第11話 最初の証印
文字は、窪みの位置から動かなかった。
レンが顔を傾けても、〈認証口〉の表示はそこを指していた。手首の端子と同じ間隔で、小さな突起が並んでいる。
ここまで来た。
ガドは倒れた機体の向こうで、索の留めを確かめていた。シグは壁に寄り、右脚をゆっくり曲げ伸ばししている。出口へ続く廊下から、箱を置く音が聞こえた。
レンは杖を扉の内側へついた。
床に這う索を避け、左足を出す。右膝が痛んだが、止まるほどではないと自分に言い聞かせた。折れた扉と壁の間を抜けると、乾いた熱気が兜の中へ入ってきた。
円筒の表面には細かな溝があった。その下部に、箱のような塊が据えられている。認証口はその正面についていた。
〈錨核接続待機〉
ミオが廊下を戻ってきた。
「何かあった?」
空になった手を見て、箱は運び終わったのだと分かった。レンは窪みを指した。
「ここにつなげる」
「何を」
レンは左手を上げた。
核を外すわけではない。触れるだけだ。あの機械を止めるためではなく、目覚めたときから示されていた証印を受け取るために。
「待て、まだ調べて――」
ガドの声がした。
手首を窪みへ合わせた。
小さな突起が端子に収まり、左腕の内側を冷たい線が上がった。膝の痛みも、喉の渇きも、一瞬遠ざかった。
目の前が白くなった。
扉の位置は見えている。円筒も、壁の計器もある。その上に細い線が幾重にも重なり、一つの形へ集まっていった。
〈第一証印 取得〉
〈証印取得数 一/三〉
レンは息を吸った。
取得。
その二文字を何度も読んだ。最後の一画が消えないか、見つめた。表示は変わらなかった。
一つ、終わった。
灰の斜面で告げられたものが、初めて減った。食べるためでも、歩くためでもない。帰るために必要なことを、一つできた。
「取れた」
声に出すと、胸の奥から息が漏れた。笑ったつもりはなかったが、喉が短く鳴った。
「証印が、取れた」
ガドの手が肩をつかんだ。
レンは顔を向けた。喜びを伝えようとした言葉が、男の表情を見て止まった。
「手を離せるか」
レンは左手を引いた。端子は抵抗なく外れた。
表示は残った。
ガドは肩をつかんだまま、ミオを見た。
「どうだ」
「針は動いてない。接続する前と同じ」
ミオは壁の計器を見ていた。目盛を読んでから、足元の配管へ耳を寄せる。レンにも、低い振動が変わらず伝わってきた。
「出力は変わってないと思う。少なくとも、この計器では」
彼女は帳面に数値を書き、認証口の形も短く描いた。
レンは核を見た。今もここに据えられている。何かを受け取ったからといって、装置が空になったわけではなかった。
「何を取ったと言った」
ガドが尋ねた。
「証印。三つの炉でこれを取らないと、門を開けられない」
「誰がそう言った」
「目の前に出るんだ。ここへ来たときから」
レンは右手で自分の視界を示しかけ、杖を握り直した。
「俺にしか見えない。ミオにも、影縫いの表示は見えなかった」
ミオは頷いたが、それでガドの顔が緩むことはなかった。
入口からシグが覗いた。
「一つ目か」
レンが頷くと、男は核の下へ目を移した。
「なら、次はそいつを運ぶ準備だ」
取得数の下には、まだ条件が残っていた。三基から昇界門への接続。門衛の停止。そして、核を回収して搬送する推奨経路。
帰れるわけではない。
それでも、今ここで核を持ち出せば、また先へ進めるのではないか。
レンは塊の側面を見た。持ち手に見えた輪の脇に、刻印があった。擦れてはいるが、荷重を示す単位が読める。自分一人どころか、隊員たちと抱えても歩ける数字ではなかった。
輪も、人の手に合わせた大きさではない。隣の荷役場に落ちていた吊り鉤の先が、ようやく通るほどだった。
「吊り具を直せば」
「軌条からやり直しだ」
ミオが言った。
「持ってきた道具では無理。ここで核を動かせる状態にするだけでも、別の支度が要る」
「荷車に載せるところまでなら、何か」
「運ばん」
ガドが遮った。
「俺たちは部品の回収に来た。炉の核を外す許可は受けていない。帰り道も、これを載せる重さで選んじゃいない」
レンは足を動かそうとした。右膝が抜けかけ、杖へ体重が掛かった。
ガドの手に支えられた。
自分の身体さえ、まだ一人で運べない。
レンは下を向いた。核を取り出すための留め具は、足元のすぐ先にあった。触れようと思えば届いた。
手は出さなかった。
「場所だけ、残したい」
ガドは少し黙り、それからミオへ目を向けた。
「必要な表示を写したら出る。弁にも留めにも触るな」
ミオが紙を一枚ちぎり、レンに渡した。彼は書こうとして、細い筆を落としかけた。
「読んで。私が書く」
レンは設備番号と、荷役場を示す標示を読み上げた。ミオが入口からの曲がり角を書き足す。核の質量と、吊り具の規格も控えた。
紙を受け取るとき、レンは両手を使った。
ガドに支えられて部屋を出た。倒れた防衛機の横では、シグが残った拘束索を外していた。ガドも自分の側を回収し、二束を袋へ収めた。機体の中で肉が動いたが、脚の位置は変わらなかった。
給脂口脇の出口に、冷たい外気が届いていた。
荷車には部品の箱が縛られていた。隊員がレンの座る場所を空け、セナが袋を脚の下へ入れる。ミオは写した図面が濡れないよう、油紙で包み直していた。
シグは扉の内側に立ったままだった。
「来ないのか」
レンが尋ねた。
「別の接近路を調べる。歩けるうちにな」
右手の震えを、男は帯に差し込んで隠した。
「次は運べるようにして来い」
レンは頷きかけたが、隣のガドを見てやめた。
「まず、脚を直す」
シグは口の端を少し動かした。扉の奥へ戻り、灰白色の装甲が暗がりへ消えた。
荷車が動く前に、ガドがレンの前へ屈んだ。
「帰りたいのは分かった」
レンは顔を上げた。
「俺は、そのために――」
「帰りたいことを責めてるんじゃない」
ガドは荷車の縁に手を置いた。手袋の縫い目が、さっきの戦いで裂けていた。
「お前が何をするつもりか、俺たちは知らなかった。触った結果、出口が閉じるかもしれん。炉が止まるかもしれん。それを確かめる時間も渡さずに手を出した」
「止まらなかった」
「それは、あとで分かったことだ」
レンは言葉を失った。
ミオが箱の紐を締め直している。セナは帰りの道を見ている。二人の隊員は、また荷車を引く位置についた。
第一証印の表示は、まだ視界の端にあった。
レンはそれを見ないようにして、ガドの裂けた手袋へ目を落とした。




