第9話 洲本城陥落
天正十年(一五八二)六月八日 早朝 庄田城
馬が庭へ駆け込んできた。
「殿!」
船越景直は、まだ朝餉にも手を付けていなかった。
伝令は息を切らしたまま膝をつく。
「洲本城が……。」
景直の手が止まる。
「何だ。」
「落ちました。」
「誰の手に。」
「梅鉢紋にございます。」
景直は目を閉じた。
――やはり。
そう思った自分に驚いた。
半年ぶりに聞く、その旗印。
菅達長。
白巣で戦ったと聞いたが、消息は途絶えていた。
死んだという噂もあった。
阿波へ渡ったとも聞いた。
どれも確かな話ではなかった。
だが景直だけは、どこかで生きていると思っていた。
あの男は、そう簡単には死なない。
「馬を。」
短く命じる。
昼前。
洲本へ近づくにつれ、城山が見えてきた。
その頂に翻る旗を見た景直は、小さく息を吐いた。
間違いない。
梅鉢紋。
達長だった。
城下には、すでに淡路国衆の兵が集まり始めていた。
戦支度というよりは、何が起きたのか確かめに来たような空気である。
その中に、旧主・安宅信康の姿を見つけた。
「信康様。」
「景直か。」
景直は城を見上げたまま尋ねる。
「達長ですか。」
信康は苦笑した。
「そのようだ。」
「どうやって。」
信康は肩をすくめる。
「城兵が酒に酔っていた隙を突かれた、と聞く。」
景直は思わず顔をしかめた。
「……そんな話がありますか。」
信康も笑った。
「わしも信じてはおらぬ。」
二人はしばらく城を眺める。
あまりにも静かだった。
戦の後とは思えない。
景直はぽつりと呟く。
「達長らしい。」
「何がだ。」
「勝っても騒がぬ。」
信康は頷いた。
「さて。」
静かに槍を取る。
「城を取られたままというわけにもいくまい。」
景直も刀を帯び直した。
「参りましょう。」
洲本城への坂道は急だった。
汗を流しながら登る兵たち。
しかし誰も矢を受けない。
鉄砲も鳴らない。
妙だった。
やがて城門が見える。
門前まであと数十歩。
その時だった。
軋む音を立てて城門が開いた。
兵たちが一斉に身構える。
門の中央に、一人。
菅達長。
その後ろには十数名ほどの家臣。
達長は景直を見るなり笑った。
「遅かったな。」
景直は苦笑した。
「迎えてくれるとは思わなかった。」
「迎えには出た。」
そう言うと、達長は刀を抜く。
「ただし、この形でな。」
言い終えるより早く踏み込む。
景直も反射的に刀を抜いた。
鋼が鳴る。
一合。
二合。
三合。
速い。
互いの腕を知る者同士だからこそ、無駄がない。
だが景直は気付いた。
殺す気ではない。
「何を企んでいる。」
刀を合わせたまま問う。
達長は笑う。
「企みなど一つだ。」
「何だ。」
「城を取った。」
景直は睨む。
「その先だ。」
達長は答えない。
四合目で刀を払い、二歩下がる。
「景直。」
声だけが低くなった。
「秀吉は、退くぞ。」
景直の眉が動く。
「何だと。」
達長は笑みを戻した。
「伝えてくれ。」
「何を。」
「菅平右衛門達長。」
少し間を置く。
「洲本城、もらい受け候。」
それだけ言うと、踵を返した。
城門が閉まる。
静寂が戻る。
景直は刀を納めながら、城門を見つめ続けた。
(違う。)
(あいつは時間を稼いでいる。)
(だが、何のためだ。)
その時だった。
安宅信康が静かに言う。
「景直。」
「はい。」
「ここで国衆同士が争っても始まらぬ。」
景直は頷いた。
「秀吉様へ知らせます。」
「頼む。」
景直はもう一度、城を見上げる。
城門の向こうに達長の姿はない。
それでも、あの一言だけが耳に残っていた。
『秀吉は、退くぞ。』




