錆の筋が、細い溝を横切っている。扉の脇には把手があるが、軸を差す穴だけで握る部分はなかった。
シグは灯りを床へ置いた。盤の端を拭き、右の掌を当てる。
何も起こらなかった。
掌を少しずらした。装甲が石を擦る音がした。盤の下隅では小さな灯が一定の間隔で明滅していたが、表面は暗いままだった。
「動いてないのか」
「古いからな」
シグは手を離した。指を一度握り、開く。
「お前もやってみろ」
レンは杖を壁へ預けた。盤に触れると、表面の冷たさが手甲越しに伝わった。
細い線が掌の周りに灯った。
〈渡界者照合〉
〈照合成立〉
〈門回路応答なし〉
文字は盤に出ていた。兜の内側だけの表示ではなかった。レンが目を寄せる横で、シグも身を屈めた。
「あんたには、出なかった」
「接点が悪いんだろう」
「同じ場所だ」
シグは盤の端を爪で叩いた。ひびの中から、乾いた粉が落ちた。
「こいつは俺たちより長くここにいる。通じるときも、通じないときもある」
レンは手を離した。文字が消え、下隅の灯だけが残った。
「もう一度、触れば」
「門回路が返事をしない。照合できても、ここからは開かん」
シグは灯りを拾い、向かいの壁へ向けた。細い蓋の下に、四角い軸と折り畳まれた金属の棒があった。
レンは自分の掌を見た。同じ盤が、一人には答えた。その違いは、シグの説明だけでは埋まらなかった。
だが、もう一度試すよう腕を掴む代わりに、杖を取った。
シグは棒を軸へ差し、両手で押した。二度目で軸が回り、壁の奥から鎖の擦れる音がした。大きな扉は動かなかった。その横にある低い点検戸が、指一本分浮いた。
「手動なら、こっちだ」
中には管が二本通っていた。脇に一人分の隙間があり、先で右へ曲がっている。
レンは開口部の縁に座った。右脚を伸ばして入れ、左足で身体を押す。鞘が引っ掛かったので、手で持ち上げて向きを変えた。
膝が管の支えに触れた。
息が止まった。硬い装甲の内側で、傷めたところだけが熱を持った。押し込まず、少し戻して脚を浮かせた。
「無理なら戻れ。口は開けておく」
シグは通路に残っていた。引き返すなら、今度はあの沈んだ床を逆に辿ればよかった。明朝、塞がるのはこの口だけだ。ミオは正面の扉までなくなるわけではないと言った。
それを思い出せたのに、レンは膝の帯を緩めなかった。
一つ目の炉は止まらなかった。二つ目でも証印だけなら。結果を持って帰れば、ミオが出した紙に、もう一つ確かなことを書ける。
「行ける」
レンは左の踵で床を押した。
曲がり角の先で天井が高くなった。壁を掴んで立ち、シグから杖を受け取る。しばらく動けずにいると、男は横を抜け、先の戸の掛け金を外した。
熱い空気が頬へ流れた。
炉心室の裏側だった。
太い管が壁へ入り、円筒の胴を囲んでいた。金属の深い唸りが床から上がってくる。第一錨炉で聞いたものより一定で、止まる間がなかった。
シグは灯りで右手の扉を示した。
「表の保守通路だ。内側の横棒を抜けば出られる」
レンは位置を確かめた。入ってきた低い戸とは違い、屈まず通れる幅がある。扉の向こうから、遠い足音が一度だけ聞こえた。
柱の陰に二人で身を寄せた。足音が薄れたあとも、レンはしばらく息を抑えていた。呼び止められれば、ここにいる理由を言わなければならない。
円筒の手前に計器が並んでいた。内郭、外縁と記された窓には、それぞれ灯が点いている。少し離れて、大きな弁の輪があった。札には核保守用隔離弁と読めた。
レンはそこへ近づかなかった。
円筒の側面の、浅い窪みに目を向けた。蓋の形も、手首を受ける幅も、一つ目の炉で見たものに似ていた。
〈第二錨炉〉
〈認証未取得〉
今度の文字は、兜の内側に浮かんだ。
レンは杖を握り直した。炉の外では何日も待つしかなかったのに、ここでは腕を伸ばせば届いた。
背後で、シグが灯りの覆いを狭めた。
認証口の縁だけが、暗がりに残った。




