第10話 面会明石港
六月九日 播磨国・明石。
海は穏やかだった。
明石浦には大小の船がひしめき、その向こうには霞んだ淡路島の山影が横たわっている。
船越景直は、船を降りると深く息をついた。
(秀吉殿……。)
姫路まで、あるいは備中まで足を運ぶ覚悟でいた。
しかし、秀吉は明石にいた。
「庄田城の船越景直にございます。」
案内された陣所では、羽柴秀吉が地図を広げたまま座っていた。
戦続きとは思えぬほど衣は乱れておらず、その目だけが異様に冴えている。
「ほう、おぬしか。」
秀吉は顔を上げた。
「安宅殿の使者でございます。」
景直は平伏した。
「……淡路が騒がしいということか。」
その一言に、景直は胸を突かれた。
「はい。」
「申せ。」
景直は顔を上げる。
「菅平右衛門逹長が洲本城へ入りました。」
秀吉の表情は変わらない。
まるで、その報告を予期していたかのようだった。
「安宅殿は討ちに出ております。」
「戦は?」
「すでに一度、刃を交えました。」
秀吉は黙って頷く。
「……逹長は何と申しておった。」
その問いに、景直は一瞬だけ迷った。
「妙なことを。」
「妙?」
「秀吉様が退く、と。」
静寂が落ちた。
秀吉は笑った。
声こそ出さぬが、口元だけがわずかに動く。
「ほう。」
「備中高松を、でございます。」
「それで?」
「斬り合いながらでしたので、それだけでしたが。ただ、自信に満ちていると感じました。」
秀吉は地図へ視線を戻した。
「武士というものは、勝ちを信じねば戦はできぬ。」
それだけだった。
景直は探るように続ける。
「毛利方に何か動きがございましょうか。」
「さあのう。」
秀吉はさらりと受け流す。
「備中高松は間もなく片付く。」
「では……。」
「心配はいらぬ。」
景直は秀吉の顔を見つめた。
変わらない。
慌ても焦りもない。
だが、それが逆に不気味だった。
(何かを隠している。)
そう感じる。
しかし、それが何なのかは分からない。
秀吉が先に口を開いた。
「淡路は放ってはおけぬ。」
景直は思わず身を乗り出した。
「明日。」
秀吉は地図の上で指を動かす。
「明日、明石から渡る。」
景直は息を呑んだ。
「岩屋へ入り、洲本を片付け、それから尼崎へ向かう。」
その口ぶりに迷いはない。
景直の胸のつかえが少しだけ下りた。
(やはり。)
(秀吉は動く。)
逹長の言葉は、ただの虚勢だったのだ。
秀吉は硯き寄せた。
「待て。」
筆を執る。
さらさらと紙を走る音だけが部屋を満たした。
一通。
二通。
墨が乾く間も惜しむように、次の紙へ移る。
やがて筆を置くと、一通を景直へ差し出した。
「これは安宅殿へ。」
さらにもう一通。
「こちらは広田蔵之丞へ。」
景直は両手で受け取る。
「高田長左衛門を岩屋城へ置け、と伝えよ。」
「はっ。」
「それと。」
秀吉は景直をまっすぐ見た。
「達長が城を退けば、すぐ知らせよ。」
「承知いたしました。」
景直は深く頭を下げる。
秀吉の言葉に嘘は感じられない。
明日、本当に来るのだろう。
景直はそう信じた。
退出しようとした、その時。
秀吉が何気なく尋ねた。
「景直。」
「は。」
「逹長は、ほかに何か申しておらなんだか。」
景直は考える。
あの時。
洲本城門前で切り交わした際の声。
『秀吉は引く。』
『秀吉に伝えよ。』
そこまでだった。
「……いえ。それだけにございます。」
秀吉は小さく頷いた。
「そうか。」
景直は部屋を出た。
海風が吹く。
淡路へ戻れば、安宅信康が待っている。
秀吉は来る。
そう伝えねばならない。
景直の乗った小舟が明石浦を離れるころ、秀吉はなお地図を見つめていた。
やがて黒田官兵衛が静かに入ってくる。
「殿。」
秀吉は顔を上げない。
「景直は帰ったか。」
「はい。」
長い沈黙。
秀吉はゆっくりと筆を取り直した。
「……次だ。」
白紙が広げられる。
宛名は、
織田三七郎信孝。
その筆先は、先ほどまでとは違う速さで走り始めた。
海の向こうへ向けた約束と、
天下へ向けた決断。
その二つが、同じ一日の中で静かにすれ違っていた。




